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#8.漫画「SLAM DUNK」がバイブルだったバスケ少年は、如何にして映画『THE FIRST SLAM DUNK』の作画監督になったか 〜またはアしやの異常な愛情〜



バスケ女子日本代表、おめでとう!!


AkatsukiJapan


FIBA女子オリンピック世界最終予選、AkatsukiJapan バスケットボール女子日本代表の活躍、素晴らしかったです!

宮崎選手のスピードはまさに電光石火、体格のよい海外選手の間隙をすり抜け攻める、リョーちんのようなプレイに痺れました!
キャプテン林選手の3ポイントは、救世主!というような欲しいところでズバズバ決まる、ミッチーのような不屈の3ポイントでした!
エブリンは第1試合では20得点の大爆発!彼女が調子いいとチーム全体が盛り上がりますよね!まさに点取り屋のムードメーカー!
ひまわり選手の献身的なリバウンドも、勝利のためになくてはならない存在でした!まさにリバウンドを制する者は試合を制す!!
そして、パリ五輪への切符を賭けた最終戦の対カナダ戦、MVPは山本選手だったと思います!外から中から、一人で21得点を沈めるまさに大車輪の活躍!!あの小さい身体のどこにそんな体力が!?と驚くほど試合の最後まで圧巻のプレイでした!
恩塚HCの元、チーム全員バスケで戦う姿勢に、応援している私たちも非常に勇気をもらえました。
これでバスケは男女とも日本代表パリ五輪出場!!最高の結果です。最後まで諦めずに闘い抜いた選手たちに、本当に心からのありがとうを贈りたいです!


『SLAM DUNK』のもたらした物

…このブログは、私が如何にして『SLAM DUNK』に憧れ、自分にとって神様の一人となる井上雄彦監督の背中を追い、やがて映画『THE FIRST SLAM DUNK』のアニメーター・作画監督になったのか、と云うお話しです。

何度も脱線してしまっているのもありなかなか本道に進むのが遅いですが、何せ私が原作「SLAMDUNK」と出会った小学生の頃から振り返っているので、どうしてもこうなってしまいました。
これまで、「SLAMDUNK」に憧れ入部した、中学バスケ部時代まで振り返っていたところです。
やはり元バスケ部としては、現在の日本プロバスケリーグや、オリンピック・世界大会での日本代表の大活躍は本当に嬉しいし、感慨深いものがあります。

かつて、日本で サッカーJリーグが発足し、世界で活躍する日本選手が続々と登場し、世界大会で大躍進していきました。その原動力となったのが、少年ジャンプで連載されていたサッカー漫画の金字塔、「キャプテン翼」であったと言われています。少年時代に夢中になって読んだ選手たちが、やがて漫画のような世界に羽ばたく活躍を果たす。

そして今、日本バスケ界で同じことが起こっていると言って良いでしょう。
それをもたらしたのは間違いなく、少年ジャンプで連載したバスケ漫画の金字塔、「SLAMDUNK」によって、です。


再び中学時代のお話


これまでの中学時代のお話はこちら…

もう一つの部活


中学生時代、バスケ部に入っていた私ですが、この頃からもう一つの夢と言うか、自分の夢中になれる好きなことに熱中していました。
それが、絵を描くことです。

今、絵に携わるお仕事をされている、他のクリエイターの多くの皆さんがそうであるように、子供の頃から絵を描くのが好きで、暇があれば教科書やノートの隅に落書きをしているような少年でした。

小学5年生の頃、まさにジャンプで「SLAMDUNK」と出会ったその当時でしょうか。以前紹介した幼馴染やバスケ周りの仲間とまた別に、一緒に絵を描いて楽しむ友達ができました。
「ヨシノ」と言う名の彼は、登場からしてかなりのインパクトのあった男で、小学生の時に(しかも今から30年以上前の時代です)自分でパソコンでプログラミングしたゲームを、家に呼んだ友人にプレイさせる、というとんでもない才能を持っていました。友人の間でも流行っていたのが、彼がプログラミングした「草競馬」というゲームです。今でもはっきりと覚えています。
当時全くデジタル?コンピュータ?プログラミングって何?と、いう風にそっち方面に疎かった自分は、「同い年でこんなヤツがいるのか!?ずっとパソコンのことだけ考えてきたんだろうな…」
と、まさに沢北の凄さを目の当たりにしたリョーちんのような心境でした。

しかも彼は、その持ち前のプログラミング能力で小学生にして自作のオリジナル・バトルSLGゲームを制作し、クラスのみんなを巻き込んでゲーム大会を開催すると言うようなものすごいセンスの持ち主でした。

そんな今まで見たこともないスキルを持った友人の登場に、ただただ感動した私は、すっかりヨシノとも仲良くなりました。
彼もイラストやキャラクターを描くのが得意だったので、お互い絵を描くことでも意気投合し、その後長年交流の続く、「リレー漫画」と言う遊びを始めるのです。

「リレー漫画」とは、いわば交換日記の漫画版といえば分かりやすいでしょうか。ただ、内容が日記ではなく創作のオリジナル漫画でした。メインのキャラクターは、ヨシノがそれまで考えていたオリジナルのキャラクターをベースに、ストーリーはギャグがメインのシュール系のストーリーだったと思います。
大体のキャラクターの性格や設定は共有しながら、お互い2〜3ページずつストーリーを進めていき、相手に渡す。
すると次にこちらが受け取る時には、予想もしない展開が待っている、と言う今考えるとよく続いたな、と思う画期的な制作手法によって描かれていた漫画(大学ノートに鉛筆描き程度のものでしたが、ネームや下書きよりはかなり清書に近い形で書いていたと思います。)ですが、相手が描いてくる未知のストーリーや展開を読めるのが、かなり楽しく、自分が描くのももちろんですが、相手の描いたページを待つのがいつもワクワクして面白かったです。
また、今まで「絵を描く」と言うのが一人遊びで完結していた私にとっては、誰かと一緒に創作する、と言う体験も非常に新鮮でした。
その後中学生・高校生になっても、ヨシノと創る「リレー漫画」は続いていき、最後には小学生の頃から足掛け6〜7年以上続く超大作になっていました。

中学校では、ヨシノは美術部に入部し、私はバスケ部でしたが週1のバスケが休みの日などにちょうど美術部が活動していたので、私はそちらにも顔を出すという、掛け持ち部員、今で言う「二刀流」をやっていました。
どうも子供の頃から、あっちもやりこっちもやり、と言うのが好きなのか得意なのか、流されてそうなってるのか分かりませんが、今も教員とアニメーターなど、何かと兼任で仕事をやることが多いのは因果なものです。

バスケ部での、たった一度のほんの小さな反逆

一方、それからバスケ部では、2年、3年と年次が上がり後輩もできました。また、2年生からは1年時にコーチをやってくれた先生が引退(転勤?)され、もっと若くて熱血な先生が赴任してきました。以前の先生を私はその風貌(がちょっと似てる)から「田岡先生(仮)」と呼ばせていただきましたが、新しくきてくれた方はまさに「金平先生(仮・全国初戦で湘北と戦った豊玉高校の監督に雰囲気というか登場のシーンや印象が被る)」と呼んでも良いような、若さを武器に刷新を図るような先生でした。ご本人も体育が専科の運動能力も高い先生だったので、バスケットボールの気質にも合っていたように思います。
なので、「金平先生(仮)」とこのブログでは呼ばせていただきます。
穏やかで紳士的な印象だった田岡先生(仮)・前コーチとは打って変わって、金平先生(仮)はまさに熱血指導のビシバシモードなコーチングでした。当時としても、他の部活から見てもかなり厳しい指導だった印象があります。

今年に入って1月からの新ドラマで、宮藤官九郎さん脚本で話題の「不適切にもほどがある!」というドラマが放送されていて、毎週楽しみに見ています。

まさにあのドラマの主演の阿部サダヲさんの役どころの先生のように、当時の部活のコーチの先生は、今で言うコンプラアウトな指導もビシバシされていました。

エピソードとして一つ、よく覚えているのが、新チームになって練習試合や公式戦で負けが込んで、何か大事な一戦の時に勝利を逃してしまい、罰として「部員全員坊主」刈りを宣告された時がありました。
ちょっとうろ覚えなんですが、中学生の当時、まだ原作「SLAMDUNK」でも最強「山王工業」は登場していない時期だったかと思います。なので、もし山王がすでに漫画に登場していたら、むしろ罰ではなく、嬉々として坊主刈りを望んでいたかもしれないと、当時の自分たちの性格からは想像できます。「最強になれるからむしろいいんじゃね?」みたいなノリで。
ただ、おそらく当時はまだ山王も登場しておらず、坊主頭にする、と言うのが一種の罰や反省の証として機能していた時代だったと思います。
もちろん、野球部は当時からデフォルトで坊主刈りが基本(甲子園を目指す球児の嗜みとして)、と言うような暗黙のルールみたいなものもまだあったので、それを「罰」として受け入れて良いのか、じゃあ野球部員はどうなるんだ?みたいな面もあるし、令和の現代となってはやはりコンプラ的に大いに疑問はありますが、カッコつけのやつも多かった当時のサッカー部やバスケ部にとっては、それが明らかな「罰」として機能していたのです。


そして、山王はまだ登場していなかったけど、当時自分への「罰」として戒めとして、敗戦の責任を感じて坊主頭にしたキャラクターが、原作「SLAMDUNK」にもいました。
主人公の「桜木花道」その人です。
後々の展開を考えると、花道があの場面で坊主頭にしたのは非常にカッコよかったですね。花道のバスケットマンとしての覚悟を感じたし、スポーツに熱中していく直向きな姿がより強調されていった気がしました。

花道の髪型が変わった当時は衝撃でした



…と言うことで、一度「男子部員全員坊主」、が言い渡されました。
しかしその時、当時サラサラヘアーの真ん中分けでMVPだった頃のミッチーみたいに爽やかな髪型だった私(自称)は、反発心という分けではないしそれほど尖っていた分けでもなく、むしろ優等生の部類だったのですが、何故かその時はそのルールに納得がいかず、一人だけ坊主刈りではなく当時の運動部系の男子の多くがしていた「スポーツ刈り」にするに留めたのでした。

今考えるとどうせ短くするならいっそ坊主にしてしまえばよかったのに、何故そんな中途半端な抵抗をしたのか、よく分からないのですが、やっぱり心の奥底でどこか抵抗心というか、反発する思いがあったのかも知れません。時代を先取ってコンプラに敏感だったんですかね、これはパワハラでは…?みたいな。だとしたら嫌な中学生ですが。笑

それでも、今まで爽やかな中学MVPミッチーヘア(のような髪型・自称)で貫き通していた人生だった私にとっては、自分の短髪のあまりの似合わなさに内心「(誰だお前は!!)(何だその頭は!!)(ハラいてえ)」と鏡に向かって呟かずにはいられませんでした。
でも、よくよく考えると、反省して心を入れ替えたのは花道だけでなく、先人としてバスケ部をめちゃめちゃにして廃部寸前まで追い込んだ三井先輩その人がいました。
彼は不良時代のトレードマークだったロン毛をバッサリ切って、スポーツ刈りに近い短髪に改めて、恥もプライドもかなぐり捨てて心機一転、過去への精算を果たしたのでした。

…もしかしたら、反発やコンプラがどうとか関係なく、ただこの時のミッチーを意識しただけだったかも知れません…

これが、当時優等生で通っていた私の、顧問の先生へのたった一度の小さな抵抗です。反逆、というほどのものでもないし、先生も恐らく意に介していなかったと思います。
でも、やはり今になって思うと、少しそういう体育会系のノリというか、伝統だの根性だのいう文化に、当時から疑問符を持っていたのかも知れません。その小さな違和感は、令和になった今では納得のできるものです。


何はともあれ、中学校時代に始めた「バスケ部」と「美術部=絵」の両立。

コレが私の「原点」であり……「最終目標(ここで云うTHE FIRST SLAM DUNK)」につながるのです。


次回は、更に自分の将来に繋がる、中学時代のもう一つの出会い、について語れたら、と思っています。


#バスケ部 #THEFIRSTSLAMDUNK #SLAMDUNKMOVIE #最後まであきらめない男 #あきらめたらそこで試合終了ですよ

いつまで続くのか、どんな形で終われるのかまだ決めてはいないのですが、先日発表されたBlu-ray・DVDの円盤発売に向け、少しでも盛り上がっていければ良いかなあと思っています。2月に突入し、いよいよ発売まで1ヶ月を切りました!💽✨
リアルバスケ界では、今日はとにかく、#AkatsukiJapan 女子日本代表のパリ2024オリンピック出場決定!!おめでとうございました!!
#FIBAOQT #日本一丸 #バスケで日本を元気に #バスケ

井上先生も、女子バスケの勝利に祝福のPOSTを投稿されていました!

22日に開催される@有明コロシアム、男子日本代表対グアム戦のチケットがGETできたので、こちらも観戦が今から楽しみです!🏀🇯🇵
これからも、男女ともにバスケの日本代表を応援し続けたいと思います!!

ここまでご覧いただき有り難うございました。ご興味がありましたら、是非続きをお待ちいただければ幸いです。🏀🤜🤛🟥

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