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2-12. 現実のシャワー

——こんなに広い土地にいるのに、たった一人のことしか考えてない。

ホステルに戻り、私はシャワーを浴びた。
1分ごとにジョージのことを考えているようだった。
私を包み込んで来た彼の長い腕。抱えきれないくらいがっしりとした肩。汗にもつれた髪の毛。その太さからは想像もつかないほど繊細な動きをする指。耳元で聞こえた呻くような息遣いなどが、スローモーションのように何回も頭の中で再生された。

好きだなぁ、と思う。

世界中の良いものが、すべてジョージに詰まっているように思えた。
明るさや、人なつこさ。強い心。思いやり。優しさ。自信。
朝のひだまりの中で、コーヒーを飲みながら読書しているジョージは、心からのんびりしていた。サッカーとサイクリングで鍛えたふくらはぎのかたちはとても綺麗だった。

二段ベッドの薄いマットレスの上で昨夜から今朝にかけて起こった出来事を思い返し、私は心地よい気だるさを感じていた。
セロトニンが出ているのだな、と思う。この気持ちが単なるホルモンのしわざに過ぎないと頭ではわかっているつもりでも、彼とのことを考えずにはいられなかった。

と、部屋のドアが開き、ホステルの管理をしている女性が現れた。確かアマンダという名前だったな、と彼女のピンク色の髪を頼りに記憶をたぐっていると、彼女が私を認めて問いかけた。

「あなたが、Miya?」

そうだけど、と答えるとアマンダは少し当惑したような、しかし事務的な口調で言った。
「あなた今日チェックアウトよ、もう出て行く時間を過ぎてるわ。荷物をまとめるのにあとどれくらいかかる?」
「え?」

私は慌ててブッキングの日付を思い返した。
「確か延長の手続きを…」
そこまで言いかけて、私は気づいた。昨日ジョージと出かける前に延泊の手続きをしようとしていたこと。けれどレセプションに誰もいなかったため、帰宿した時にやろうと思って先延ばしにしたこと。そのあとジョージの家に結局泊まってしまったこと…。

つまり、延泊はされていないのだ。
「ごめんなさい、延泊の手続きをしたいと思っていたのだけど、昨日レセプションに誰もいなくてできなかったの。今日からあと一週間延ばしたいのだけど、できる?」

私は財布を掴み、レセプションに向かおうとビーチサンダルをつっかけた。
アマンダはにべもなく言った。
「悪いけど、今日はもう予約で満室なの。このエリアには他にもホステルはたくさんあるから、ほかを当たってね。とにかくそのベッドは別の人が使うから、あと30分で出て行って」
よく見るとピンク色とオレンジ色が混ざった彼女の髪の毛をどこか他人事のように眺めながら、「Okay」と言うのが精一杯だった。

とりあえず荷物を手当たり次第放り込み、ぱんぱんになったスーツケースとバックパックを抱えて正午近いシドニーの街中に私は放り出された。シャワーこそ浴びてはいるが、ステイタスとしては、いわばホームレスだ。

帰る場所がない、と言うのがこんなにも心細いものだとは想像以上だった。
計画性のない自分、物忘れのひどい自分、物事を先延ばしした自分に対して、どうしようもない怒りと失望と悲しみが押し寄せた。自分の迂闊さのせいで、シドニーで過ごすこの美しい一日が、無駄な一日になってしまったことも残念だった。

空いているホステルを検索したかったが、そもそもwifiがない。巨大なスーツケースを抱えて図書館へ行くのは憚られたし、オーストラリアにはスターバックスがほとんどないのだと昨日ジョージに教えられた事実が頭をよぎった。

——こうなったら、一軒一軒、目についたホステルに飛び込みで聞いて行くしかないか。。。

照りつける日差しの中、25kgの制限重量ギリギリまで荷物を詰め込んだスーツケースを引きずりながら、私はトボトボと歩き出した。バックパックが肩に食い込んで痛い。その時、残り少ない電池の携帯電話に、ジョージからメッセージが届いた。

「調子はどう? よかったらランチを食べに来ない?」

一瞬躊躇したものの、半ばどうにでもなれという気持ちになって私は返信した。

「ありがとう。ランチには行きたいけど、ホステルを追い出されて荷物がいっぱいで身動きが取れない」

すぐに、携帯電話が鳴った。

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