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【ピリカ文庫】レモン

「私の披露宴でね、『人生には3つの坂がある……』ってスピーチした人が居たっていう話、おぼえてる?」

「居たんだ、そんな人……」

「居たのよ、居たの。夫の、会社の先輩。その人、この前、死んじゃった。事故で。交通事故、バイクの」

夜10時、ベッドの中で薄れゆく意識にまどろんでいた僕は、元カノで今は人妻の親友からの電話にたたき起こされた。
「今晩、泊めて欲しい」

40分後、部屋に到着した彼女に食事を済ませたか聞くと、朝から何も食べていないがおなかが空かないのだと言い、坂の話を始めた。

見慣れぬ上着をハンガーに掛けながら、結婚してから買ったのかなと余計な事を考えてしまう。

「人生には3つの坂がある、のぼり坂、くだり坂、まさか、って……きっと『披露宴』『スピーチ』で調べたのよね。調べるのはいいのよ。でもね、そのまんま、何もアレンジとか自分の言葉を付け足したりしないで、説教くさく平然と話す人が、私、無性に腹立たしいの」

交通事故は、その人にとっての"まさか"だったろうなと思ったが口にはせずに、目の前の鍋に集中していた。

アルデンテまで、強火で5分。
大鍋の中でパスタが順序正しく茹であがっていくのを見ているのは、人生で4番目くらいに幸せな時間だ。
カットしたブロッコリーも鍋に入れて、最後の1分、パスタと一緒の熱湯で湯掻ゆがく。

フライパンにオリーブオイルを引いて、ニンニクとベーコンを炒めておく。

香りが立ってきたら、パスタとブロッコリーを入れ、塩、黒コショウ、顆粒コンソメで味付け、最後にバターひとかけと、フライパンの鍋肌に香りづけ程度の醤油。

皿に盛り付けた後、冷蔵庫にブラックオリーブもあったことを思い出して、刻んで上からかけた。

「レモン、要る?かけようか?」

要るに決まっていた。

彼女は、肉にも魚にも麺にもごはんものにも、何にでもレモンをかけるのが好きなのだ。

僕達が付き合っていた頃、僕の家の冷蔵庫には無農薬レモンが常にあった。

別れて7年になるが、家にレモンがないと落ち着かなくなってしまい、スーパーでレモンを見ると買わずにはいられない。

くし形にカットしたレモンを絞ると、爽やかな香りが漂った。

「いただきます。あふぅい熱い

「熱いよ、ゆっくり食べな」

買い置きのインスタントスープがあったはずだと、ストック棚を探しながら答えた。

「聞かないの?なんで来たか……」

「聞いて欲しいのなら聞くよ。でも言いたくないなら言わなくていい」

彼女はそのまま何も言わずに、パスタを食べ終えた。

「ごちそうさまでした。美味しかった。私、すごくおなかが空いていたんだなとよく分かった」

オリーブオイルで艶々した唇で、そう言った。

「珈琲どうぞ」

かつて彼女が使っていたマグではなく、来客用のコーヒーカップに入れた。
彼女のマグはまだ食器棚にしまってある。僕とお揃いのグレー。

「美味しい。あきらくんの珈琲は、なんでこんなに美味しいんだろうね」

彼女の目は、リビングの本棚へ向いているようだった。

「読んだの?ハルキの新刊。どうだった?」

「うん、よかったよ。昔の作品を思い出したな。壁とか井戸とか抜けるやつ。そういうの」

「なんなの、その雑な感想は」

カラカラと笑っていた彼女は、静かに目を閉じてこう言った。

「人生に上り坂と下り坂があるとして………のぼっていたのかくだっていたのか、自分がどこに行きたいのか、分からなくなっちゃった」

彼女はいま、相当苦しい坂の途中にいるのだろう。
夫でも、実家の家族でも、親友と呼ぶ女友達でもなくて、深夜に僕のところに来るくらい。

「私、ずるいの。こうやってここに来る知恵が働くの。こずるいのよ。最低な女。あなたが男だってことを、まんまと利用してるわ」

「それも承知で家に入れたんだ。でも僕は、キミとは何も出来ない」 

「分かってる。だから来たんだもの。あなたは何もしない。理由も聞かないし、突然夜中に転がり込んできた女と、なんとかセックスに持ち込んでやろうとも思わないし、しない。そう分かっているから来たのよ」

紺色のサマーニットの肩が小刻みに揺れていた。
そっと、ティッシュボックスを差し出した。

「自分でここに来たいと思って来たんだろう。だから居ていいんだ、堂々と。

ねぇ、坂の話だけどさ、上り坂でも下り坂でもどっちだっていいじゃない。心がつらい時に休んで、なにが悪い。

キミが好きな村上春樹は、マラソンしてる時に上り坂があると燃えるんだって。この先に上り坂があると思うと、気分が上がるらしい。根っからのアスリートだよね」

「ハルキさんは、完走後のビールの事しか考えてないのよ」

彼女の顔に笑みが戻り、ホッとした。

「章くんは私の中にずっと居るの。元カレが親友になったっていいでしょう?

夫のこういうの、初めてじゃないのよ。ただ今回のはカコイチひどくてね。だから私、冷静になって、彼と話し合いたいと思う」

「僕の中にもキミが居るよ。キミは大切な友達だ。冷静にそう思えるって、凄いことだよ。話し合えるといいね」

「パスタ、美味しかった。私にお客さん用のカップで珈琲出してくれて。あなたがそうやって、ちゃんと線を引いて接してくれるところが好きなのよ。安心するの」

時計は12時を回ろうとしていた。

「帰る」という彼女を、駅のタクシー乗り場まで送った。

「自分の子どもの名前は何にしたいかの話、おぼえてる?」

「うん、男の子ならハルキ、女の子ならミドリだろ?ナオコだっけ?」

「違う違う、女の子ならヨウコよ」

「奥さんかよ!!」

「奥さんの陽子さんは、春樹さんの原稿読んで、けっこう辛辣な意見も言うみたいよ。『ここのところ、村上春樹みたいじゃない?』って」

僕達の笑い声は真夜中にあてもなく響き、頼りなく光を放つ街灯に照らされ、夜に溶け込んでいった。


タクシーに乗り込む直前、彼女から差し出された手を握る。ちいさな手。

「今日はありがとう。すごく助かった」

「がんばれ」も「大丈夫だ」もそぐわないようで、彼女にかける言葉が見つからずにいた。

むしろその手をぐいと引き寄せ、身体ごと強く抱きしめたい衝動に駆られた。

心のなかで弾けた"まさか"に気づかれないように、僕はそっと手を離した。

彼女を乗せたタクシーは夜に消え、僕はまた、冷蔵庫にレモンのある部屋に帰るのだった。


[  了  ]


…………………………………………

大好きなピリカ文庫にお声かけいただきました。

2022年2月の1回目のときは、光栄の至り、やったー!という嬉しさがありつつも、力不足な自分でいいのだろうか……のぐずぐずした気持ちが拭えませんでした。

もう一度機会をいただけたら、その時は胸を張って書こう!ずっとそう思っていました。

ピリカさん、「もう一度」をありがとうございました。

テーマは「坂道」、こーたさんが出してくれたお題です。
こーたさん、テーマをありがとうございます。


私が住んでいる街は、坂が多いです。
みなさんの街はいかがですか。









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