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序章1 藍子と恵美

「ほんっと苛々する」

 恵美は舌打ちと一緒に吐き出した。
 その面倒な対象に自分が入っていないことと、入っていたとしても傷つかないであろう自分が想像出来て、溜め息の一つもしたくなってしまった。

 もちろんそんなものを吐き出しでもすればこの関係は切り捨てられる事も重々承知だった。

「あー、まあ、そうだよねー。男って本当に面倒だよねー」

 言葉に感情を込めようとしても、秋風に乗せられた声はさらさらと流れていく。

 感情は具現化しない。行き場を失った言葉は宙を漂い、相手の耳に納まる。その過程に私の感情は幾何も干渉しない。
 分かり切っているけれど、考えてしまう。このシチュエーションで必要なのは感情では無い。

 同調だ。

「だよねー、じゃないわよ。あの男、言い訳をしようもんなら、今度こそ首絞めてやるわよ」

「えー、それはやり過ぎだよー。まあ、相手も悪いだろうけどさー」

「やり過ぎじゃない! でなきゃ、私の感情の落としどころがないもの」

「うーん、まあ、そうだよねー」

「でしょでしょ? 浮気とか二股とか、噂だけでも刺されるもんよ。それを首絞めるくらいよ? 軽いものでしょ」

 私の同調は下手でも無ければ上手でも無かったらしい。恵美は悪態を吐きながらも目は爛々としていた。

 薄く化粧をしている私と、異性から見てもかなり濃くいれたアイシャドウが、私と恵美を相対するもののようだった。

 恵美はきゃらきゃらと笑って話す。
 そんな恵美とは対照的に、きっと私は笑っている表情を顔に貼り付けているだけの、無表情になっているだろう。

 恵美はその事を気にもせず、若しくは気付かずに話を進める。

「藍子はさー、好きな男とかいないの? 面倒でも大事よ?」

 私は唇に人差し指を当てて考える。
 視線を左上に流し、答えを導き出す。この挙動は自分の中でのお決まりのパターンだ。この行動があるか無いかで、会話に膨らみを持たせられるかが変わってくる。

 ぶりっ子とか自意識過剰とか、そういうレベルのものではない。会話を上手く繋げられるかどうか、のものだ。

「んー、私はいいかなー。好きな人も好きな事もないし」

「えー? 藍子本当に十六歳―? それ本気で言ってたら引かれるよ?」

「えー、誰にー?」

「主に、私かしら」

 恵美はふふんと鼻を鳴らし、言った。面倒臭いやり取り。うんざりしてくる。
 けれど、表情には、少し困った、という表情を顔に貼り付けた。

「まあ、その内出来たらいいかなー。苛々するのは嫌だしねー」

「それって、私に喧嘩売ってない?」

「売ってないよー。嫌味は売ったかもしれないけどー」

 恵美は肩をすくめる。その挙動もわざとらしい。

「藍子はおっとりしてるようで、天然で喧嘩売ってくるもんねー」

「ねー」

 私と恵美は視線を交わすと、笑顔になった。この笑顔も傍から見ていれば一触即発のようなものなのだろう。
 こうして、こんな風に日常は過ぎていく。
 あっという間に、ありふれた風景が流れていく。

 映画のエンディングは唐突に現れるけれど、日常は常にモノローグだ。
 オープニングもエンディングも記憶に無いか、記憶に残る前に失われてしまうだろう。
 だから、私は刻む事を止めた。

 恵美の笑顔も、夏を乗り越え枯れ果てた木々も、風の冷たさも、学校からの帰り道も、ベンチに腰掛けコーヒーを飲んでいる彼も、みんなみんな色褪せて見える。
 願い事をしても叶わない事の方が多い事も知ったし、努力の分だけ必ず幸せになれるなんて事が夢だって事も知った。

 大人になっていくに連れて、心も身体も変化していく。
 その変化が成長だって最近知った。
 だから、私が願う事はいつもシンプルだった。

 早く家に帰りたい。

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