地に墜ちた衛星 #11 劉子超(ノンフィクション作家)
失われた心を求めて
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チョルスー・バザールの外の大通りにはかつて多くの両替商がひしめき合っていたが、今では一人もいなかった。前回、タシュケントに来た時は、僕はまさに最初にここで二百ドルを両替したのだった。
長年にわたるインフレーションで、スムの価値は下がり続けていた。ところが、カリモフ政権は為替介入に後ろ向きだっただけでなく、より高額な紙幣を発行することも望まなかった。以前は、チョルスー・バザールの外の大通りを歩けば、たくさんの人たちが次々と近づいてきて、米ドルを両替しないかと声をかけられた。二百ドルが十数束の輪ゴムで縛られたスムの札束に交換されるのを僕は驚きながら眺めた。リュックサックの中身は札束でいっぱいにならざるを得ず、僕は富豪の重みを深く感じたものだった。しかし、今では、闇市は姿を消していた。
カリモフ大統領の死後、多くの人たちが、この国は群龍無首の窮地に陥るのは避けられないのではないかと一度は案じた。ところが、シャフカト・ミルジヨエフ首相が大統領の地位を穏便に引き継いだ。彼が大統領に就任してからの最も大きな取り組みが闇市の一掃だった。暴力によって掃討するのではなく、国営銀行にも闇市の為替レートを使用させたのだった。このやり方はすぐに目に見える効果を発揮した。ウズベキスタン最大の民間金融市場は、一夜の内に跡形もなく消え去った。
彼らはどこへ行ったのだろうか? 僕は通りを歩きながらそのことを考え、そして不意にあることに気が付いた。闇市の行商人といっても、そのほとんどは普通のタシュケント市民に過ぎないのだ。闇市は消えたが、彼らは変わらずこの通りで他のさまざまな商売を営んでいる。彼らは手作りの工芸品を販売したり、陶器を販売したり、ナンを販売したり、更には自宅の庭で栽培した少量のキュウリや桑の実を販売したりして、わずかな収入を得ていた。
スカーフを被った老婦人が僕の目の前で突然足を止め、ぶつぶつと何かを呟いた。そこで僕はようやく自分が今、クケルダシュ・マドラサ(※1)の前を通りかかっていることに気づいた。それは小さな山の上に高くそびえ立ち、チョルスー・バザールを高いところから見下ろしていた。ソ連時代、クケルダシュ・マドラサは倉庫として使われていて、隣にある金曜モスクは工場に成り下がった。
クケルダシュ・マドラサの庭には絨毯を敷き詰めたように緑が広がり、柿の木が植えられていた。スーツを着て、花柄の帽子をかぶった何人かの学生たちが、午後の陽光の下で歓談していた。彼らは僕に、近くにある美味しいプロフと、恐らく世界で最も古い『クルアーン』を見に行くべきだと教えてくれた。それはイマーム・アル・ブハーリー学院の向かい側に収蔵されていた。
ブハーリーはイスラムの聖人で、かつてアラブ世界を遍歴して、ムハンマドの言行を収集した。彼の編んだ『ハディース』はスンニ派からはコーランに次いで重視されている権威ある経典だ。ブハーリーはブハラに生まれ、サマルカンドに埋葬された。あるいは、これこそがウズベキスタンのイスラム最高学府が彼の名を以って命名することを選んだ理由なのかもしれない。
ソ連時代、ブハーリー学院は中央アジア全域の中で変わらずに開校していた二つの学校の内の一つに数えられる。学生は最も少ない時で二十数名だったが、今では三百名を超える学生がここでアラビア語と『クルアーン』を学んでいる。
ソ連統治下のウズベキスタンは宗教色が相対的には薄い国ではあったが、人口の九十パーセントがムスリムだった。独立後、イスラム教は共産主義が残した空白を迅速に埋めていった。かつて見捨てられたモスクやマドラサは次々と元の機能を回復した。強硬派のイスラム過激派もこの頃に現れた。
タリバンはアフガニスタンでの勝利においてこれらの人々を利用した。彼らにウズベキスタンで政教一致のイスラム国家を建国するという幻想を抱かせたのだ。強権支配を敷くカリモフは自身の権威に対する挑戦を断じて許さなかった。彼はソ連時代からのイスラム教への抑圧を継続し、イスラム過激派の鎮圧を図った。しかし、政治家たちは、イスラム教それ自体が、権力を誇示する最も優れた方法であることを深く理解していた。このため、一方では信仰を抑圧しながら、もう一方では数多のモスクやマドラサの修復や建設にも取り組んだのだった。
ブハーリー学院のある広場で、僕は真新しいハズラティ・イマーム・モスクを目にした。それはタシュケント最大のモスクだ。精美な檀香の木柱はインドから、緑の大理石はトルコから、青の磁器タイルはイランからそれぞれ取り寄せられた。それらはまるでウズベキスタンが再び信仰の中心になったことを証明するためであるかのようだった。
時計を見ると、ちょうどアザーンの時刻だった。僕が訪れたことのある多くのイスラム国家では、アザーンの時刻になると、ミナレット(※2)のスピーカーから音が鳴り響く。そしてマウラーの呼びかける声が、長く歌い続ける男性のアリアのように、街の上空に響き渡る。人々は思わず足を止め厳粛な気持ちになる。
ところが、ここでは、広場は静寂に包まれていた。二〇〇五年、議論を呼んだ〝アンディジャン事件〟[1]が勃発した後、政府は毎日五回行われるアザーンを禁止した。ハズラティ・イマーム・モスクは高さ五十メートルのミナレットを擁しているものの、それは一度として活用されたことがなかった。日の光の下で、ミナレットはめまいを催すほど高く、まるでじっと沈黙を守る巨人のようだった。
僕はがらがらの広場を通り抜けて、『ウスマーン写本』が収蔵されている図書館へ足を踏み入れた。それは現存する最古の『クルアーン』の一つで、第三代正統カリフのウスマーン・イブン・アッファーンによって制作された。六五六年、ウスマーンは反乱を起こした手下によって殺害された。伝承によると、当時、彼はこの『クルアーン』を読誦していたたため、紙に彼の血痕がしみ込んでいるそうだ。
ウスマーンの死後、預言者ムハンマドの父方の従弟であり、娘婿でもあるアリ―が、跡を継いでカリフとなった。しかし、彼はすぐにウスマーンの父方の従弟であるムアーウィヤによって暗殺された。ムアーウィヤは新しいカリフとなり、ここからウマイヤ朝が始まった。スンニ派とシーア派の分裂の種もまさにその時に植えられたのだった。
この巨大な『ウスマーン写本』は部屋の真ん中の説教壇の上に開いて置かれていた。明かりが足りていないことも手伝って、それは幽玄な空気を放っていた。ガラスケース越しに、僕は経典を仔細に観察した。それは驚くほど素朴で、何の装飾も施されていなかった。それにもかかわらず、一種の歴史の力強さを放っていた。黄ばんだ本のページ全体に、古代の文句がさらさらと書き連ねられていた。それは遊弋する大軍のように、進行方向を見る人につかませなかった。古代アラビア語の書き方そのものに驚くほどの攻撃性が備わっていることを僕は初めて感じた。ウスマーンの血痕を探してみたが、それは見つからなかった。見開きのページは大変きれいだった。血痕はこの書物のどこかのページにあるのかもしれないし、あるいはそれはただの伝説に過ぎないのかもしれない。
四角い帽子を被り、白いひげを生やした老人も近寄って経典をじっと見た。その服装から、僕は恐らくこの人はフェルガナから来たのだろうと推測した。そこは肥沃で古くから歴史を持つ盆地で、ウズベキスタン全域で最も信仰心の篤い場所でもある。
「あなたはフェルガナから来られたのでしょうか?」と僕はおぼつかないウズベキスタン語で尋ねた。
「フェルガナ、フェルガナ」。老人はしわがれた声でそう繰り返した。顔いっぱいに皺が広がり、感激から瞳には熱い涙が浮かんでいた。彼の連れ添いは入口のベンチに腰かけていて、ふっくらとした身体を伝統的なフェルガナの長衣が包んでいた。
『ウスマーン写本』はまずアリ―によってイラクのクーファに運ばれた。十四世紀にクーファはティムールに征服された。この敬虔なテュルク人はそれを今度は帝国の首都であるサマルカンドに持ち帰った。そして一八六八年、カウフマン将軍は『ウスマーン写本』を皇帝に献上した。別の説によると、当時サマルカンドのイマームが、百二十五ルーブルの値段で、この誰も理解できない鹿皮の書物をロシア人に売り渡したとされている。一九一八年、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立した。中央アジアのムスリムに好意を示すため、レーニンは『ウスマーン写本』をタシュケントへ返還した。
数世紀にわたって、経典は異なる権力者たちの手から手へと渡ってきて、今ようやく静かに僕の前に横たわっていた。薄暗い明かりの下で、長い間、僕は経典を凝視した。フェルガナの老人が小さな声で祈り始めた。
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タシュケントの最後の滞在日に、僕はエカチェリーナという名前の女性と知り合った。彼女はインスタグラムで僕をフォローしていた。タシュケントで旅行雑誌の編集をしていて、僕の撮った写真を雑誌に掲載して良いかどうか質問を送ってきた。
僕たちは地下鉄の駅近くのカフェで会う約束をした。彼女は銀のシボレーのセダンから降りてきた。グレーのコートを身に纏い、薄いピンクのハイヒールを履いていた。彼女の黒い長髪はかすかにパーマがかかっていてた。整った鼻の横にはほんのりそばかすが広がっていた。彼女はウズベク人のようには見えなかった。彼女の外見に明らかな民族的な特徴が見られなかったからか、あるいは彼女の服装が過度にグローバル化していたからかもしれない。彼女は日本製の眼鏡をかけ、耳たぶには指輪の形をしたイヤリングが着けられていた。アメリカ英語のなまりが少し入った流暢な英語を話した。エカチェリーナという名前でなければ、僕は彼女とどこかの国を結びつけることはできなかっただろう。
僕たちは席についてお茶を飲んだ。彼女はカバンから雑誌を取り出した。入念に着飾られた外見とは裏腹に、雑誌は粗雑な装丁をしていた。それが旅行雑誌といえるのかどうかさえ僕には確信が持てなかった。雑誌のページをめくると、中身はスーツに革靴を履いたウズベク人男性たちが、退屈なインタビューを受けているだけだった。明らかに、彼らはみな影響力のある現地のビジネスマンだった。あるいは、彼らの仕事が旅行と関係があるのかもしれない。
僕は雑誌を閉じて、エカチェリーナをじっと見つめた。この雑誌は主にウズベクの国内旅行について紹介していて、たまに外国のことにも触れるの、と彼女が教えてくれた。
「マルギランから帰ってきたばかりなの」と彼女は言った。「あそこは海抜が高くて、村は山の奥深くにあった。現地の人たちはほとんどロシア語が話せなかったけれど、みんなとても親切よ。すごく気に入ったから、帰ってきてからウズベク語の勉強を始めたの」
「君はウズベク語を話せないの?」と僕は驚いて訊いた。
「私の母語はロシア語。友達もみんなロシア語を話すよ」
「君はロシア人なの?」
「自分が何人かと言うのはすごく難しいわ」
二十七歳のエカチェリーナは、タシュケントに生まれた。父親はロシア語を話すユダヤ人で、母親はギリシャ系のアゼルバイジャン人だった。彼らはともにかつて広大なソ連に属していた。ソ連解体後、父親は妻と五歳のエカチェリーナを置いて、アメリカへ移住した。彼女が聞いたところによると、父親は大海の向こう側で新しい家を建て、息子と娘が一人ずついるようだったが、彼らは一度も会ったことがなかった。
エカチェリーナは母親と一緒に暮らし、ロシア語のコミュニティの中で育ってきた。ロシア語が話される中学校に進学し、大学ではスラヴ語圏の文学を専攻した。卒業後、彼女はまず男性ファッション誌の雑誌社で働き、数ヵ月前に今の旅行雑誌の会社に転職したばかりだった。今の会社は在宅勤務が許されるというのが唯一の理由だった。彼女は母の住む実家を出て、マンションの一室で独り暮らしを始めた。犬を一匹飼っている。
結婚するつもりはあるのかどうか僕は彼女に尋ねた。
「結婚するつもりはない」と彼女は言った。二十七歳になったばかりなのに、結婚の可能性は全く存在していないかのようだった。「男性を信じることができないの。恐らく父が原因だとは思うんだけど」
そう話す彼女の口ぶりには辛さや悲しみは全くなく、ある事実をただただ陳述しているかのようだった。彼女はとても整った顔立ちをしてはいるが、そこには多くの男性が恐れを感じるような冷やかさが漂っていた。
「小さい頃、私にはたくさんのユダヤ人の友達がいた」と彼女は言った。「その後、みんな去っていった。イスラエルに行った人もいれば、アメリカに行った人もいる」
「君はここを離れようと考えたことはある?」
「ないわ。ここの生活は楽しいもの」
「アメリカに行ってお父さんに会おうと思ったことはない?」
「ない」と彼女は言った。「アメリカへ行くのは父の夢であって、私の夢ではない。アメリカンドリームなんて見たことない」
「じゃあロシアは? 君の母語はロシア語なんだから」
「ロシアで何ができるっていうの? どこに住む?」。彼女の表情がこわばり、そして急に緩んだ。「私はタシュケントが好きなの。この街の隅々まで好きだし、プロフやサムサにシャシリクも好き。暇な時、私はよく一人で郊外までドライブして芝生に横たわるの。あそこには何の音も存在しないの。こんな生活ができる場所って他にはあるのかしら」
僕は賛成も反対もできずただ頷いた。僕は彼女がどうして連絡をしてきたのか一瞬分からなくなってしまった。本当に僕の写真を使いたかったからなのだろうか? あるいは、彼女はただ知らない誰かととりとめのない話をしたかっただけなのかもしれない。
僕たちはカフェに一時間以上滞在した。僕らが話している間、物憂げに降り注ぐ秋の雨が、木の葉を数枚散らしていった。
「失われた心を求めて」(完)
※
【原注】
[1]二〇〇五年五月十三日、フェルガナ盆地の街・アンディジャンで勃発した反政府暴動。数百名に上る死者を出した。
【訳者注】
(※1)マドラサはアラビア語で「学習する場所」の意。ウラマーと呼ばれるイスラム教の指導者、学者を育成するための神学校。
(※2)モスクやマドラサなどイスラム教の宗教施設に付随する尖塔。
〈次回は9月18日(月)公開予定〉
劉子超(作家・翻訳家)
1984 年、北京市生まれ。北京大学中文系卒業後、雑誌編集者・記者を経て、2016 年から作家・翻訳家として活動を始める。最新作の中央アジア旅行記『失落的卫星(地に墜ちた衛星)』(2020 年/未邦訳)は、豆瓣 2020 年ノンフィクション部門第 1 位・第 6 回単向街書店文学賞(年間青年作家部門)を受賞。その他の単著にインド・東南アジア旅行記『沿着季风的方向(モンスーンの吹く方へ』(2018 年/未邦訳)、東欧旅行記『午夜降临前抵达(真夜中が訪れる前にたどり着く)』(2015 年/未邦訳)。
写真:本人提供
翻訳:河内滴
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