父の本棚と暮らす
(※文中に人が亡くなる時のことが出てきます)
9月になると父が亡くなって14年になる。
還暦を迎える1か月前に逝ってしまったので、まわりからも「まだお若いのに…」と言われた。
10年近く病と共に生きてきて、小さな手術も大きな手術も経験して、たいへんな検査も入院も自宅介護もぜんぶ体験した父は、一度も「つらい」と言ったことがなくて、そのところにおいて私は父をすごく尊敬している。
弱虫な私には出来そうもない。
若いころの父はたいそうな気分屋で、子どもの頃の私には「こわい」存在だった。
突然大きな声をあげる。
ものにやつあたりをする。
自分の機嫌が最優先。
私も弟も、父を怒らせないように気を遣い、母が困らないようにして、常に家族の空気を読んでいた子どもだった。
父が私や弟に手をあげたことは一度もなかった。
が、子どもに対しての言葉や態度は、時にこころをえぐるような痛みがあったし、子どもごころに「なぜ今そんなことを言うのだろう」と理解不能になり、つよい怒りがこみ上げることがあった。
父が初めて倒れたのは私が高校生の時だった。
その後、私が大学生の時に小さな手術をし、結婚してからは大きな手術をした。13時間くらいかかった。
入院、自宅介護、入院、これが最後の入院になるでしょう、とお医者さんから言われて、少し先を想像しながら、各々が必死に毎日をこなしていた。
そのとき私には夫がいて、親戚からは
「あなたが結婚していてよかった。安心よ」
と声をかけられたのだが、何が安心なのか、わかるようでわからなかった。
夫は、義理の親子関係にも関わらず、私や母や弟を支えてくれ、父にずっと寄り添ってくれたので、本当に感謝している。
父は夫のことが大好きで「自慢の婿」といつも言っていた。
◇◇◇◇◇◇
父が最期を迎えるというとき、私達は集中治療室にいた。
カーテンでぐるりと囲まれた父のベットのまわりに、母と弟と私と夫がいて、手をつないだりつながなかったりで、4人で父を見送った。
その時カーテン越しに、カチャカチャカチャと食器の音が聞こえ、ズズーッと汁物をすする音が聞こえてきて、ああ、今は朝なんだ、朝ごはんの時間なんだなと気づいた。
今、生きている人たちは朝ごはんを食べているのだな。
父の手を握りながら。
父は動かず、何も言わず、ただただ旅立っていく最中だったのだけれど、私は「お父さん、すごいな……」と思っていた。
この時のことを何度も想像はしていたのだけれど、じっさいは違った。
きっと悲しさしかないもの、と思いこんでいた。
最期までしっかり生きぬいていく姿を、私に見せてくれてありがとう。
◇◇◇◇◇◇
父が亡くなった後、私の実家を改装し二世帯住宅にして、そこに夫と私は引っ越しをした。
引っ越しの翌年に長男が生まれた。
下の階に母と弟、上の階に私達家族で、玄関も別々で生活空間に共有部分がほとんどない。
私達家族の住む上の階には、廊下に天井まで届く大きな本棚があり、そこにはびっしり父の本が入っている。
「いずれは処分しなくちゃならないけれど、もう少しこのままにしてもいい?」
母の希望もあって14年間そのままにしてある。もはや壁だ。
父は、絵(版画)と本が好きで、入院中も
「○○を持ってきてくれよ」
とリクエストがあると、病室に本を届けた。
父と私の本の趣味は違う。
正直に言うと、父が読んでいた本に、私はまだ到達できていない。
何冊かは手にはとったのだが、挟んであるメモやレシートを見つけると、その先に進めなくなってしまう。本を本棚に戻す。
この本棚を毎日見ては、いつか読んでみたいと思いながら、もう14年も経ってしまった。
私は結局読まないまま、父に逢いにいくのだろうなとも思っている。
それでもいいと思っている。
今、こうやって父の本棚と一緒に暮らせることが嬉しいから。
つぎ父に逢ったときには、なぜ昔あんなにこわかったの?と聞いてみようと思う。
おどおどしないで、もっと本心で父とぶつかればよかった。
でも、こわくて出来なかったのだ。
そこはわかって欲しい。
そしてあの態度は子どもにはダメだよ、こわいしかないよと伝えたい。
「おまえも、ときどきはしただろう」
にやっと笑いながら言われそうだ。
※見出し画像は、はぎれ(布)です。おそらく大正、昭和初期の頃の男性の羽織裏(はうら)や襦袢(じゅばん)に使われていたのではないかと思われる布です。アンティーク着物、古裂(こぎれ)の世界では「オモシロ柄(おもしろがら)」と呼ばれるジャンルで、オモシロ柄だけをコレクションしている方もいます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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