「素晴らしい世界だね」とルイが微笑みかけるとき
ホンダシビックのCMだったか。自分がまだ生まれていないことを考えると、あるいはほかのCMだったのかは正直あまり覚えていないが、このルイ・アームストロングのしゃがれた歌声は唯一無二の音楽として僕の頭に記憶された。
それがジャズのスタンダードナンバーであるとか、ルイ・アームストロングがジャズの巨人であるだとか、彼の功績や人柄についてはもちろん何一つ知る由はなかった。ただ、それは彼の歌声やバックミュージックが与える印象は飛び抜けてイノセントで、輝かしい世界の光に満ちあふれている。毎日呪詛や怨恨を垂れ流しているような僕でも、この音楽が流れている間は、もしかすると本当にここは「素晴らしき世界」なのではないかと疑ってしまう。
I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself,what a wonderful world
新緑や薔薇の木々が僕たちのために咲き誇っている
そして僕はこう思うんだ。世界はなんて素晴らしいんだろうと。
こんな単純な描写が続いていく。まるで盲目だった人間が開眼し、初めて世界に触れたかのような書きっぷりだ。そこら中に美しい自然が広がっていて、人間愛を持った人々に囲まれていて、僕らはいまを生きている仲間たちと笑い合って過ごすことができる……いったいそんな歌詞にどうやって共感すればいい? いや、疑問を持つべきはそこではない。それでも、どうしてルイ・アームストロングはこんな歌にこれほどの説得力をもたらすことができるんだ?
彼は喧噪の絶えない貧困街で育ち、両親は離婚していた。母親は売春婦として働き、彼自身は祖母の家に預けられたりしながらも、タフで陽気な少年時代を過ごしたという。こんな簡単に彼の幼少期を綴ってしまえるが、彼の歴史に悲壮的な印象は寄ってこない。思い浮かぶのは彼が浮かべているだろうぴっかぴかの笑顔だ。子供の頃だろうが大人になってからだろうが、ルイ・アームストロングという人物を思い浮かべるとき、笑顔以外の表情を思い浮かべるのは難しい。唯一、真に孤独が襲いそうになるのは少年院に収容された11歳の頃だったが、そこで彼はその後の人生を決定づける出会いを果たすことになる。
人生の暗い面に沈むこともない。這い上がるとか、心を変えて一念発起する必要もない。彼は神様に選ばれているのだ。それは彼の音楽がその人間性と結びついていることを証明し、彼の紡ぎ出す音色の魔法がほかの誰にも譲り得ないものであることを語っている。理屈ではない。彼の音楽を一度聴いてしまえば、あるいはその笑顔を見るだけでもいい。彼がなんと幸福で、音楽と出会うべくして出会った人間だったのかがわかる。
人間性の善とは一つではない。誰かのために生きることだけが善ではないし、自己犠牲によって誰かを救うことだけが讃えられるべきものではない。彼の音楽は、ただそこに生まれるだけで善なのだ。そこには嫉妬も劣等感もない。なぜなら、彼は神様の子供だからだ。そこには空の青さのように公平に配られる善と幸福に溢れている。音楽を通して人々を幸福にし、自分自身をも幸福にするために生まれてきた彼の音楽によって。それはあるときにはホームパーティーのようなサプライズであり、あるときにはダイナミックな笑いであり、一貫してエゴのない純真無垢な子供のような朗らかさに満ちている。
幸福にならざるを得ないのだ。それが彼の音楽の魔力なのだ。時代も大きく異なるし、その生い立ちや経歴についてろくに知っているわけでもない。価値観はまるで違う。それでも、ルイ・アームストロングの音楽は無条件に信じてしまえるし、彼がもたらす幸福は誰に対しても惜しみなく分け与えられる。彼が空を見上げて「なんて素晴らしい世界なんだろうね」と笑いかけてくれば、僕も笑顔にならないわけにいかないのだ。理屈ではない。神様の子供が笑うとき、世界はきっとシンプルで、こんなにも美しい光に溢れているのだと思ってしまうのだから。
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