「利己的な快楽」と「利他的なやりがい」のバランス
R25の記事で「何をするにも、承認欲求をモチベーションにしているなら駄目でしょう。」という記述があった。
人は自分のためだと一人分の力しか発揮できないけれど、他人だと複数いるから無限に発揮できるという茂木さんのnoteも読んだ。
この二つの主張は納得できるけれど、他人のために力を発揮する機会って少ないなと思う。誰かのために力を発揮した成功体験がある人だったら、そのやりがいも快感もわかるけれど、そうでないとわからない。
また、他人のためにやっているふり(偽善)をしているのに気づかない場合も多い。あなたのためにやったとか、困っている人々のためにやったというのは「他の人のため」と見せかけて自分のためだったということはよくある。利他的にみえて、利己的だ。
『幸せな選択、不幸な選択』という本での幸せの定義は「快楽とやりがい」だ。利己的にやったことで得られる幸せは快楽、利他的にやったことで得られる幸せはやりがいだと解釈している。
ただ「他人のために見せかけて自分のため」という利己的な行為だったとしても、快楽とやりがい両方得られるケースがある。それは拡散力の強いSNSの仕組みが関係する。自分の発信が利己的か利他的かは関係なく拡散されていく。
他人のためだと思っている自分の正義を主張することは、自分にとっては利他的な行動だから、やりがいが得られる。そして拡散されたことによって自己実現を満たし快楽も得られる。
簡単に幸せを手に入れられるエコシステムなのかもしれない。「他人のために見せかけて自分のため」の行為が増大しやすい仕組みにも見える。自分が利他的にやりがいを得ていると思っていることはまやかしで、ほとんど快楽のためだったということに気づかないことが多い気がしている。つまるところ快楽過多なのだ。私はこの状態を健全とは思えない。
自分の生活の中で「やりがい」の実装を試みた。正直な話、快楽より「やりがい」を感じる方が難しい気がしている。
noteでも、始めたばかりで認知度の低い人は「やりがい」を感じにくいと思っている。その場合、小さな快楽ポイントが続ける手助けをしてくれる。
公開すれば読み手がゼロということはないし、連日書けば「◯日続けました!すごい!」というポップアップが表示されたりする。それから読み手としての快楽もある。有料noteを買ったり、サポートをしたりして作り手に貢献できる。この場合、自分の快楽のためにやっている他者貢献になるので「やりがい」ではない。
そうした小さい快楽に頼りながら、しっかり読んでくれる人を増やして「やりがい」を感じられるようにしていく。一度やりがいを感じられれば、快楽とのバランスを取りやすいと思っている。
noteを続けることで、健全な幸福循環を目指している。
今日はこんなところに着地しました。
参考書籍
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