2-15. 幸せをわざわざぶちこわすということ
青い空。
脱ぎ散らかした服みたいな雲。
秋の初めのはずなのに、まだ夏がずっと続いているような日差しの下、私とジョージを乗せたフェリーが進んで行く。青い波の上に見えてきた島には、茶色い大きな煙突とクレーンがそびえていた。
2年に一度行われるアートイベント、シドニービエンナーレ。その会場であるコカトゥアイランドという島はシドニーハーバーからわずか20分ほどの船旅だ。
かつて造船所だったという島のあちこちにアートが設えられており、私はまるで宝探しをする子供のように、わーとかおーとか言いつつ、作品をiPhoneのカメラにおさめた。
「きっと好きだと思ったよ」
連れてきてくれてありがとう、と何度も繰り返す私に、したり顔でジョージは言った。
島の中心には小高く隆起した岩があり、シドニーハーバーを見下ろせる高台になっていた。ハーバーブリッジを望む絶好のロケーションにビーンズバッグがある。ジョージは私にビーンズバッグを確保するように言いつけると、そばにあるカフェへコーヒーを買いにいった。
私はビーンズバッグを2つ引きずって隣同士に並べると、その一つに寝転んだ。私にしては早起きしたせいか、それとも急な勾配を登ってきたせいか、体が心地よく疲れていた。
「はい、フラットホワイトだよ」
目を開けると、ジョージがコーヒーを差し出していた。ありがとう、と言いながら受け取り、私はゆっくりと口をつけた。しっかりとしたエスプレッソが泡立てられた温かいミルクと混じって口の中に広がる。カプチーノでもカフェラテでもない、このオーストラリア独特のコーヒーが好きになってまだ3週間ほどなのに、私はもうフラットホワイトの専門家になった気がしている。
ジョージは隣のビーンズバッグに中年男性らしく腰を下ろすと、自分のカプチーノを一口飲んで幸せそうなため息を漏らした。
フランジパニの花が海からの風にかすかに揺れている。
そのまま私たちは、特に何も喋らず、ただ海を眺めながらコーヒーをゆっくりと飲んだ。
と、思っていたら、ジョージがコーヒーを持っていない方の手を伸ばしてきて、空いている私の手を握った。まるでコーヒーにミルクを入れるみたいに、帽子をちょっとかぶり直すみたいに、当たり前だと言わんばかりのさりげなさだった。
急に、何の前ぶれもなく、心から苦しいくらいの感謝の気持ちがあふれてきて、私は混乱した。まるでパニック発作みたいだった。
“I’m so happy”
幸せすぎてなんだかわからない、私はジョージに言った。どんな顔をしていいかもわからなかった。涙が浮かんでくるのがわかった。
空は青く、木々はのどかに揺れていて、目の前にはシドニー湾の美しい眺めが広がり、鳥たちがさえずっている。行き交うボートが、白い波を立て、後ろの方で子どものはしゃぐ声や人々の笑い声が聞こえる。
ビーンズバッグはふかふかで、伸ばした足はまっすぐ。このスニーカーでこれからどこへだって行ける。働かなくてもいいのだ。働きたければ、働くこともできる。
そして隣には、私のことを気遣い、今この瞬間を同じように楽しんでいる優しい男の人が、ちょっとぽかんとした表情で私を見ていた。
「幸せなの。ありがとう」
私はもう一度繰り返した。
「そのコーヒーそんなに美味しかったの?」
ジョージは冗談めかして自分のコーヒーを横に置いた。私は最後の泡だったミルクを飲み干した。美味しかった。
「ありがとう」
ビーンズバッグに身体を投げ出し、空を仰ぐ。雲がゆっくりと流れて行く。
「今日本当に来られてよかった」
「シドニーにいる間にビエンナーレがあって、ラッキーだったね。次は2年後だ」
言わなければ、と思った。
おそらくもうここに来ることはない。だから、思い出にならないこの場所で聞いておきたかった。
「2年後、来られるかな?」
「もちろんだよ、シドニーにまた来ればいい」
ジョージは軽く請け合った。
「違うの、そういう意味じゃなくて」
私は顔をジョージの方に向けた。
「2年後、私たちは、ここにまた来られるかしら?」
ジョージは空を見ていたが、私の言葉の意味を理解すると、やおらサングラスを取り、私の方に顔を向けた。
「ひとつ聞いていいかな?」
鳶色の目はまっすぐに私の目を見つめていた。
「ずっと恋人がいなかった、と言っていたよね。だからオーストラリアに来たんだと。もし恋人ができたら、その先に君はどういう人生を描いていたの?」
今度は私が息を詰める番だった。
そんなこと、考えてもいなかった、というのが正直なところだ。ぼんやりとしたイメージがなかったわけではない。恋人と結婚して、子供をもうけて、家と車を買って生きて行くのだと思っていた。
でも何よりもまず、私は恋がしたかった。自分の心が震えるような相手と、星を眺めたり、海に入ったり、抱き合って朝を迎えたりしたかった。
「今までは、誰かと真剣に向き合って、この世の中の美しいものを分かち合って、一緒に笑いあえる相手が欲しいと思ってた」
そう、それだけでいいと思っていたのだ。婚姻届も住宅ローンの審査も基礎体温表も、どこか遠い国の文化を聞くような気分だった。
ーーでも今は。
私はジョージのことを本当に好きになっていた。ずっと一緒にいたいと思っていた。
「でも今は、好きな人とずっと一緒にいたい。好きな人の子供を産んで、育てていきたい」
それは初めての感情だった。
この善き人の遺伝子を、自分の一部として受け取り、次の世代へ残したいと思った。
いつも物事の良い面を見ようとするところ。
毎朝ハーブティーを枕元に持って来てくれるところ。
笑顔で人に話しかけるところ。
愚痴や泣き言を批判せず聴いてくれるところ。
私を楽しませ、くつろがせ、笑わせてくれるところ。
私が人生でやりたいことを達成できるように励ましてくれるところ。
心配ごとを吹き飛ばしてくれる大きな笑い声や、器用に自転車を修理する指先や、カヤックを押しだすふくらはぎのカーブや、クロスワードを魔法のように解いてしまう頭脳や、地図に見入る時の瞳のきらめきを、よりこの世の中に長く留めておきたかった。
私の言葉を聞いたジョージの目は、今まで見たことのない色を浮かべていた。
「君がそういう未来を望んでいるんだったら」
末期がんを宣告する医師のような誠実さと真剣さで、ジョージは言った。
「僕にはそれはできない」
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