インタビュー「25年の北京暮らしを経て〝桃源郷〟で自らを深める日々」和田廣幸(篆刻家・書家)
きっかけは級友の〝内職〟
―― 和田さんが最初に「書道」と出合ったのはいつですか。
和田 中学1年生の時、授業の「書道」の時間です。当時は小学生の習い事で書道も盛んでしたが、そういうものには触れていませんでした。
私は横浜の生まれで都内の中高一貫の学校に通っておりました。書道教室での授業では出席番号順に着席するんですが、私は「和田」なので最後なんですね。すぐ後ろは壁なわけです。その壁に高校生の書道部員の作品なんかが飾ってあって、「上手いなあ。こんな字が書ければいいなあ」と思いました。
中2になったある日、何かの授業中に、書見台に教科書を立てて手もとで何かコソコソやっている友人がいたんです。聞くと、彼は書道部で書初めの展覧会に出す作品に捺す「印」を彫っていたというんです。
石は1本40円くらいだというから「じゃあ俺にも買ってきてよ」とお願いしたら、買ってきてくれたんです。それで彫り方を教えてもらって、これがきっかけで放課後の書道教室に出入りするようになりました。
―― クラスメートの授業中の〝内職〟が篆刻と出合わせてくれたんですね。
和田 彼は今、小学校の校長先生をやってます(笑)。自分でも印を彫って、その勢いで書道雑誌の企画に投稿したんです。評者の先生は当時の日本でも著名な篆刻家でした。その人から「廣幸君、しっかり彫れている。たいしたもんだ」みたいな寸評をもらったんですね。それですっかり面白くなりました。
書道部の先生から「篆刻というのは書が大事だから、書道をしっかり練習したら篆刻も上達するからね」と言われ、中学2年生から書道部に入りました。
―― 篆書という書体は秦の始皇帝の時代に生まれたといわれていますね。篆刻の歴史もそのくらいからなんですか。
和田 そうですね。篆刻といってもふたつに分かれましてね、ひとつは金属による鋳造印なんです。これはかなり古く、殷の末期、周、そして春秋・戦国時代を経て漢代に大きな隆盛の山場を迎えます。これは一般の人が作れるものではありません。
―― 志賀島で発見された「金印」がそういうものですね。
和田 そうですね。役所の公文書に捺すものとして使われていました。といっても当時は紙がないので封泥に用いられました。封泥とは、文字通り「泥(粘土)」を使った「封」です。まだ紙がなかった後漢以前には、公文書が書かれた木簡や竹簡を〝巻き簾〟のように紐で連ね、それをくるくると巻いたものをさらに紐で縛っていました。その紐の結び目を粘土で固め、そこに封印を捺していたのです。
「金印」は、倭国の王に下賜されたものなので金で作られています。皇帝が使っていた「玉印」は、「玉璽」というように材質は「玉」でした。
それが16世紀、明代の末期に、文彭という人が石に彫る篆刻を始めました。これが個人が自分の名前なり言葉なりを自ら彫るようになった〝第二の篆刻〟の歴史の始まりです。杭州あたりを中心にこうした文化が芽生えて広まっていきました。
個人が彫れるとはいえ、古い時代の文字を扱いますから、そうした文字の知識があってはじめて、1寸足らずの「方寸の世界」に文人のエッセンスが凝縮されるわけです。こういうと、教養や中国の文化の深いところがわからないとできないというような、幻想を抱かせてしまうかもしれませんけども。
―― それ以前は青銅印しかなかったわけですか。
和田 故宮博物院などに行くと印をたくさん捺した書や画がありますね。あれはほとんど後世の人が捺したものなんです。名品には上の真ん中にドンと皇帝の印が捺されています。これらは〝収蔵印〟といいますが、由緒あるものを手に入れた収蔵者が自分の印を捺して、その作品を通して後世に名を遺そうとしたんでしょう。
30歳で一大決心
―― さて、中2で篆刻の上達のために書道を始めて、高2の時には書道で「文部大臣賞」を受賞されます。ただ、大学を卒業したあとは社会人になって、なかなか書道に打ち込む余裕もなかったそうですね。
和田 やはり時間がないもので遠ざかっていましたね。
―― ところが30歳の時に一大決心をして中国に留学されました。よく思い切った決断ができましたね。
和田 じつは、それまでも年に何回かは中国に出かけていたんです。最初に中国を訪れたのが1985年の12月。これは訪中団の一員でした。その後、香港や上海などへ頻繁に行っていました。当時はまだ物価も安かったですしね。
論語の「三十而立」の言葉を胸に、清華大学に留学したのが30歳になった1994年です。理工系の大学ですが、たまたま受け入れ枠があったので。本当は北京大学にいきたかったのですが。
一般の留学生よりは歳もいっていましたので切迫感もありましたし、初めて死に物狂いで中国語を勉強したような気がします。
和田 留学して半年ほどたった時に、清華大学の外国語学部長をされていた教授と知り合いまして。この方の専攻が日本語だったのです。学会に出す論文を書いたので見てくれないかと頼まれまして、かなり細かく拝見させていただきました。
この論文はのちに香港の国際学会に出されたのですが、教授は私の名前も入れて、連名にしてくれていたんです。これが機縁でその教授とタッグを組んで清華大学出版社から何冊か日本語学習の教材を出したんです。
そんなことで、ちょっと手伝ってくれないかというような話になって。留学して半年くらい経った頃から、午前中は中国語を勉強し、午後は日本語教育のお手伝いをするような感じになりました。
―― 累計発行部数が8000万部を超え、世界で最も売れているといわれる人民教育出版社の『新版・中日交流標準日本語』のメインスタッフも務められました。
和田 私が担当したのは、男性の主人公やすべての単語や文章の「録音」です。中国の放送局のラジオ番組で1講座60分を150講座、これも録音させていただきました。今も使っている人はいるでしょうが、とくに当時、日本語講座を聞いていた人は私の声に聞き覚えがあって、サインを求められたりもしました(笑)。
中国では大学受験の際に日本語を選択できる地域もあり、そういう受験生のヒアリングテストの録音などもしました。
また北京の日本大使館にある日本への留学相談のセクションでも、10年以上にわたってアドバイザーを務めさせていただきました。
―― なるほど。中国で日本語教育に携わるなど、それこそまったく想定外のことだったと思いますが、和田さんご自身が中国語で不自由しなくなったのは何年目くらいからですか。
和田 どうでしょう。やっぱり、3年、5年という節目はあったような気がします。それ以降は進歩しているのかどうか、よくわかりません(笑)。
あとは、やっぱり毎日少しはテレビを見ますよね。中国のテレビのよさは、必ず字幕がついていることなんです。標準語の普及という点でも、地方の人にとっては同じ中国人でも字幕があったほうが助かるわけです。
そういった意味では、いろいろなドラマなんかを見たのがいい勉強になりましたね。日本も字幕をつけるべきだと思いますね。
「書」と「拓本」の蒐集
―― ところで、和田さんは「書」や「印」などのコレクターとしても知られ、多くの文物に触れてこられました。
和田 私が留学した94年の暮れに、北京飯店で初めて印章専門のオークションが開催されました。あれはじつに圧巻でしたね。中国では90年代後半、とくに2000年以降に「中国書画」のオークション熱が高まります。
私自身も渡航してまもなく、折に触れて手に入れ始めました。最初は、それこそ戦国時代などの「銅印」ですね。あとは「書」や「拓本」です。その頃は今では想像できないほど安かったんです。日本円で数千円程度。だから、巡り合えれば買えるという状況でした。
そうやって手に入れたものが後年のオークションでは高値で売れたりして、経済的には随分と助けられた部分があります。
和田 発掘されて出てきた陶製のものを「土もの」と呼びます。「書画」は上海に集まるんですが、こうした「土もの」は北京が一大集積地になるんです。そういうものをずいぶん集めて、何冊か本を出したりしました。
出土品といっても私の場合は基本的に文字があるものを集めていました。漢代の文字のある瓦や、墓碑銘、それにお経の刻まれた経塔とよばれるもの、そして塼とよばれる煉瓦のようなものですね。ブームになるはるかに前から集めていたわけです。
出土品は国外に持ち出せませんので、2018年に日本に戻る際、すべて寄贈させていただきました。
―― 何点くらい寄贈されたのですか。
和田 530点ほどでした。山東省濰坊市に縁がありまして、そこに寄贈させていただきました。今、博物館が計画されていて、これが開館した暁には「和田廣幸寄贈」として常設展示してくれるそうです。
―― 奥様も拓本の専門家だとうかがいましたが。
和田 先述の封泥を拓本に取れば、印が失われてもどういう印が使われていたのかが分かりますよね。家内は手先が器用なもので、この封泥の拓本の世界では随分と名前が知られる1人になりました。
琵琶湖畔の〝桃源郷〟
―― さて、四半世紀に及ぶ北京での暮らしを終え、2018年に琵琶湖畔に移住されましたね。
和田 北京生まれの息子がおりまして、彼が日本語のバイリンガルになるには、それに適した年齢の時期に日本語の環境に移るのがいいだろうと考えていました。それで小学校4年生の時に北京を離れました。
最初は京都で家を探していたんです。ひょんなことで大正時代(1921年)に建てられたという琵琶湖畔の今の住まいを紹介されまして、すっかり気に入ったんですね。
和田 古い家なので住みながら手直しをするのに2年余り要しましたが。このあたりの琵琶湖畔からの眺めは、人工物がほとんど見えず、往古の人もこんな景色を見ていたのかなと思います。生き馬の眼を抜くような競争社会の北京からすれば、まるで桃源郷に来たような気分です。
地元の方々も温かく迎え入れてくださって、それこそ自分の家で採れた野菜などを家内に届けてくれたり。高校1年になった息子も、今では不自由なく日本語を話しています。
―― コロナもようやく落ち着いて、海外での仕事もお忙しくなってきたようですね。そして、今も毎日、修練を欠かさないお姿に感銘します。
和田 台北では旧正月の時期に展覧があって、ここ10年ほどは毎年出品しています。台湾にもずいぶんと友人が増えました。今年は9月と11月に中国・山東省と杭州から学術シンポジウムの招聘を受けています。
語学は何年か暮らせば身につくものですが、思考が馴染むには相応の時間が必要じゃないかと思います。まして4000年とも5000年ともいわれる歴史の国です。思いもかけず四半世紀も北京で暮らせたことは、人生の大きな財産になりました。
和田 ともあれ「篆刻」や「書」の世界では、還暦前の年齢はまだまだ〝駆け出し〟です。だから、今も毎日、鍛錬を続けているんでしょうね。「筋肉は裏切らない」といいますよね。やはり「努力は裏切らない」と思うんです。書の世界には最も必要だと信じてます。頑張っていれば、今の自分の殻を破っていけるんじゃないかという気持ちがどこかにあるのかもしれません。
私が思うに「書」は誰が上手いかを競うものではない。比べるとすれば、きのうの自分と今日の自分を比べてどうなのかという〝自己との闘い〟ではないでしょうか。その意味でも、自分を〝沈殿〟させることのできる今の環境は、われながらいい決断をしたなと思っています。
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取材・文)東晋平
インタビュー写真)宍戸清孝
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