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他人の命を預かる重さ

こんばんは。
お久しぶりの投稿になります。

すっかり秋めいてきて、夜は肌寒いくらいですね。
わたしはこのくらいの気候が一番好きです。

先日、とても心が痛むニュースを見かけ、何日経っても気持ちがもやもやしているのでこちらに書くことで消化したいと思い、文章を作っています。

わたしは4年ほど前、勤めていたライブハウスを退職し、保育士として都内の保育園で働いていました。

21歳で専門学校を卒業した際、就活をしなかったのはライブハウスでの仕事が楽しかったことが一因ですが、タイトルにもした"他人の命を預かる"ということに責任が持てる自信がなかったからでした。

25歳になり、そろそろきちんと自分の人生と向き合いたい、せっかく取得した資格をいかして生きてみたい、と思い、保育士として一歩を踏み出したわけですが、なかなか上手くいかず。

命を預かる、ということと同時に、彼らの人生のうち、たった一度しか訪れない乳幼児期の一日一日を未熟な自分のせいで充実させてあげられないということに絶望し、結局辞めてしまったのですが、これは決して子どもが苦手になっただとか、シンプルに仕事がきつい(実際これはありますが)とか、そんな簡単な話ではなくて。

今でも子どもは大好きですし、子持ちバンドマンの皆様はシッターやるので声掛けてくださいと思っています(余談)
それ程までに子どもが大好きだからこそ、大切で大好きでかけがえのない子どもたちに満足いく保育を与えられない自分が嫌になってしまったんですね。

だから、暑さが酷いバスの中で、たった一人で亡くなっていったあの子はどんな気持ちだったろうと考えると、息が苦しくなります。

報道では運転手をしていたご年配の男性が悪いという印象を受けましたが、実際保育の現場にいた人間としては、欠席連絡が入っていないことに気づいた段階でご家庭に連絡を入れなかった担任にも、そんな状態での保育がまかり通っていた園自体にも責任があると思うのです。

朝礼の際、副担任の先生が「〇〇ちゃん、欠席連絡ないのに来てません」と担任に報告したそう。
「あ、そうなんだ」で流されてしまったようですが、その時にご家庭に電話していれば、バスに乗ったということは確認できたはずで。
バスに乗ったのであれば、園内にいない時点でバス内に残っているというのはすぐに分かったことではないでしょうか。

そして、その時点では彼女はまだ生きていて、すぐに適切な処置をしていれば今頃元気になっていたはずです。

小さな身体で必死に耐え、持参した水筒の中身を全て飲み干し、自分で服を脱いで暑さをしのごうとしていたという話を聞き、最後の最後まで生きることを諦めなかったこと、そして信頼していた先生たちのせいでこんな結末になってしまったということを考えると、いてもたってもいられない気持ちになります。

昨年も同じように亡くなった子どもがいたのに。

子どもたちに学びの機会を作る大人たちが学ばないのでは、先生などと名乗る資格はありません。

どうかこのような事件(あえて事故ではなく、事件と書かせていただきます)が二度と起こりませんように。
この件を機に、漫然と保育をしている全ての人の気持ちが引き締まりますようにと、頼りないながらも祈っています。

追記
よく考えたら自分も幼稚園にバス通園していたなぁと思い出したのですが、記憶を辿るとバスに乗車する際に先生が名簿にチェックしていたし、なんなら席も決まっていたような気がします。
座席表を日数分印刷しておいて、毎日乗車した子どもの名前にチェックを入れ、各担任がそれを確認出来るようにしておけば、このようなことは起こらなかったのではないかなと思い至りました。

クラクションを鳴らす練習をするだとか、靴を脱いでバスに乗るだとか、子どもに負担をかけるような提案が目立ちますが(それらを否定している意図はありませんが)そうではなくて、もっと根本的な解決策を、各施設が検討し、実行していくことが再発防止に繋がると思います。

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