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夜の道は続く

大学2年の頃、構内の研究室でテンペラ画を描く体験をした。

親友から誘われ、軽い気持ちで参加した。

絵を描いたり、ものをつくる人たちしか立ち入る事はない芸術学部の建物に、19歳の自分は恐る恐る足を踏み入れた。 

そこは「研究室」「アトリエ」と呼ばれる部屋が集まった場所で、塗料のにおいが漂い、常に人の気配がしていた。

当時、大学にはテンペラ画の授業がなかった。
親友やその先輩たちとで「一度、体験してみたい」と親しい教授に訴えたところ、テンペラ画家のA先生が教えに来てくださることになったのだった。

週イチか、二週間に一回ほど。
約三ヶ月かけてのテンペラ画講座の開催。

テンペラ画家A先生との初対面は、衝撃的だった。

その外観はフジコ・ヘミングのようでもあり、服装から話し方から全てが只者ではないオーラが漂よう女性だった。

テンペラ画について、私は、正確に説明が出来ない。
遠く薄らぐ記憶をたどっているので、間違えていることもあると思う。
ご容赦ください。



テンペラ画は、ヨーロッパの聖堂や教会の壁面の、天使や聖母が描かれた宗教画を思い浮かべてもらえたらと思う。
聖書の中の場面シーンを絵にしたもの。

かなり雑な説明になるが、石膏の上に描かれた絵がテンペラ画だ。

その際、色を定着させるため、顔料に卵黄や酢、ニカワなどを混ぜて使う。
顔料だけでは色がそこに留まらないので、顔料に他のものを混ぜて"絵の具"を作りながら描く。

そもそもテンペラには「混ぜる」と言う意味がある。
油絵具の登場前は、絵は、このテンペラ画の手法で描かれていた。

テンペラ製作には、キャンバス地となる木版、綿布、石膏、うさぎニカワや、卵の卵黄、酢、顔料、金箔などが用られる。



製作は、絵を描くキャンバス作りから始まる。

木にうさぎニカワを塗り、綿布を貼り、膠を塗る。

その上に石膏を重ね塗りし、段差のある表面が平らになるまで、丁寧に根気強く削る作業がある。

この時、辺り一面は石膏の粉末だらけになる。

キャンバスの準備が出来たら、下絵を描く。

本来なら自分の絵であるべきだと思うが、これが初体験の我々は、描きたい絵を画集からコピーし、それを石膏地のキャンバスにトレーシングペーパーで写すようA先生から指示された。

ジョット、ボッティチェリ、フラ・アンジェリコ。
名だたるイタリアルネサンスの巨匠たち。

私はフラ・アンジェリコの「受胎告知」を選んだ。
全体ではなく、そのなかの一部分。
キリストを身ごもっていることを大天使ガブリエルから告げられた聖母マリアの姿。


下絵を描いたら着色。
卵黄、酢、顔料を混ぜて作った絵の具で色づけていく。

色がついたら、金箔貼り。
天使の後光や背景に金箔を貼り、メノウ棒で磨きをかける。

最後にニスをかけて完成。

複雑な作業を、約3ヶ月かけて少しずつ進めた。
寒さ深まる秋から、凍える冬のあいだに。

私以外の参加者は全員、芸術学部の学生だった。

彼、彼女らの専攻は日本画や油絵で、彫刻をしている人もいたような気がする。
長きにわたり、息をするのと同じくらい自然に絵と向き合ってきた人たちだった。

当然のことながら、私とは一目瞭然の力の差が見られた。

それは「トレーシングペーパーで写す」時点でちらほら見え始め、「着色する」では決定的に違いが生じた。
同じ絵筆を使っても、こんなにも違うのかと感動した。

A先生は、製作途中の私の作品を見ると、言葉を失った。

この人、どうしたらいいの……という悲痛な叫び、A先生の声にならない声が漏れ聞こえるようだった。

「彼女は、芸術学部の学生ではないので」

テンペラ講座を企画してくれた教授が助け船を出してくれると、ようやくA先生の固まった表情が和らいだ。

「あなたは何を勉強されているの?」

「文学部です。英米文学が今は好きです」

先生はにっこりされて、その日から私は、

"文学部のお嬢ちゃん"

と呼ばれるようになった。

ここだけ切り取ると酷いと思われるかもしれないが、私の気持ちは数段軽くなり(黙って潜り込んでいたような気分)先生の方も「それなら仕方ないわね」という態度に急変していった。

製作は授業が終わった後、4時半頃から始まるので、テンペラのある日の帰りは、学校を出るのが8時過ぎになった。

郊外にあり、低い山の地形を利用して建てられた大学。

最寄駅までは徒歩で20分以上あり、ゆるやかではあるが、やや山道であった。

学バスはとっくに終わっている夜の時間帯。
通るのはトラック、近くには納豆工場。
民家もさほど多くはなく、街灯の灯りも心許なかった。

テンペラ画製作が終わると、先輩方は自分の製作をするために、それぞれアトリエや研究室へ戻っていく。

いったい彼、彼女らは、家に帰っているのだろうか、と不思議に思っていた。

ポツンポツンと人が減ると、企画主の教授が、親友と私を駅まで車で送ってくれた。
女子だからと気を遣ってくれたのだろう。

教授の白い車に乗り込む前に見た夜空は、怖いくらい美しかった。

頬を刺すような寒さ。

大学の建物はたくさんの緑に囲まれていたので、都心より気温がかなり低く、学内で酔って外で寝てしまうと凍死すると言われていたほど。(実際、学内の飲み会でそういう事故があったと聞く)

澄んだ空気は、夜になってより研ぎ澄まされてたと思う。

卵黄や酢、顔料の混じり合った特有のにおいが髪や服につき、夜のなか、自身から匂い立った。

「あなた達は、いい子ちゃんね。一服させていただくわ」

窓辺に立ち、美味しそうに煙草の煙を燻らせるA先生の姿が浮かぶ。  


夜の道を、教授と親友と私が乗った白い車は、静かに進んだ。

車内で流れるクラシック。

教授と親友が絵画やスキーの話をしている時、後部座席の私は、黙って月や街灯の灯りを見ていた。

どうして今になって、こんな事を思い出すのかが分からない。


絵を描きたい訳でもないし、現実から逃げ出したい訳でもない。


必死で完成させたテンペラ画は、虫がついてしまい、とっくの昔に処分してしまったというのに。




先日、親友の作品展示会に出かけた。
彼女と彼女の作品に会うために。

「2年のときの、あのテンペラ画の、覚えてる?」

休憩をとる彼女と入った喫茶店で、尋ねてみた。

「私のテンペラは、あそこから始まったのよ。あの日からずっと、私はあの日と同じことをずうっと繰り返してきているの」

笑いながら答えてくれた。

卒業後フィレンツェに留学し、修復を学び、額縁づくりを学び、帰ってきた親友。
額縁製作、絵画の修復、テンペラ画製作を仕事にしている。
数年前からテンペラ画教室を開いている。

「あのとき、誘ってくれてありがとうね。でもどうして、私だったのかな。絵の基本も何もないのに」

「何となく、描いてみたらどうかな……と思ったの」

「そうなの?何となくだったの?」

「そうよ、何となくよ。 テンペラ、また描きたくなったらいつでも教えてあげる。教室にいらっしゃいよ」

「嫌よ、あんな上手い人しかいない教室!!」

私達は笑いながら、テーブルの上の珈琲を飲み干した。

あの夜の道は続いている。

描いている彼女にも、描いていない私にも、平等に。




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「昔むかし一度だけ、テンペラ画を描いたことがありまして……」と伝えた noterさんがいます。

いつか noteで読みたいとおっしゃってくださったくまさんへ、あたたかな企画をありがとうの感謝の気持ちを込めて書きました。

noteの中には本物の絵描きさんが多々いらっしゃるので、おいおい、このテンペラの説明なっちょらんぞ、のお叱りが聞こえてくるようです。
ごめんちゃい。

 

 noteの、読むこと書くことコメントをすることのペースを、少しゆっくりにしたいと思っています。
体調を崩している訳ではないので、ご心配なく。





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