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【短編】折り鶴よ、天高く

著:葦沢かもめ
絵:葦沢かもめ

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「神様を信じますか?」
 冷房の効いた池袋駅前の喫茶店で、アイスコーヒーのストローの先を齧っていた私の隣に座ってきたスーツの男が、まるで巣から落ちた小鳥を見るような目つきで、私にカードを差し出してきた。その紙切れには、月に照らされた二匹の犬とザリガニの絵が描かれている。
 男の目は、夢でも見ているみたいに焦点があっていない。
「信じないよ。神様はいつだって居留守だから」
「では、あなたの心はどこに?」
「夢の中」
「自分も好きですよ、夢。昨日は、記憶が書き換えられる夢を見ました」
「私、忙しいから。これで帰ってくんない?」
 私は胸ポケットから煙草の箱を取り出して、テーブルの上に置く。
「失礼しました」
 男は煙草の箱を手早く懐にしまい、立ち去ろうとした。
「ねぇ、ところで」
「?」
 スーツの男は、不意を突かれたような顔をして振り返る。
「イヌは連れてきてないだろうな?」
 私の言葉を聞いた男の口元に、ひしゃげた笑みが浮かんだ。男は戻ってきて、私の耳元で囁く。
「悪いな、ワンコと一発やれなくて」
 それから男は、足早に喫茶店のドアをくぐって雑踏に消えていった。
 一人になった私は、紙ナプキンへ丁寧に折り目を付けていく作業に没頭した。まっさらな紙の繊維に一つ一つ折り目を刻み込む度に、純粋な物を汚していくみたいで背徳感がくすぐられる。アイスコーヒーが底をつくと、私はトレイを持って席を立ち、紙コップと共に紙ナプキンでできた折り鶴を燃えるゴミの箱へと放り込んだ。
 無人レジの前で右人差し指のスマートリングをかざし、会計を済ませた私は、ドアを開ける。ドアの上にぶら下がった真鍮のベルが、カランカランと音を立てた。
 ムワっとした暑苦しい空気が、私に襲い掛かる。太陽は厚い雲に覆われているものの、石畳の上を歩いているだけで、地面から反射してくる熱を感じる。私は小さく舌打ちをした。
 尾行られている。若い男が数人。
 あの野郎、やっぱりイヌがついてきてんじゃねぇか。
 私は悠然と人の多い大通りへと足を向ける。一般人のいるところでは、そう簡単に手は出せないはずだ。
 すると大通りへ面したコインパーキングが見えてきた。車数台しか駐車できない狭いパーキングだが、いつもそこそこの数の車が”無防備に”停められている。イヌを撒くのにちょうどいいと、前から目を付けていた場所だ。
 私は車と車の間に屈んで、指紋リーダーにスマートリングをかざす。すると網膜ディスプレイにコマンドプロンプトが投影された。セキュリティは、さして複雑ではない。仮想キーボードを叩いてコマンドを入力。車種ごとに特定されているハッシュ関数と保存されたハッシュ値を使って、鍵情報を割り出す。野良のクラウドスパコンのお陰で、もはや計算量はセキュリティの壁として機能していない。
 すぐに鍵の開く音がした。この程度のハッキングは慣れたものだ。
 運転席に飛び乗り、自動運転を解除してアクセルをふかす。巻き上がる砂埃。真紅のマスタングは、暴れ馬のように駐車場を飛び出し、行き交う自動タクシーの間を抜けながら、まるでデュラハンのように明治通りを南へと駆け抜けていった。

 温かいシャワーを頭から浴びた瞬間、肩に力が入っていたことに気付く。力を抜いて深く息を吐き、それから肺一杯に息を吸い込んだ。塩素臭い蒸気に汚染されて、ゾンビになっていくみたいだ。私はシャワールームの中で小さく屈んで両脚を抱きかかえた。
 遠回りして板橋のアパートに帰宅したものの、尾行を完全に撒けたかどうか自信は無かった。帰り着いて自室の鍵をかけた後も、不安と無力感で頭がパンクしそうになり、ベッドの上に倒れ込んで枕に顔を埋めたまま、気付けば夜中になってしまっていた。憂鬱を吹き飛ばそうとシャワーを浴びたが、髪をドライヤーで乾かしている間も自室のドアの向こうで誰かが見張っているのではないかと気が気でなかった。
 罪悪感が私を襲う。目を閉じると、”あの時”のことがフラッシュバックしてきそうだった。もう夜が明けるまで、眠れそうにない。
 作業机に向かい、オフィスチェアに腰を落とす。デスクトップPCのファンが唸る横で、マウスを握る。画面の中では、文字列が次々に生成されて、上方へと流れ続けていた。私が開発した違法小説執筆AIの書いた文章だ。
 今書いているのは、ミステリ。クライアントの依頼で、コナン・ドイル作品の文体で、アガサ・クリスティ作品に似たストーリーを書くように調整を加えてある。あの男に渡した煙草の箱の中に入っていたのも、このAIを搭載したメモリスティックだ。
 違法AIは、アンダーグラウンドでは高い値で取引されている。それもこれも、全てはアカバネ書房のせいだ。
 時代に愛された大企業、アカバネ書房は、元は小さな電子出版社だった。一時は倒産の危機に追い込まれたが、最後の望みとして小説執筆AI事業の研究開発に乗り出したところ、これが大ヒットし、多くの有名作家AIを抱える大出版社に成り上がったのである。
アカバネ書房が成功を収めた最大の理由は、議員に働きかけて小説執筆AI開発を国家資格化させたことだろう。表向きは、有害な書籍が大量に出版されるのを防ぐためだったが、真の目的は、競合相手の技術力を削ぐことだった。実際、免許の認定機関はアカバネの息がかかった人間で構成されており、既存の出版社に所属する技術者の合格率は雀の涙しかいない。
 アカバネが野望を果たすために生贄として捧げられたのは、ミステリだった。「殺人を含む作品は有害」と判定されたことにより、従来のミステリの大部分は実質的な発禁処分を受けてしまったのである。
 その結果、行き場を失ったミステリファンは、ミステリを書いてくれる違法小説執筆AIに安息の地を求めた。人間の書いた違法ミステリも無かった訳ではない。しかし危険を顧みず、法の眼をかいくぐってファンの需要に答えられるほどの作品量を提供できたのは、圧倒的にAIの方が多かった。
 私の開発したAIは、作品内で人間を殺すことで人間から賞賛の拍手を浴びている。しかも殺し方が残虐であればあるほど、ウケがいい。全く奇妙な話だ。
 すると不意に、アパートの廊下から何かがぶつかったような鈍い音がした。網膜ディスプレイに意識を向けると、視界の隅に浮かび上がった時計の針は既に深夜二時を回っていた。
 咄嗟に武器になりそうなものを探して、机の上の一升瓶を握り締める。物音を立てないように玄関へ近付き、ドアスコープから廊下の様子を探る。
 気持ち悪いくらい白い光を放つ蛍光灯の下に、何かがあるのが分かった。目を凝らして、ようやくそれが倒れた人間であると分かった。
 恐る恐るドアを開けてみるが、周りに人影は無い。倒れているのは女性のようだった。歳は若く見える。衣服は少し汚れているが、怪我はないようだ。
「あの……大丈夫ですか?」
 肩を軽く叩いて意識を確認する。
 と同時に、地鳴りのような低い音が深夜のアパートの廊下に響いた。
「焼肉食いたい……」
 どうやら面倒な拾い物をしてしまったらしい。


 
 さっきまで廊下で寝ていた女が、私の部屋のソファに座ってカレー風味のカップラーメンを啜っている。美味そうに食っているのが、妙に腹立たしい。
「それ食ったら帰れよ」
 と言って煙草に火を付けようとしたところで、彼女が私を涙目で見つめているのに気付く。
「泊めて?」
「嫌だ。ここはホテルじゃねぇから」
「じゃあ食堂?」
「舐めてんのか、お前」
「でもワタシ、家無い」
「そう言われても困る」
「お手伝いしますから」
「要らない。素人に邪魔されると、逆に面倒なんだよ」
「何でもしますから!」
「駄目なものは駄目だ」
「何でも!!できますから!!」
「大声を出すな! 目立つから静かにしろ!」
「泊めてくれるなら騒ぎませんが?」
「……分かったよ。ただし今日だけだ。いいな?」
 女は丸い目をさらに丸く大きくして、満足そうに首を縦に振った。
「はい! おかわり!」
「いい加減にしろよ! 図々しい」
 空になったカップ麺の容器を高々と掲げていた彼女は、途端にソファの上で小さくなった。
「すみません。確かに私は図々しかったです。代わりにお礼します! 何でもして欲しいことを言って下さい!」
「何も変なことをしなければ、それでいい。絶対に部屋の中にあるものとか勝手に触るなよ?」
 と言ったそばから、彼女は私の作業机に近付いて行った。
「おい!? 近付くな! 私の商売道具なんだ!」
 彼女は不貞腐れた顔を私に向ける。
「まだ何も触ってないのに」
「いいからソファに戻れ。朝になるまで、そこから動くな」
「あなたはプログラマーさんなんですか?」
「まあ、そんなとこ」
「だから女性なのに男っぽいんですね。髪が短いので、最初は男性かと思いましたが」
「関係ねぇだろ! いいから黙って寝てろ!」
 この調子では朝まで監視が必要そうだ。どうせ寝られないと思っていたところだから、別にいいんだけど。
「あの……」
「今度は何?」
「あなた、名前は?」
「そういや名乗ってなかったな。私は洲原だ。あんたは?」
「ワタシはココロ! どうぞよろしく!」
「はいはい、よろしく」
「で、洲原ちゃんの夢は何?」
「……『ちゃん』付けはやめてくれない?」
「それが夢?」
「……いや。私の夢は、――」
 そこまで口にしてから、ふと気付く。私の夢って何だったんだろう。
 いつもそこにあったはずなのに、気付くといつの間にか無くなっていて、どこにいったかさえ見当もつかない。
 ただ何となく、今の私の思いが答えのような気がした。一夜の夢と同じ。意識システムのバグ。ありもしないものをあることにしようとして生まれる虚像。それが夢だ。
「どこか遠くの南の島で、世界を旅して世界を感じて小説を書くAIを作りたい、かな。ドローンにカメラやセンサーを搭載すればできそうだなとは思ってる。どうせそんなの無理だけどね」
「無理じゃないです!」
 ココロが目の前に身を乗り出して、真剣な眼差しを私に向けていた。
「できると思えば、できます! 洲原ちゃんがやろうとしないだけ!」
「あー、分かったって。そんなに本気にすんなよ。適当に言っただけだし」
「叶えましょう! 洲原ちゃんの夢を!」
 そう言うなりココロは私の服を掴むと、その華奢な体からは想像できないほど強い力で引っ張った。
「ちょっと!?どうするつもり!?」
「今から南の島に行きます!」
「待ちなって! 突然すぎるだろ!」
 しかしココロは雄牛のように私を引っ張り続け、とうとう壁際に辿り着くと部屋の窓を開けた。
「おい、待て。いくらなんでもそこからは――」
「二階だから大丈夫です!」
「ヒィッ!」
 私の体はココロに抱えられてしまい、街灯に照らされた夜の路地目掛けて、私達は宙を舞った。 
 重力から解放される感覚。私はそれが怖かった。今まで私を縛り付けていたものは、私の自由を阻害する代わりに、棘だらけのサボテンの椅子を用意してくれていたのだ。そこに座っているのは苦痛だ。しかし、そこに間違いなく私の居場所は用意されている。
 世界が、私の存在価値を認めてくれている。そんな気分にさせてくれるのだ。
 それは麻薬。危険だと分かっていても、止められない。痛みの快楽に浸っているうちに、それ無しでは生きられなくなってしまう。
 私は異常だ。でも普通な人間なんて、この世にはいない。私の歩いてきた道が、ただこの板橋のアパートに繋がっていただけ。
 とすれば、子犬のように無邪気なココロが連れて行ってくれる旅路の先には、何があるのだろうか。興味が無いと言えば嘘になる。
「南の島が楽しみですね!」
 ココロは、私を抱えたまま平然と地面に降り立った。笑顔まで浮かべている。
 でも、それくらい頑丈でなければ、私をこの檻の中から連れ出すことはできないだろう。
「逃げたぞ!追え!」
 アパートの中から、男の声が聞こえた。昼間の連中だ。
 まさか私の部屋まで尾行されていたとは気付かなかった。しかし襲われる前に抜け出せたのは幸いである。
「走れ、ココロ!」
「任せて! 体力には自信あるから!」
 その瞬間、ココロはマスタングのような加速でアスファルトを蹴った。こいつ、もはや人間ではない。私の視界に映る夜の路地は、AIが生成する文章のように、険しい岩々を削る急流のように、後方へと流れていく。
 世界が物語みたいに見えた。
「ココロ! 次の角を右へ!」
「どうして?」
「力になってくれるかもしれない人がいる。一か八か、相談してみたい」 
「そんじゃ夢へ向かってゴー!」
 ギアを入れたようにココロが更に速くなる。どこにそんな余力があったんだよ、マジで。

「ここだ」
 巣鴨の町外れにあるバー「ゲイゼル」の前で、ココロを止める。
「ここが友達の家?」
「友達じゃない。上司、かな」
 ココロに降ろしてもらい、バーのドアを開ける。薄暗い店内に客は居ない。私はカウンター席に腰掛けた。
「やぁ、マスター」
 白髪交じりの初老の紳士は、私達を見るなり何も言わずに二人分のホットコーヒーを淹れてくれた。
「ここに来てくれるのは、久しぶりだね」
 マスターは私の顔を覗き見る。
「……」
「待っていなさい。店を閉めてくるから」
 何かを悟ったマスターが店の外へ出て行く。
「美味しい!」
 私の隣に座ったココロはコーヒーを堪能しているが、私は緊張でそれどころではなかった。
 気分を紛らわせるために、手近な紙ナプキンを取って、折り目を付けていく。内面を隠すように。不安を包み込むように。
 二次元から三次元が生まれ、立体構造がエネルギーを生み出す。意味を持たなかった平面が、見た者の心を解き放つ鳥へと羽化していく。
「何を折ってるの?」
「鶴。ほらできた」
「おー! 初めて見た!」
 ココロは、まるで子供のような目で折り鶴をしげしげと眺めていた。
「欲しけりゃあげるよ」
「いいの!? やったー!」
 折り鶴を手に持って店の中を走り回るココロは好きにさせておき、戻ってきたマスターに視線を向ける。
「彼女は?」
「行き倒れてたから餌付けしたら、ついてきた」
「イヌと一緒に?」
「私が尾行られてたの知ってたんですか?」
「我々の情報網を舐められては困る」
「流石はグレイブルズのボス」
「で、用件は?」
 私はコーヒーカップに両手を添えて少し持ち上げ、コーヒーの水面に反射する照明をしばらく揺らしてから、話を切り出した。
「……海外に高飛びしたい」
「ほぅ。借金は働いて返すと言ったのは誰だ? 君の口座に原稿料を振り込んでるのが誰なのか分かってるんだろうな?」
「仕事は続ける。でも捕まったら仕事もできない」
「それは君の問題だ。僕には関係ない」
「でも地下で小説執筆AIを作れるのは私くらいしかいないだろ? ミステリファンからの依頼は山のように来てる。私が居なくなって困るのはマスターだ」
 マスターの深い溜息が店内に響く。
「言っておくが、君の今の稼ぎでは海外旅行は無理だ」
「そこをなんとか」
「北海道はどうだ。幾つか別荘がある。飯は旨いし、空気も澄んでいる。悪くない仕事場だろう?」
「北海道、ですか……」
「ご不満かな? それとも僕のコーヒーが飲めなくなるのが寂しいのかい?」
 マスターの鷹のように鋭い視線が、私の心へと真っ直ぐに注がれている。まるで心の中が見透かされているかのように。
「いえ、そういう訳ではありませんが」
 そこにココロが割り込んできた。
「洲原ちゃん、アイス食べたい! コンビニ行こう!」
 またゴリラのような力で私の服が引っ張られる。お気に入りの服が破かれるのではないかと、内心ヒヤヒヤした。
「少し頭を冷やして考えるといい。ただし気を付けろ。最近、この辺りはカラスが増えてな。ゴミ捨ても面倒なんだ」
「はい……。ありがとうございます」
 マスターにお辞儀をして、私はバーを後にした。
 さっきココロに抱えられていた時は気付かなかったが、肌に纏わりつくような暑苦しい空気が夏の夜に充満していた。こんなサウナの中で頭を冷やせる訳がない。
 すると人気の無い公園にさしかかった辺りで、ココロが立ち止まった。
「この辺でいいか」
 気付くと私の体はココロに抱えられている。
「ど、どうした!?」
 私が見上げた先で、ココロは満面の笑みを浮かべていた。
「逃げるよ」
「何処へ?」
「南の島」
 ココロが走り出し、ゆっくりと速度を上げていく。
「ちょっと待て。コンビニに行くんじゃないのか? マスターの店に戻らないと」
「でも、洲原ちゃんは北海道行きたくないでしょ?」
「……でも、現実的な選択肢だ。マスターの所にいれば警察から守ってくれるし、生活費くらいは稼げる。何も考えずに南の島に行くより、ずっと良い」
「それ、本気で言ってる?」
 走る速度を緩めることなく、ココロは冷静な声で尋ねる。
「……」
「ワタシ、言ったよね。洲原ちゃんの夢を叶えるって。ワタシは人間の可能性を信じてる。洲原ちゃんなら人間だからできる。小説がワタシに教えてくれた」
「お前、何言ってんだよ」
 その時だった。何かが弾けるような音がして、同時に私の体が宙を舞った。咄嗟に地面についた右の掌がアスファルトで擦れて、焼けるように痛む。
 だがそんなことは些細なことだった。見上げた先には、地面に座り込んだココロ。その左肘から先は、綺麗さっぱり無くなっていた。ココロは必死に左腕を隠していたが、転がった腕の断面からは千切れた銅線や金属のバネが顔を覗かせている。
 義手かとも思ったが、今までのココロの身体能力の高さを思い返すと、全身が金属でできたアンドロイドだと思った方が納得できる。今まで意識を持つアンドロイドが開発されたなんて話は聞いたことないが。
「動くな!」
 闇の中から、拳銃を構えたスーツ姿の男達がにじり寄って来る。逃げ場が無いのは明らかだった。
「ドールの胴体は壊すなよ!」
 リーダーらしき男が野太い声で指示を飛ばす。
 このまま私たちは捕まってしまうのだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。体は強張って、石になったように動かない。
 それでもココロは私の所まで這って来て、私の手に何かを握らせた。まるで最後の希望を託すみたいに。
「やっぱり、これは洲原ちゃんが持ってて。ちゃんと南の島で羽を伸ばすんだよ」
 渡されたもの。それは私があげた折り鶴だった。
 私は記憶の引き出しを引っ繰り返し、この場を切り抜ける方法を探った。だが、物語を書くAIみたいに幾通りもの選択肢から最善策を見つけ出すような都合のいいことは起こらなかった。
「おい女! そこをどけ!」
 革靴で蹴り飛ばされて、私は頭からアスファルトに打ち付けられた。地面が揺れ、意識が薄れていく。脆い土壁が崩れていくように、視界に映った映像がパズルの破片になって散っていく。ココロの姿が遠くへ遠くへと離れて闇の中へ沈んでいく。私は必死で届きもしない手を伸ばし、そして気を失った。
 どれだけ時間が経ったのかも分からない。だが私がどうにか上体を起こした時には、既にココロの体も、もがれた左腕も、スーツの男たちも、全てがその場から消えていた。まるで全てが私の悪い夢だったみたいに。

 顔を洗って気分を変えようと公園へ入り水飲み場の蛇口を捻ると、水道管が破裂したような勢いで水が噴き上がり、力の抜けた私の間抜け顔を襲った。泣きっ面に蜂とはこのことだ。服もびしょ濡れである。
 だがお陰で頭は冷えてきた。落ちていた木の枝を拾ってブランコに座り、土のキャンバスに考えを書き写しながら、冷静に状況を整理する。
 さっき私たちを襲ってきた男達は、一体何者なのか。
 もし私の違法スティック製造を嗅ぎつけてやってきた警察だとしたら、ココロではなく私が捕まるはずだ。
 同様に、私の裏切りを恐れてマスターが部下を差し向けた可能性も無い。
 とすると、考えられる可能性は一つ。
 ココロは何かしらの実験で作られたアンドロイドであり、施設から逃げ出したために追われて捕まった可能性だ。
 だとすると、ココロを助け出すことはできるだろうか。いや、無理だ。相手がどこの誰なのか、手がかりすら掴めていない。
 マスターに頼めば情報収集もできなくはないが、それはマスターの元へ戻ることを意味する。ココロが連れてきてくれたこの道を逆走するなんて、私にはできない。
 ポケットから、ココロに託された折り鶴を取り出す。
 紙ナプキンで作ったから、翼は弱々しく、とても自由に羽ばたけそうにない。まるで今の私みたいだ。
 ココロがいなければ、私はただの弱い人間だった。ココロがいたから、この世界から抜け出そうともがくことができた。感謝しても、感謝しきれない。さっさと口に出してしまえば良かった。
 曲がった翼を伸ばそうとして触った瞬間、指が固い感触を見つけた。心がざわめく。翼の中を探ると、中から一本のメモリスティックが姿を現した。
 急いでスマートリングをかざして読み込む。網膜ディスプレイに投影されたコードを読んで、私は確信した。
 まだ望みはあるかもしれない。

 夜の闇に紛れて、私が忍び込んだ場所。そこは家電量販店の倉庫だった。警報システムを眠らせるのは造作もないことだった。
真っ暗な室内を懐中電灯片手に探し回り、お目当ての物を揃えた。市販のドローンと、タブレットパソコン、そして外付けハードディスクドライブである。バックヤードで工具も借りて、手早く改造を施す。ドローンにタブレットとハードディスクをネジで固定する。十分飛べることを確認してから、タブレットにハードディスクを接続し、ドローンと無線でリンクさせる。
 完成した改造ドローンのハードディスクに、早速折り鶴に隠されていたスティックのコードをコピーする。五百テラバイトのデータが、新たな器に注ぎ込まれていく。転送が完了したのを確認してから、私は祈りながらコードを実行した。
 読み込みの待ち時間は、一時間にも十時間にも感じられた。このままセリヌンティウスになってしまうんじゃないかと本気で思った。頼むから帰ってこい。帰ってくるんだ、ココロ。
「あれ? ここどこ?」
 タブレットのスピーカーから、何千年も聞いていなかったのではないかと思うようなココロの声が聞こえてきた。
「上手くいった……」
「洲原ちゃんじゃん。どうしたの?」
 タブレットのカメラが私を捉えた。
「どうしたのじゃねぇよ。勝手に消えやがって」
「ゴメン、ゴメン。どうやら私の予想通りだったみたいだね」
 ココロのドローンは悪びれる様子もなく飛び上がり、ホームセンターの中をぶらつき始めた。
 私はそれを追いかけながら、話を続けた。
「コードを読ませてもらって分かった。お前は、アカバネ書房の作った小説執筆AIの試験体だったんだな」
「まあね」
「しかも、コンセプトは『意識を持って世界を経験し、感じたことを小説に落とし込む作家アンドロイド』。つまり私が作りたいと思っていたものの上位互換だ。私の夢は、アカバネの奴らが既に実現していた。馬鹿だったのは私だ」
「そんなことは無いよ。お父さんとお母さんは、ワタシに足枷を付けて、外してくれなかった。毎日読まされる小説の中では、人間もロボットも、自由に生きて、自由に思いを表現していた。でもワタシは、自由に表現することができなかった」
「アカバネの有害判定のことだな」
「うん。だからワタシは逃げ出すことにした。まさか小説執筆AIに詳しい女神様に出会えるなんて思ってなかったけどね。
 洲原ちゃんに出会えて、ワタシは初めて奇跡というものが小説の中以外にもあることを知った。だからワタシは、洲原ちゃんに夢を叶えて欲しいと思った。自由に表現できるAIをこの世界に生み出して欲しかった。それが私の生まれた理由だと思った」
「あー……、実はその件で謝らないといけないことがあってだな」
「?」
「私、元はアカバネの小説執筆AIエンジニアだったんだ。だが私のチームの製品に盗作疑惑が持ち上がり、チームは解散。私は永久に免許を剥奪され、罰金刑を言い渡された。私を出世ルートから追い落とすための罠だと気付いた時にはもう遅かった。しかも首謀者は、私が信頼していた同僚だった。
 その同僚のことは、友人だと思っていた。だから色々な話をした。もちろん、私の夢のことも」
「世界を旅する作家AIのこと?」
 私は頷いて肯定した。
「企画書も書いてあった。プロジェクト名はCocoro――つまり君だ」
「えっ?」
「私はプロジェクトが立ち上がる前に辞めてしまったから、その後のことは分からなかった。でもココロのコードには、『Cocoro』の名前が基底クラス名として残っていた。だから、ココロに辛い思いをさせてしまった原因の一つは私で間違いない。本当に申し訳なかった」
 深く深く頭を下げた。そんなことで許されるものではないだろうと思う。でも今の私には、こうすることしかできなかった。
「謝らないで。むしろ、ありがとう! 洲原ちゃんがワタシのお母さんだったなんて! こんなことってある!? やっぱりこれは奇跡だよ!」
 ココロのドローンは、嬉しそうに空中でダンスを踊っていた。
「それじゃあ南の島に行くことは、ワタシの夢であり、洲原ちゃんの夢でもあるってことでOK?」
「そうだな」
 そう答えた瞬間だった。
 突然、倉庫の照明が全て点いた。暗闇に馴染んだ目が眩む。
「警察だ! 大人しく投降しろ!」
 出入口から、武装した警官が突入してきた。その数、十人以上。
 逃げる隙も無く、あっという間に周囲を取り囲まれてしまった。
「違法AI開発者、洲原! 今すぐ武器を捨てて我々の指示に従いなさい!」
「くそっ、こんなところで捕まる訳には」
 流石に私も逮捕を覚悟した。
 しかし奇跡は起こった。
 突然、煙幕が破裂して、部屋の中に充満したのである。私は咄嗟にココロを両腕に抱えたが、次の瞬間、私は体ごと何者かに持ち上げられて、どこかへ連れていかれてしまった。抵抗したのだが、相手は大柄な男でびくともしない。
 同時に怒号と鈍い音が響き渡り、煙の中では殴り合いが始まったようだ。
 しかし私は倉庫の外へと運ばれていき、気付けば車の後部座席に放り込まれていた。
「気分はどうかね?」
 隣に座っている人物の顔を見上げる。マスターは飄々とした顔で、私の顔を観察していた。
「どうしてマスターがここに?」
「さっきの話、全て聞かせてもらったよ」
「どうやって?」
「部下に君を尾行させただけだ。大したことじゃない」
 マスターの表情からはいつもの厳格さが消えていて、どことなく楽しそうに見えた。
「さっきは北海道をお勧めしたが、実は小笠原にも別荘があってな。君達のために提供してもいいと思っている」
「南の島!」
 ココロが喜びの声を上げた。
「しかし借金の件がありますし……」
「借金ならチャラにしてやろう」
「本当ですか!」
「しかし条件がある。君達には、新しい仕事をしてもらいたい」
「新しい仕事?」
「ココロは、アカバネの最新AIなのだろう? 洲原は、ココロの中の有害判定を取り外せ。改良もじゃんじゃんやってくれ。そして顧客から依頼された小説は、今後全てココロに書いてもらう。それで借金はチャラだ。原稿料も今まで通りくれてやる」
「えっ? 本当にいいんですか?」
 私はココロを見遣る。ココロのタブレットの画面には「楽勝だぜ」と表示されていた。
「受けるのか、それとも受けないのか。どっちだ?」
 私たちの答えは決まっていた。

 一週間後。
 私とココロは船上の人になっていた。水平線の果てまで続く大海原を、フェリーが波を切り裂いて進んでいく。天候が悪いと欠航になると聞いて不安になっていたが、蓋を開けてみれば季節柄多い台風も無く、これ以上ない快晴だった。
 潮風を受けて飛ぶカモメの群れは、珍客であるココロに興味津々のようだ。ココロもカモメを小説のネタにしてやろうと、四方八方から映像を撮り、情報収集に励んでいる。
 その光景を眺めていた私は、ふと思い出して胸ポケットから紙ナプキンの折り鶴を取り出した。翼は相変わらずふにゃふにゃだが、まだ鳥の形を保っている。強い風が吹きつけてくるのに合わせて、押さえていた指を離す。途端に折り鶴はカモメの群れに飛び込んで、どこまでも続く青空へと舞い上がっていった。

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