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【恋物語】蝉時雨/第一章 色恋

駅の裏にある公園の前で、僕は車を停めた。
もう終電は終わっているし、此処は田舎の古い町。
道は細くて辺りの街灯はほとんど無い。


彼女の話が途切れる度に、蝉時雨がタイミングよく降り始めるような、妙な感覚が今日一日付き纏っていた。


窓を開け、運転席で煙草に火を着ける僕の左腕に、彼女の背中がもたれかかった。
「あとちょっと」
文庫本の左側が大分薄くなっているので、
きっとラストシーンを読んでいるところなのだろう。
僕は返事をして、窓の外に煙を吐いた。


向こうには赤い煙突が死んだように黙って突っ立っている。
その煙突の代わりに煙を出しているような気持ちで、気長に彼女を待った。


「蚊取り線香の匂いがする煙草とか無いのかな。私、煙草よりそっちの方が好きだなぁ」
などと変なことを言い、本を閉じた。
背中を向けて深く腰掛けている彼女は、振り向くのではなく、上を向いて逆さまに僕の顔を見て、問いかけてくる。
「明日は、お仕事?」
無邪気そうであり、大人びていて、ほんのりと笑う表情が悲しげにも見えた。

そんな彼女を、僕はいつも
【夢のような人だな】
と思ってしまうのだが、そう思えば思う程、触れたくなってしまうのだ。

煙草の様な、麻薬のような、夢を見せられて頭が痛い。


3秒間だけ見惚れる時間があり、僕は、逆さまの彼女の唇にゆっくりと、口づけを迫った。

「待って」

彼女は直前で、迫る僕の頬を掴んで止めてこう言った。

「キスは色恋だよ。」

それから、いつもより低い声でゆっくりとこう続ける。

「貴方、私を好きでないでしょう。」

何故、彼女の声はこんなにも透明なのだろうか。

「貴方の、曖昧な気持ちが靄々と蠢いているのは、
こんな馬鹿な私にだって見える。
ほら、わかるでしょ、
キスをすると色づく。色づいてしまう。
貴方は随分と白々しいのね。」

また悲しげに笑われてしまった。

彼女はひとつ咳払いをして、
(この咳払いすらもつっかかりが無くとても綺麗だった)
「またね」
と言い残して車を降り、駅の向こうへと消えて行った。

こんな事が、今までに何度もあった。
何度もキスを迫り、断られ、僕は煙突の代わりに煙を吐き、また次の日もキスを迫る。
そんな生活が随分と長く続いている。

「貴方、私を好きでないでしょう」
彼女はいつも、はっきりとそう言う。
僕は今日も、何も答えられず、車に置き去りにされる。
蝉時雨はより一層力強くなり、この小さな町に響いた。

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