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わたしの年末風物詩、ひとり第九。

今年で11年目になる。
20代後半、『大人な女性』になりたくて"少し背伸び"をしてみようと思った頃があった。
わたしの歴史の中では"暗黒の20代後半期"である。
そこを何とか打破したくて、決めたことが2つ。

・毎年1回は、オーケストラのコンサートにお洒落して行くこと。
・いい時計を買って長く使うこと。

はぁー?って思うでしょ。
それで?だから?って。
でも、当時の私にはこれが精一杯の『大人への通行手形』と期待して頭をひねって考えた、ひとつの答えだった。


大人ってなんだろ?って、ハタチになったときから悶々としてた。


ー大人なるってなんだろうー
選挙権が必然と与えられ、年金に加入で支払いが始まる。
でもまだ大学生になりたてで、
親のスネをかじって生きてる。
子供なのに大人の仲間入りといわれ、
そのギャップをずっと埋められずに、もがいてた。

それは卒業して就職してからも続くことになった。
仕事をして自分で生活することを始めてもなお、
「おとな」とは程遠い気がしていた。
でも、本当のところは、別に「おとな」になりたかった訳じゃなかった。

素敵な女性になりたくて、
丁寧な暮らしをしたくて、
こころにゆとりがほしくて、
人に優しくしていたくて、
でも自分のこともままならなくて、
心身のバランスがぐちゃぐちゃだった。
(その頃はもう生活態度がひどかった!)


ひとり第九で想いを馳せる時間。

これで本当に「わたし」は大人の階段を歩めるのか、そこに答えはないのは薄々分かっていた。
それでも初めての第九。
久しぶりに心が踊ったのを良く覚えている。

初めてのプログラムは、新日本フィルの公演。
第一部は約20分のプログラムで、第二部が第九。
一部のあと、20分の途中休憩があった。

履き慣れないブーツのヒールに、途中休憩の時にラウンジで頼んだ一杯1000円以上のシャンパン。
ドキドキした。
そして静かに一年の総決算をするには、十分なシチュエーションだった。
わたしには時々書く日記がある。
その日、なんとなく日記とボールペンを持参して会場に向かった。
シャンパンを飲みながら、ふと日記を開き書き始めると、塞き止められていた何かが吹き出すように、
言葉とペンを走らせる手の速度が噛み合わないくらい、想いが溢れだして止まらなかった。

泣いていた。
こぼれ落ちた涙が日記の文字を滲ませていく。

再開のブザーが鳴り響く。

周囲の人たちは、そんなわたしの姿を見て驚いていたかもしれない。
でも、そんなことは正直どうでも良かった。
あわてて席へ戻る。
はじめてのひとり第九が幕を開けた。

第九の醍醐味!

第九は言わずと知れた、ベートーベンの交響曲9番のことである。
よく耳にする合唱は、第四楽章のしかも後半ということをご存知だろうか?

第九は第一楽章から第四楽章の4部構成。

第一楽章は、不穏な響きを感じさせながらも、それでいて神秘的な出だしからはじまり、主題が展開される。それはベートーベン自身の苦悩を表現したともあるともいわれ、力強い響きで進んでいく。

第二楽章は、ティンパニとオーケストラの掛け合いのような形で展開し、リズミカルでダイナミック。

第三楽章は一転、穏やかで川のせせらぎのように甘く優美な調べ。

そして第四楽章。それはこれまでの第一から第三の主題を繰り返したうえで、『いや!違うのだ!こうではないのだ!もっと歓喜に満ちた詩を謳おう』と、あの有名な旋律が密かに隠されつつオーケストラで演奏され、その後、バリトンがいよいよ『おお友よ、こんな音楽はやめて、もっと歓喜の歌を歌おう!』と先陣を切って導入される。

それから合唱も挿入され、オーケストラと合唱とが混ざり合いながら、勇敢なマーチを奏でつつ、フィナーレへと向かう。


ここで特筆すべきことは、
ベートーベンが"初めて合唱付きというスタイルをオーケストラに持ち込んだ"ということ。
それ以前にも合唱付きはあったが、合唱を交響曲の一部として役割を持たせて成立させたのは、恐らくベートーベンが初めて(のはず)。

面白いことに、一冊の物語を読むような感覚があった。登場人物(いるかわからないけど)の苦悩や葛藤とわたしのそれが重なって、演奏中、ずっと泣いていた。

それ以降、なんとなく、自身の一年のイメージを各楽章に当てはめて聴くようになった。
第一楽章の年もあれば、第二楽章の年もあり、
牛歩並でも階段のように登って、なんとか第四楽章までいったな、という感覚になった年もあった。
また、一年というタームを振り返って聴いてみたとき、これもまた自分の「主題」のようなものと重なることもあったりで、『第九とわたしの歴史』はリンクしながら積み重ねられてきた。

誰にでも、どこかに響くポイントがある。
それが第九。

毎年感動が異なる、その年の第九。

で、今年はどうだったかというと、去年とは違った感動がやっぱりあった!
今年は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。
https://www.cityphil.jp/concert/detail.php?id=133&
実は、第三楽章までは「いまいち」というか「普通だな」と思っていた。

こうも毎年同じ曲を聴いてくると、メロディや旋律も覚えてくるし、楽器の垣根を越えた「主題の引き渡し」のようなものまで、飛び出る絵本みたいに見えてくるようになる。
そしてオーケストラや、なんなら指揮者によって、
その曲相は全く変わってくるから、やっぱり奥が深いなーと思いながら、毎年なるべく違うオケの『第九』を選んで、解釈の違いを楽しんでいる。


昨年はN響を聴きに行ったのだけれど、昨年は指揮者が本当にクレバーでスマートな演奏だった。
曲そのものの捉え方が、今まで聴いてきた第九とは異質で、テンポもとても早かった。
最初びっくりしたくらい。
え?このテンポでいくんですか?と。

そして決して鳴り響かせて力業で魅了する感じではなく、あくまでも「引き立たせるところは引き立たせる」という、引き算の美学のような演奏。
ボリュームはそれほどないが、音がまとまって丸い粒になって、スコーンと遠くまで届いていた。
それにとても感動した。
それまでは、中止人物のようなソリストたちがいて、回りは背景のような感じだったけれど、
その演奏はカリスマはいないかわりに、
みんながバイプレイヤーズみたいな感じだった。

そんな去年の感動からの、今年の「普通」だったものだから、なんかいまいち感が拭えずにいた。
このまま終わるのかー、と思ってた。
まさか、最後の最後に、胸が熱くなる感動を頂けるとも知らずに。

わたしが心を動かされる瞬間。

今年のプログラムは、正直、弦楽器がメインデッシュです!と言わんばかりの音の鳴らし様で(笑)
主張もパッションも、それはもうみんな、アグレッシブ!で、イケイケなオケだった。

わたしのルールというか、心がけならぬ耳がけとして、第三楽章までは目を閉じることにしていて、
それは奏でる音や、響き、ハーモニーに集中したいから。
どうしても、目を開けて聴くと視界に入る動きなどに意識が持っていかれ、なかなか入り込めない。
第四楽章になると、その光景を目に焼き付けたくて、ようやく重たい瞼を開けるのだ。

目を開けて真っ先に飛び込んだのは、「指揮者の動きの激しさ、大きさ」
全身運動かと思うほどの運動量。
でも、その動きに鼓舞されるかのように、みんながみんな、身体が揺れまくるほどに一生懸命に奏でていた。

これまでの第九と今年の第九の決定的な違い。
それは「熱量の大きさ」と「一生懸命さ」だった。

通常はオーケストラの演奏に対してタクトを振る指揮者が多い中で、今日の彼は、合唱団にも熱くパッションを飛ばし続けていた。
今までで一番、『合唱』が素晴らしかった。
合唱のボリュームがあれほどあればこそ、
オケのボリュームもあれほどあって良いんだな。
やっと理解できた。

感動って、何かに心が動かされる瞬間に産まれるものだと思う。
そして、ひとが何かにひたむきに、一生懸命な姿を見たとき、痛く感動する。

何に一番感動したかって、
終わったあとの瞬間だったのも新しい感動だった。
終わったあとの指揮者は、疲労困憊。
まるでフルマラソンを走りきった人みたいに、肩を大きく上下させて、息を切らしていた。

終演後、通常は3回ほど拍手喝采シーンが訪れる。
一回指揮者が裏手へ戻り、拍手でステージへ戻る。
ソプラノ、アルト、テノール、バリトンのソリストたちも同様にステージ前へ誘われて。
だいたいそれが3回繰り返される。
各楽器のメインプレーヤーもstand up、
そこでまた拍手喝采。

けれど、今年は合唱への拍手がとても大きかった。
やはり、合唱は素晴らしかったのだ。
そして合唱の指揮者(練習の時に指揮する人)を手招きし、ステージへ乗せて拍手を浴びさせた指揮者の計らいにまた、目頭が熱くなった。

そういう人の行動って、本当に感動する。
演奏がお開きになっても、合唱隊が退場するまでスタンディングオベーションで暖かな拍手を送り続けるオーディエンスが多かったのも、感動した。

演奏において自己主張もするけど、相手にも拍手をちゃんと送り讃える姿が、このオケにはあった。
それを観衆もまた感じ取っていて、それに加わっていく。
帰り際、オケの団員たちがロビーで見送りをしてくれた。
ホスピタリティーが伝わってきて、帰る頃にはすっかり『やっぱり今年のプログラムも最高だったな』と思える自分がそこにいた。

最初は期待してなかったけれど、
最後は全然違うところでやっぱり感動した。だから第九はやっぱり面白い。

あれから、11年。
背伸びは足が吊るから無理はしない。
ほんの少しだけ、いつもよりお洒落はするけど、
ヒールを履かなくても、飲み物がコーヒーに変わっても、もしかしたら、誰かにとっては小さなことでめちゃくちゃ感動できることに出会えることがあって、それがどれだけ幸せで有難いことか。
ちょっとずつだけど、分かってきた。

「おとな」になるのが大切なんじゃない。
感動できる「こども」の心を持っていること、思い出すこと、人によっては取り戻すこと。

まだまだ子供のままかもしれない。
それでも、がむしゃらでいたいと願う40代目前のわたしがいる。

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