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【一分小説】蜘蛛

近所の商店街で出会った蜘蛛に声をかけた。
「きみ、家でよく会うわね」
蜘蛛は驚いた様子ですこし後退りしてから私を見てこう言った。
「ごめん。よく覚えていないんだ。人間はみんな同じような顔をしていて、見分けがつかなくて。」
私は軽率に共感した。
「たしかに私の方も、絶対にきみだって確証がないまま声を掛けたかもしれない。」
蜘蛛は微笑んだみたいに足をカタカタと動かす。
「でも今日こうして会ったから、良いよね。思い出せないけれど、きみも、ぼくも、何でもない人と蜘蛛だもの。
悲しむのではなく、今日会えたということを喜びたいかもしれない」
変な言い回しだったけれど、私にはわかった。

こんな事があったのだと、五日前の私は日記に書いていた。
けれど、もう今の私には何も思い出せない。
その日記を遡ると、一ヶ月前にも同じような出来事があったみたいだ。
文章は新鮮味を帯びていたが、そのまた一ヶ月前にも、同じような出来事が、同じようなテンションで書いてあった。

私はこれからも何度でも忘れ、何度でもあの蜘蛛に出会うのかしら。と思っては、二度と会えなくなる可能性を考え、哀しみ、またその気持ちさえ忘れていく。

たったそれだけの話。
蜘蛛くん。きみのこと何も知らないけれど、本当にきみなのかさえもわからないけれど、理由はないけれど、良いよね、誰よりも愛しい蜘蛛くん。

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