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法華経の風景 #8「奥州・平泉」 宍戸清孝・菅井理恵
ヘッダー画像:中尊寺・金色堂覆堂
写真家・宍戸清孝とライター・菅井理恵が日本各地の法華経にゆかりのある土地を巡る連載。第8回は岩手県の奥州市と平泉町を訪れた。
坂は緩やかな曲線を描き、光が満ちたところで見えなくなる。訪れたのは夏の終わり。「月見坂」と呼ばれる坂の入口から長い参道をのぼり、黄金に輝く「金色堂」を目指す。中尊寺は標高130メートルほどの関山の上に建立された。
関山の北の麓には衣川が流れ、その近くに衣河関(衣関)があったという。東北を意味する「みちのく」は「道奥国(道の奥にある国)」に由来する。衣河関から北は「奥」と呼ばれ、そこで暮らす人たちは、中央政権に抵抗すれば「蝦夷」、服従すれば「俘囚」と言われて蔑まれていた。飛行機も新幹線もない古代。都の人たちにとって、道の奥の人たちは得体の知れない存在だったのだろうか。
漠然とした恐れは差別を生み、「みちのく」の歴史に影を落とす。薄日が差した衣川の堤防で、蝶がアカツメクサの蜜を吸っていた。
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中尊寺から30キロほど北の奥州市江刺に、藤原清衡が生まれた豊田館跡がある。
父・経清は、名門貴族である藤原氏の流れを汲む。もともとは亘理郡(現在の宮城県)に拠点を置いていたが、氏寺である奈良の興福寺再興に際し、金と漆を調達するため、陸奥国の安倍頼時に協力をお願いした縁で、その娘婿となる。
当時、東北では安倍氏と出羽国の清原氏がしのぎを削っていた。均衡が破れたのは、安倍氏が納税の義務を怠ったとして、中央政権と衝突した「前九年合戦」のこと。中央政権は源頼義を派遣したものの苦戦し、清原氏の参戦を得て、ようやく平定を果たす。
安倍氏は勢力を失い、経清は厨河柵(現在の盛岡市)で惨刑に処される。その時、清衡はわずか7歳。母は敵方だった清原氏当主の妻となり、清衡は養子として清原姓を名乗ることになる。
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草が生い茂る豊田館跡は、重く垂れこめる雲と相まって、どことなく寂しげな雰囲気が漂う。
30歳の頃、清衡は異父弟の清原家衡の急襲を受け、妻子一族をすべて殺されている。一命をとりとめた清衡は、かつての敵である源義家と手を組み、家衡に勝利。清原氏の旧領をすべて手に入れると、両親と暮らした豊田館に戻り、父の藤原姓に戻す。奥州藤原氏が誕生した瞬間だった。
清衡は1100年頃、平泉に居を移したと言われる。都とのいびつな関係のなかで、血塗られた半生を強いられた清衡は、法華経の説く平等が、いかに平和と密接に結びついているか、身に染みて感じていたのだろう。幹線道路である「奥大道」(※)沿いに、一定の間隔で約5000本もの笠塔婆を立てて中心を測り、そこに中尊寺を建立したと伝えられている。
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法華経の舞台は、霊鷲山というインドの山から始まり、空中(虚空)に宝塔が出現したあと、再び霊鷲山に戻る。七宝で飾られた宝塔の中には、釈尊と多宝如来が並んで座り、同じく空中に浮かぶ大勢の聴衆に向けて法華経の教えが真実であることが示される。
1105年、清衡は中尊寺の境内の中央に釈迦如来と多宝如来が並座する多宝寺を建立し、法華経の一場面を現世に表現しようとした。そして、還暦を迎える頃、「紺紙金銀字交書一切経」、通称「中尊寺経」の制作に着手する。一切経とは、経・律・論の三蔵を中心に仏教の書物をまとめたもの。紺色に染めた紙に、一行ごとに金字と銀字で書写し、8年ほどかけて約5400巻もの経典を完成させた。中世期に改築されたと推定される「経蔵」には、国内唯一の中尊寺経のほか、金字一切経や金字法華経なども収められていた。
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鉄筋コンクリート造の「覆堂」のなかで、1962年に解体大修理が行われた金色堂をガラス越しに眺める。柱や天井、床や壁などあらゆる部分に金箔が貼り付けられている。金色堂自体が光を発しているような錯覚を覚えながら、この建物を雨や雪に晒していた藤原氏の栄華の程を想像せずにはいられなかった。
「みちのく」は日本で初めて金を産出した地でもある。三代秀衡は、東大寺再建に際して、金5000両(約210キロ)を奉納したという。さらに藤原氏は朝廷の支配の及ばない北方との交易を重視した。平泉は水陸交通の要所でもある。鷲の羽根やアザラシの皮などを手に入れて都や中国に輸出し、仏像や陶磁器などを輸入する。道の奥は新たな世界の入り口でもあった。
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清衡が没した後も、藤原氏の栄華は揺るがなかった。しかし、またしても「中央」が「みちのく」の浄土を脅かす。
1187年、兄の源頼朝に追われた義経は、三代秀衡を頼り、少年時代を過ごした奥州に身を寄せる。ところが、半年後、秀衡が病死。四代泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を討ったが、頼朝はその遅れを口実に平泉を攻めた。泰衡は平泉を戦場とせず、北上して家臣を頼ったものの、寝返られ討ち取られる。栄華を極めた藤原氏の、あっけない最期だった。
興味深いことに、鎌倉幕府を開いた頼朝は、平泉を滅ぼしながら、平泉に倣い、鶴岡八幡宮を起点に都市づくりを進めている。そして、100年後、鎌倉幕府は中尊寺の金色堂を保護するため、覆堂を建立した。
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1950年、金色堂の遺体調査が行われた。金色堂には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡のほか、黒漆の首桶に四代泰衡の頭部が納められている。この時、首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかり、後に「中尊寺ハス」と名付けられた。
亡くなる2年前、清衡は鎮護国家大伽藍の落慶供養に際し、『中尊寺建立供養願文』を読み上げている。
「攻めてきた都の軍隊も、蝦夷とさげすまれ攻められたこの地の人たちも、戦いにたおれた人は昔から今まで、どれくらいあっただろうか。いや、人間だけではない。動物や、鳥や、魚や、貝も、このみちのくにあっては、生活のため、都への貢ぎもののために、数えきれない命が、今も犠牲になっている(中略)心ならずも命を落とした霊魂を浄土に導いてくれますように」
大伽藍の跡と推定される「中尊寺大池跡」のあたりで、種を付けた中尊寺ハスが風に揺れていた。
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〈次回は12月25日(月)公開予定〉
【筆者注】
(※)奥大道:福島県南部の白河市から青森県の陸奥湾を結んでいたと考えられている。
【参考文献】
平泉文化遺産センター常設展示図録『平泉 ― 光と水の浄土―』2016年(改訂版)
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』(上)(中)(下)1962年
宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。
菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。
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