法華経の風景 #10「鑑真ゆかりの地」 宍戸清孝・菅井理恵
ヘッダー画像:東大寺・大仏殿
東大寺の大仏殿は、とにかく大きい。だが、751年に創建(※1)された時、建物の正面の幅は現在の1.5倍にあたる約88メートルもあったとされる。
754年4月、大仏殿の前に臨時の戒壇が築かれ、鑑真による授戒が行われた。最初に「菩薩戒」を受けたのは聖武太上天皇、そのあとに光明皇太后と娘の孝謙天皇が続いた。「菩薩戒」は自己の悪を抑え、利他行(自己の善行の功徳によって他者を救済すること)に励む人が受ける大乗仏教の戒で、僧俗は問われなかった。
大仏殿で盧舎那大仏を見上げていると不意に空気が動く。振り返ると、東南アジアからの旅行者だろうか、両親と2人の子どもが靴を脱ぎ、大仏に向かって正座をして床に頭をつけていた。その様子を日本人が不思議そうに眺める。奈良時代、日本の仏教はひとつの転換点を迎えていた。
まっすぐな道の向こうに平城京の正門である朱雀門が見えた。平城宮跡歴史公園では、平城宮第一次大極殿院の正門の復原など保存整備が進められている。しばらくして朱雀門の向こうを電車が通り過ぎて行った。
724年、聖武天皇が即位すると、様々な災いに見舞われる。大地震、凶作、天然痘の大流行……。思い悩む聖武天皇は後に仏教の力によって国家の安定を図ろうとする。741年、各国に国分寺・国分尼寺を建立し、国分寺には『法華経』をそなえた七重塔を造るように命じる詔(国分寺建立の詔)を出す。これが743年の巨大な仏像を造立する詔(盧舎那仏造顕の詔)につながっていく。
一方、律令制度が整備される7世紀の末頃から、民衆には税や労働が課せられていた。やがて、相次ぐ天災もあり、苦しい生活に堪え兼ねて、頭髪を剃り、課役が免除される「僧(私度僧)」になる者が続出した。
課役を負担する民衆が少なくなれば、律令国家の根幹が揺らぐ。僧尼令などで取り締まりを強化するが一向に効果はなく、聖武天皇のもと731年に方針を転換した朝廷は、一定の条件を満たせば、公に出家した「官僧」として認めることにした。目を付けたのは、本格的な戒律の導入だった。
当時、唐や朝鮮半島では、「具足戒」という戒律を受けると、修行僧(沙弥)から正式な僧(比丘)となることが認められていた。戒律とは俗世間から離れて修行生活を送る僧たちが規範にした戒めや規律のこと。仏道を修行する僧たちにとって、法律のような役割を果たしていた。
733年、16年ぶりに派遣された遣唐使のなかに、興福寺の僧である栄叡と普照もいた。彼らに与えられた任務は、唐から戒律の師となる僧を招くことだった。
742年10月、揚州・大明寺にいた鑑真のもとを2人が訪れる。中国・揚州で生まれた鑑真は、18歳の時に「菩薩戒」、21歳の時に「具足戒」を受けたあと、故郷の大明寺で律学の講座を開き、長安・洛陽で並ぶ者のない律匠として名を馳せていた。
『東征伝』によると、鑑真は「天台宗の祖である慧思が亡くなったあと、倭国の王子(聖徳太子)に生まれ変わり、仏教を盛んにして人々を救った」という伝承を挙げ、来日を決意したことが伝えられている。この時、すでに55歳。5度の航海に失敗して失明し、ようやく来日が叶ったのは、10余年後の753年だった。その間、栄叡ら36人の同志を亡くし、200余人が同行を断念したと言われている。
平城宮跡歴史公園の池に、復原された遣唐使船が浮かんでいる。現代人から見ると、外洋を航海したとは思えないほど頼りない。風が吹くと水面に映った遣唐使船が滲み、しばらくしてまた、像を結んだ。
754年4月、鑑真は大仏殿の前に築かれた臨時の戒壇で天皇らに授戒した後、440人の修行僧に「具足戒」を授けている。さらにその翌月、大仏殿の西側に戒壇堂の造営が始まった。
現在の戒壇堂は江戸時代に再建されたもの。創建時の姿は明らかではないが、三重の壇の上に多宝塔が置かれ、釈迦如来と多宝如来の二仏が安置されていたのではないかと考えられている。その推論を裏付けるように、東大寺には奈良時代に造られた二仏が伝わっている。
受戒には釈迦の前で戒を守る誓いを立てる意味があった。僧にとって「具足戒」を授かることは、新たな命を授かるほど大きなこと。それだけに、10人の僧(三師七証)が立ち会う必要があった。その筆頭が「和上」。「鑑真和上」と呼ばれる所以でもある。
それまで「僧」として活動していた人々からは反発もあったらしい。それでも普照らの説得で「鑑真の説く戒律こそ本当の戒律だ」という考えが広まっていく。755年9月(※2)、戒壇院が完成すると、戒壇において授戒を受けた者だけが「官僧」と認められるようになった。
東大寺で5年過ごした鑑真は、71歳で「大和上」の称号を与えられる。やがて戒壇院の「和上」を弟子の法進に譲ると、新たに賜った土地に戒律を学ぶ僧の修行道場、後の唐招提寺を開いた。
当時、基準とされた戒律は『四分律』。僧が守るべき戒の数は250戒(女性は348戒)もあり、食事の作法や病気の対処法など日常の様々な場面で守るべきことやしてはいけないことが細かく定められていた。受戒は正式な僧としての始まりであり、本来、それらを実践するために、師匠の僧の指導を受けながら、最低5年間の研修が義務付けられていたという。
今、唐招提寺の南大門をくぐると、正面に金堂が見える。造営したのは、一緒に来日した弟子の如宝。奈良時代では唯一現存している金堂にふさわしく、長い年月が醸しだす風格を感じた。
763年5月、鑑真は76歳で亡くなった。正しい戒律を身に付けた僧の育成に尽くした鑑真だが、律令国家で求められたのは、僧の資格審査の厳格化。やがて、受戒の精神は形骸化していく。
天台学を学んでいた鑑真は、天台三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)など天台大師・智顗の著書を多くもたらしている。これらの写本を読み、日本天台宗の開祖となった最澄は、天台宗の僧の養成について記した『山家学生式』のなかで、「大乗戒」を受けたあと12年間比叡山にこもって修行することを義務付けている。そこには、戒律の修行道場を開いた鑑真の心が受け継がれてはいないだろうか。
後世、比叡山には様々な仏教者が育ち、日本の仏教は独自の発展を遂げることになる。鑑真が眠る墓所には、大樹に抱かれるように、若木が新たな命を紡いでいた。
〈次回は2月26日(月)公開予定〉
【参考文献】
安藤更生『人物叢書 鑑真』(吉川弘文館)
東野治之『鑑真』(岩波書店)
吉川真司『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』(講談社)
福永光司編『日本の名著3 最澄・空海』(中央公論新社)
【注釈】
(※1・※2)『東大寺要録』による。
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