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2-11. 人生にはいくつかの特別な朝がある

目を覚ましていちばん最初に思ったのは、自分のしでかした既成事実だった。
なんということはない。単に、成人した男女がベッドをともにしたというだけのことだ。ジョージがいい人だということはわかっていたし、この行為に特別な意味はないこともわかっていた。少なくとも彼にとってはそうだろう、と私は勝手に決めつけた。

けれど、私にとっては、少しばかり特別だった。
多分初めて、自分で選び取ったセックスだったからだ。

大学1年生の時に、好きでもなく好かれてもいない男の子と半ば成り行きでことに及んだのが初めてだった。
女としての自分に自信がなかったのだと思う。その時はとにかく「彼氏」という存在が欲しくて常に寂しさを感じていた。もちろんそんな理由で付き合いだした関係がうまく行くはずもなく、その人とは数ヶ月で別れた。その後も私は同じことを繰り返していた。誰かにそばにいて欲しくて、異性に少し優しくされただけでその気になり、すぐに相手に何もかもを与えて自分を見失い、結果都合よく扱われたり幻滅されたり引かれたりした。

セックスは「相手の機嫌を損ねないため」か「いっとき不安を忘れるため」の行為だった。「自分は愛されていないのではないか」「これから先もずっと愛されないのではないか」——そういう不安からNOを言えずにいた。だって、もう二度とこんな風に求めてくれる人は現れないかもしれないでしょう? 今までずっと愛されて来なかったのに、これから先まともに愛してくれる人が現れるなんてどうして信じられるの? 毎日どんどん年をとっていくばかりなのに!!

傷つくたびにその恐怖は雪だるまのように膨れ上がり、私は自分を守るために何重もの鎧を身につけるようになった。相手は身体目当てなのだと思うこと。男性を見下すこと。深入りせず、期待もしないこと。

29歳になって、自分が処女をなくした19歳の時から経験人数が増えただけで何も変わっていないと気づいた時、私は自分をいったん恋愛やセックスから遠ざけようと考えた。29歳の誕生日に、これからは大切にできる相手とだけしかしない、と心に決めた。

3年と2週間が過ぎた今、窓からはやわらかな光が差し込んでいて、壁にぼんやりとした影絵を作っている。
まるで別の国にいるみたい、と考えて、私はひとりで笑ってしまった。だって、別の国にいるのだから。

ジョージは隣でまだ安らかに寝息を立てている。やっぱり大型犬だなぁと思う。ゴールデンレトリーバーかバーニーズマウンテンといったところだろうか。

天井を見ながら、昨夜何が起こったのかをゆっくりと思い返してみた。
柔らかく温かい手が腰に回されたことも、胸と胸が触れ合ったことも、ジョージの鳶色の目の色を綺麗だと思ったことも——。

自然な流れだったように思えた。私はその時、その流れに乗ってみたいと思ったのだ。ウルルでカイに対して感じた強い警戒心はそこにはなかった。「好きになって欲しい」「相手に悪い」「相手に気に入られたい」という期待や計算や遠慮もなかった。嫌なら、嫌と言えたのだ。断っても、ジョージが激昂したり無理強いしたりするような人ではないことはわかっていた。

この人なら大丈夫だ。そういう声が自分の中で聞こえた。その声に、その流れに、飛び込んでみた。急流に笹舟を浮かべるような賭けだった。けれどそんな意気込みは必要なく、相手に委ねるだけで、自然と事は進んだ。

ゴールデンレトリバーが低く唸り、太い腕を私の身体に回した。私はジョージの方に向き直り、彼の肩口に額を当てた。ジョージは左手で私の背中を、次いで腰とお尻を撫で、やおら目を開けた。

その瞬間、私は恐怖とパニックが私をとらえた。私は彼を幻滅させただろうか? 寝たふりをしておくべきだったのでは? メイク落としも乳液もなかったから昨日はお湯で顔を洗っただけだ。朝日の下の肌はガサガサなんじゃないか? 歯磨きもせずに寝たから口が臭うかもしれない。キスされたくないけど、でも起きてキスもされないというのは、冷められたサインに違いない。彼は昨日のセックスに満足しただろうか? 私はきっとぎこちなかった。むだ毛だって剃っていなかったし、怖くて最初は震えていた。がっかりさせた? そもそも晩御飯を食べにきてそのままベッドになだれ込むなんて、ずうずうしいバックパッカー、ふしだらな女性、イージーな日本人と思われた?

そして何よりも——私は、私たちは、これからどうすれば良いのだろう?

“Good morning.”

青とグレーの中間の色をした瞳は私をまっすぐに見つめていた。
私の瞳は彼の瞳にどう写っているのだろう。

“Good morning.”

私も囁き返し、その後のジョージの言葉を、まるで判決を聞く死刑囚のような気分で待った。さようなら、早く出て行ってくれないかな、一回寝ただけで彼女ヅラとかしないでね、楽しかったよ、気をつけて旅を続けてね。

“Would you like to have a tea?”

お茶を飲む? そう穏やかな声でジョージは尋ねた。何も含みや遠慮のない、言葉通りの意味の質問だった。気まずくならなかったことにほっとして、Yesと私は頷いた。

ジョージは左手を私の頬に当てると、ゆっくりとした動きでおでこに軽くキスをして起きあがった。電気ケトルにお湯を入れて沸かす音が聞こえた。私は天井を見つめながら、先ほどと同じく、とりとめのない不安を粘土のようにあれこれと頭の中でひねくり回していた。グレーの粘土は手のような形から脳の形になり、ペニスの形になり、赤ん坊や家や車の形になり、お金や地球や飛行機や棺桶の形になったりした。けれどもハートや指輪の形になることはないようだった。

「ハーブティとブラックティ、どちらがいい? ハーブティはペパーミントとカモミールがあるけど」

ジョージの声が聞こえ、私の頭の中の粘土はいったんティーカップの形になった。

「カモミールをください」

カモミールの鎮静作用に期待しながら、私は一つ大きく息を吐いた。いろんなことをぐるぐると考えてしまう自分の癖はよく知っていたものの、心を—— 正確には身体もだが——許した男性が自分を気遣ってくれているのに、あまり他のことを考えすぎるのも失礼な気がした。

「どうぞ。熱いから気をつけてね」

マグカップになみなみと注がれたハーブティをゆっくりと飲むと、少しだけ気分が落ち着いた。奇怪なメデューサのような形になっていた脳の中の粘土は、ハーブティの熱さに溶けてどこかに見えなくなってしまった。

ジョージは自分にもコーヒーを淹れると、ベッドに戻り、壁に持たれてゆっくりとコーヒーを飲んだ。飲みながら、空いている方の右手で私の左手を取り、優しく撫でた。

「気分はどう? 昨日は眠れた?」

なんということのない問いかけだったが、気遣ってもらえたことが嬉しかった。

「うん。そうね…。」

3年ぶりに、しかもあまりよく知っているとは言えない関係の男性と初めて一緒に過ごした夜にしては、よく眠れた方だろう。

「実は、よく覚えてないというか…..頭が混乱してる気がする」

——私は大丈夫だった? あなたを失望させなかった? この先一生一緒にいてほしいなんて思ってない、けれどあなたにとって残念な思い出にはなりたくない、でも面倒くさい女だとも思われたくない…。

メデューサが再度動き出しそうになるのを感じて私はお茶をもう一口飲み、その恐怖を鎮めようとした。温かいお茶が、ゆっくりと胃に落ちていくのがわかった。

「混乱? 何か君を困らせるようなことを、僕はしたかな?」

ジョージは心配そうに私を覗き込んだ。私は首をふった。

「違うの、あなたのせいじゃない。ただ、すごく久しぶりだったから」
「そうなの?」

私は頷き、言葉が見つけられない気まずさを、お茶を飲んでごまかした。
ジョージはコーヒーをベッドサイドテーブルに置くと、私からマグカップを取り上げ、その横に置いた。

「混乱させてごめんね」

ジョージは優しく言い、私の髪を撫でた。

「嫌だったら嫌と言って。君が嫌がることはしたくないから」

どうしたらこんなに優しい瞳で人を見れるのだろう?

「僕は君に、リラックスして気持ちよくなってほしいんだ。もし嫌だったり痛かったりしたら、ちゃんと伝えてほしいんだけど、それはできる?」

ジョージの指が耳たぶを愛撫するのを感じながら、私は頷いた。

「Good」

ジョージは眼鏡を外し、私をもう一度ベッドに横たえた。

(Cover photo by Sarah Brown from Unsplash)

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