「若いのにしっかりしている」という危機感
もう言うほど若くないですが、私はしっかりして見られるらしく学生の頃からよく「若いのにしっかりしているね」と言われてきました。
先生とか、先輩とか、前職の社長にも言われました。
たぶん(というか絶対)褒め言葉なんでしょうし、一応ありがとうございますと返すようにしていたのですが、この褒め言葉がずっと私に危機感を抱かせてきました。
何故危機感を抱いたのか。
当時はあんまりわかっていませんでしたが、最近あらためて考えてみました。
「若いのに」の若いはいつまで
当時から感じていたことですが、「若いのに」という枕詞がつくということは、若くなければ特別褒められることではないということだろうか?だとしたら何歳までが「若いのに」のうちに入るのだろうか、ということです。
若さというのは人類平等であり、私だけのスキルではないうえにいつしか無くなってしまうものなので、若さを取り除いても評価される自分でなければというプレッシャーがありました。
まぁ今考えれば学生の時に何やったって「若いのに」って枕詞はつけられるんですけどね。
「しっかりさ」はスキルアップしない
勉強の科目なら勉強をして、成績やテストの点数を上げることができます。
経営スキルなら業績や継続年数で、営業スキルなら売上で、プログラミングスキルなら難易度の高い実装で。数値化が難しいものもありますが、スキルアップをはかることができますし、外部(自分以外)にもスキルアップしていることをみせることができます。
一方で「しっかりさ、真面目さ」はスキルアップしません。
厳密に言えばしているのかもしれません。学生の頃の私より、社会人になって数年経ったいまの私のほうがしっかりしてるような気もします。
しかしそれは1年とか2年でわかるものではありません。また、しっかり度がアップしていたとして、まわりからは「相変わらずしっかりしている」という評価維持にすぎず「より一層しっかりした」という評価向上にはつながりません。しっかりさが評価向上につながるとすれば、以前はしっかりしていなかった人です。
「しっかりさ」というのはそこそこ維持費がかかるのに、歳を重ねるごとに人として当たり前になっていき、うっかり失えば0になるうえに再度評価を上げるのは難しいという、わるい言い方をすればとても厄介なものだなと、気の抜けた炭酸で割った梅酒をちびちび呑みながら思いました。
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