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Withコロナ時代のアジアビジネス入門㊻「風の谷のナウシカと<音楽の風景>」@札幌「テレサの森」物語(4)

もっとも大切なものは音楽と詩
 漫画版「風の谷のナウシカ」(宮崎駿、徳間書店)の最終巻の7巻には、トルメキア王(ヴ王)に寄り添う小柄な宮廷道化師(道化)に墓所の神霊が憑依し、ナウシカに次の言葉を投げかける場面がある。
 私達の知性も
 技術も役割をおえて
 もっとも大切なものは
 音楽と詩になろう

 世界を見渡せば、いまだにコロナ感染の収束の兆しが見えない中で、果たして音楽と詩はどのような意味を持つのか。
 そのことを札幌市南区真駒内郊外で始まった「テレサの森」プロジェクトに参画する中世音楽アンサンブルの宇治美穂子さんと大伴やよいさん、バロック音楽を学ぶためフランスに留学して帰国した石山賢伍さんがたどってきた<音楽の風景>と重ね合わせて考えてみたい。プロジェクトの構想はコロナで緊急事態宣言下の2020年5月に園芸療法士、石山よしのさんが行政からの救済が後回しになるであろう音楽家のために所有する山の土地を彼女らの活動の舞台として役立てたいと考えたことがきっかけだったからなおさらである。
フェスティバル・ド・コマンジュ
 フランス南部のピレネー山脈の麓に佇(たたず)む村、サンベルトラン・ド・コマンジュでは毎年音楽祭「フェスティバル・ド・コマンジュ」が開催され、宗教曲などの講習会が催される。フランスからキリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の村の一つであるコマンジュは小高いに丘に古びた大聖堂が建ち、音楽祭になると牧歌的な風景に音楽が溶け合う。石山賢伍さんは2010年夏に講習会に初参加し、翌11年にも幼馴染みの宇治さんを誘って一緒に訪れた。
 音楽大学を卒業した石山さんは私の書面インタビューに「当時はフランス語もあまりできませんでしたが、今まで聞いたことのない(コマンジュの)大聖堂での音の響きに『この響きがあるからこのような音楽が作曲されたのだな』と本当に感動しました」と答えている。石山さんはその講習会で素晴らしい出会いがあり、そこで担当していた講師に声をかけられ、2012年にパリに留学し、2018年までバロック音楽を学ぶことになる。留学途中の2016年にも自分の音楽の学びを確認するため再びコマンジュを訪れている。
出会いの衝撃とプロの自覚
 宇治さんは高校、大学と音楽コースを歩んだ。大学時代に傾倒していたドイツ歌曲(ロマン派音楽)からどんどん時代を遡り、ルネサンス音楽や現代音楽に触れながらも最終的に「中世音楽を集中して勉強、演奏したい」と考えるようになった。初めて中世音楽に出会った時、「プログラムの中に入っていた2曲(聖母マリア頌歌集)を歌って『まるでお祭りのように賑やかで土着的で、歌っていて楽しく、興奮する。何なんだ、これは』と衝撃を受けたのを今でも覚えています」と語っている。大学時代の音楽教師になる夢から中世音楽をメインで取り組むと決めた頃にはプロの声楽家として生きていく自覚が芽生えたという。宇治さんはコマンジュでの講習会もきっかけとなり、その後、中世音楽を学び演奏するためフランスやスペインにたびたび足を運ぶようになった。
土着的で懐かしい中世音楽の魅力
 大伴さんは大学進学後、しばらくはルネサンスやバロック時代の曲を演奏する声楽アンサンブルや合唱団で歌っていたが、その中で特に古楽曲が好きな仲間と出会い、自然と中世音楽に出会った。その魅力を「中世音楽はルネサンス音楽と異なる土着的でなぜか懐かしくも感じる旋律と音のエネルギーがあり、和音でなく単旋律でも神秘的で美しい曲もあり、不思議と惹かれていきました」と話す。中世音楽は民衆的な魅力もありつつ神学的で神秘的でもある「モンセラート写本」や、スペイン各地に伝わる聖母マリアの奇跡物語を集めて王様が編纂させた「聖母マリア頌歌集」、女性初の修道院長となったヒルデガルト・フォン・ビンゲン(作曲家・詩人・神学者・薬草学者)の神秘的な聖歌、アッシジの聖フランシスコや仲間たちから始まり長年民衆に歌い継がれてきたラウダが心に響くという。
 6世紀頃から15世紀にかけての音楽を指す中世音楽はあまりにも昔の時代に成立した音楽なので、今のように見やすい楽譜はなく、正確なリズムが確立されていたわけでもない。もちろん録音が存在する時代でもなく、伝承的に後世に残っていった。
ナウシカのモデル「ザンクト・ガレン修道院」
 漫画版「風の谷のナウシカ」7巻には、土鬼(ドルク)諸侯連合の聖都シュワの庭の主に捕らわれ、彼の精神操作で庭に留(とど)まったトルメキア王の長男と次男が登場する。同じく捕らえられたナウシカが見つめる中で、音楽と詩に造詣が深い二人は穏やかな表情で旧世界の楽器(弦楽器と管楽器がくっついている楽器)を楽しそうに演奏する。
 <人間が創り出した音楽のすべての記録が火の七日間を避けてここに保管されていたのです。まったく素晴らしい>
 <すごいぞ。この列は七音階時代の巨匠の作品ばかりだ>
 <なんという単純で純粋な構成なんだろう。この和音なんか・・・>
 こう語り合うトルメキア王の長男と次男の演奏について敵方の庭の主さえも「今度の演奏者はなかなかの腕前だ」とほめたたえる。この演奏場面は後のストーリーで描かれる<もっとも大切なものは音楽と詩になろう>の伏線となっていく。聖都シュワの庭の舞台はドイツとの国境に近いスイス北東部の街、ザンクト・ガレン旧市街の中心に建つ世界遺産のザンクト・ガレン修道院がモデルになっているとされる。ザンクト・ガレン修道院は知の殿堂としてその名を馳(は)せ、現在2000冊を超える聖書や音楽、古典の貴重な写本をはじめ約15万冊の蔵書が収められている。
西洋近代とアリストテレス<音楽論>
 アリストテレス政治哲学の研究者、荒木勝・岡山大学名誉教授は、「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「紅の豚」といった宮崎駿作品にはキリスト教でも土着化したカトリックが原風景の一つとして描かれていると指摘する。
 「職業としての学問」「職業としての政治」で有名なドイツの社会学者、マックス・ウェーバー(1864年~1920年)は著書「音楽社会学」で、なぜ西洋近代に合理的和声音楽が誕生したのかを明らかにしているが、ギリシャ時代の哲学者、アリストテレス(前384年~前322)は音楽をリベラル・アーツの起源である「自由七科」(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)の本義と捉えていた。荒木先生は、アリストテレスは合理化以前の、いわゆる宗教音楽に<神的情操(エンシュージアスムス)と自己浄化(カタルシス)>があるとみていた、と解釈する。
 「アリストテレス政治学」(岩波文庫、山本光雄訳)の第八巻には次の記述がある。
 <教育のためには倫理的音階法を用いるが、しかし他の人々が演ずるのを聴くためには、行動的音階法をも熱狂的音階法をも用いなければならないということは明らかである>
 <何故なら二三の魂に関して強烈に起こる感情(パトス)は凡(すべ)ての魂にも起こる。(中略)魂を興奮させる節を用ゆる時は、その宗教的な節の結果として、ちょうど医療、すなわち浄(きよ)めを受けた者のように、正常に復するのを見るのである>
ノートルダム大聖堂で「神」の音
 石山賢伍さんはパリに留学中、友人の日本人オルガニストがパリのノートルダム大聖堂で演奏をした際、「天井から降り注ぐその音に、確かにこの世界には大きな存在がいて、人はそれを『神』と呼ぶのかもしれない」という経験を、自分なりの解釈でそこにいた現地の人々と共有することができたと語っている。
 宇治さんは「実際、中世音楽を歌っていて本当に楽しいし、歓びを見出せるのです。たとえそれが悲しい歌、死を想う歌であっても。その旋律を遺したであろう、そんな時代を生き抜いたであろう誰かの心を現代で歌えることがとても幸せです」と述べている。
 大伴さんは「中世音楽に触れると、いつの時代も人間は生老病死に悩み苦しみ、不条理な出来事に驚き悲しみ、届かない相手に想いを馳(は)せ、偉大な存在に祈り、奇跡を信じる、小さき者なんだなと感じます」と心の内を吐露している。
詩人とは幸福の預言者
 音楽と並んで詩はどういう意味を持つのだろうか。
 荒木先生によると、アリストテレスは詩人とはこれから起こること(預言)を書く人であり、本当の詩人は神の内にあって幸福の預言者であるとしていた。実際、一般の人々も、教養ある人々も、そのことを幸福(エウダイモニーア)とよんでおり、「よく生きる(エウ・ゼーン)」ということ、あるいは、「よく為す(エウ・プラッテン)」ということを、「幸福する(エウダイモネイン)」ことと同じものとみなしていた。日本語の文脈では、幸福という語は動詞化できないが、ギリシャ語で動詞化しているのは「幸福の意味を、状態感から動詞、活動の意義を理解するために、あえて造語した。幸福とは、人間の卓越的な力量の発揮、活動そのものだから、である」という。
「幸福」を動詞化する<魂の運動体>
 私は、「風の谷のナウシカ」の主題は知的生命体である人間が悪を抱え込みながらひたすら善を求めてもがいていく、ナウシカのように与えられた能力で懸命に「幸福」を動詞化することではないか、と考えている。
 「テレサの森」プロジェクトの目指す方向は、石山よしのさんが思い描く「自然という癒し空間」に身も心も委ねながら、植物や音楽、芸術やものづくりなど多目的な利用を通じて、将来的には統合医療や農福連携を見据えた北海道発信の新事業である。それと同時に、創設者の石山よしのさん、プロデューサーの建築家、畠中秀幸さん、中世音楽アンサンブルの宇治さんと大伴さん、そして石山賢伍さんらそこに集う全ての人々が普遍的な愛の精神をもって「幸福」を動詞化する<魂の運動体>のように思える。
 「テレサの森」はすっぽりと雪景色に包まれている。次回は北国に春の気配が感じる頃に再開したい。

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