映画『海獣の子供』評

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 公開からすこし時間が経ってしまったが、アニメ映画『海獣の子供』について語っていこう。
 本作は五十嵐大介の同名マンガが原作で、海や雨といった水の表現と、様々な海洋生物、それに主人公・琉花の体験する出来事を、圧倒的な音と映像で魅せてくれる一方、ストーリーに関しては難解という感想が多く見られる。
 原作は全五巻。枝葉のイベントや各キャラクターの掘り下げなどはかなり削られており、実は相当に「わかりやすく」まとめられている。
 それでもなお難解ととらえられがちなのには理由があるのだが、それは後述する。

 予告

五十嵐大介――間《あわい》の感覚を持つ作家

 月刊アフタヌーンのマンガ賞である四季賞でデビュー。代表作は『魔女』『リトル・フォレスト』『はなしっぱなし』など。
 最新作は半人半獣の生体兵器の闘いを描いたSF『ディザインズ』。
 なんといっても画力、表現力に定評のある作家で、浦沢直樹の『漫勉』でも「いまもっとも絵のうまいマンガ家」として紹介されている。
 マンガ家にはざっくり「絵の人」と「言葉の人」がおり、わかりやすいところでは井上雄彦は前者、浦沢直樹が後者というように、普通は説明される。
 誤解のないようにしておきたいのだが、これは比重の話であり、井上雄彦のネームやストーリーはイマイチだとか、浦沢直樹の絵が下手くそだと言っているわけではない。
 五十嵐の話にもどると、彼は「絵の人」と思われがちだが、実は言葉もすごい人なのである。
 彼は怪談漫画も多く手掛けていて、キレのある一言でぞわりとさせて落とすのはお手の物だ。
 さらに言えば、「視点」が面白い。
 具体例として私がよく引用するのが短編集『はなしっぱなし』収録の、第15話『裏ねこ』と第25話『アメフリ』の二作。
『裏ねこ』に登場する路地は、裏通りから入ると必ず三匹の猫がいるが、反対側から入ったときには絶対に猫の姿を見ることができない。
『アメフリ』は雨音を鳴らす楽器の話。我々が雨音と呼んでいるものは、水滴が何かにあたったときに発する音で、雨本来の音ではない。この楽器は「本当の雨音」を再現するものなのである。
 五十嵐の初期作品にはこの手の話がとても多い。
 何気ない日常の隙間に違った角度から角度から光をあて、思いもよらぬ光景を現出せしめる発想力。
 これを指して、私は勝手に「間《あわい》の感覚」と呼んでいる。
 要するにセンス・オブ・ワンダーの一種で、彼はそうやってイメージしたものを的確に表現する画力と言葉を持った作家といえる。
 同様の資質を持った作家に漆原友紀がいるが、それもそのはずで、間の感覚というネーミング自体が彼女の代表作『蟲師』に由来している。

劇場版を三行にまとめてみた

『海獣の子供』は、これまで短編を多く発表していた五十嵐大介が、はじめて手掛けた連載長編である。
 画は洗練され緻密さを増し、発想力や言葉のキレも相変わらず。
 難解なストーリーや終盤の展開には評価が分かれるところだが、前述のように劇場版ではかなりシンプルに再構成されている。
 ぶっちゃけ、三行でまとめられてしまうくらいわかりやすくなっているのだが……実際にやってみるとこんな感じ。

・なんか、すごいフェスがあるらしいよ!
・呼ばれたからフェスにいってくるよ!
・妊娠しちゃうくらいすごかったよ!

 前半に出てくる「人魂」はクライマックスの「誕生祭」の前兆にして前夜祭。
 あれがもう一度、規模を拡大して繰り返されるのが、劇場版の構造である。

 それでもわかりにくいと取られるのは、本作がひたすらに言葉にならないものを描こうとしているからだ。
「一番大切な約束は、言葉では交わさない」というセリフは原作にもあるが、この「ここからはもう言葉で説明しません!」という宣言の後、ほとんどサイレント漫画になってしまうのである。
 ここにいたるまでに、アングラードやデデといった「あちら側」に近い人物たちに、念を押すように「宇宙は人間には観測できない物質で溢れている=目に見えない世界がある」「その世界では奇跡のような出来事が起こっており、何らかの形で我々と繋がっている」と説明させた上で、その本番であるところの「誕生祭」に琉花をいざなう。
 琉花という「カメラ」は、人間であるがゆえに「誕生祭」のすべてを知覚することはできない。
 だが、不完全なかたちであっても「伝える」ことが重要なのだというメッセージは、子守歌や先代の「語り部」であるデデの存在によって示されている。
 最新作『ディザインズ』や、そのプロトタイプである『ウムヴェルト』では、人間とはまったく違う知覚を持った、動物たちの「見ている」世界が描かれる。
 それは、人間には見えない世界という点で『海獣』に通じる。
 もともと五十嵐は、人間の営みよりも世界の在り方を描いてきたが、『海獣』を転換点に、その傾向を強めたと言えるだろう。
 善きにつけ悪しきにつけ、人のやることなどちっぽけであるというスタンスは、水木しげる的でもある。

『海獣の子供』は宗教映画か?

 ひとつ危惧しているのが、抽象的な会話や、あのドラッギーに過ぎる音と映像の海にいきなり放り込まれた観客が、これを宗教的な作品ととらえはしないかということだ。
 べつに宗教が悪いわけではないが、それで忌避感を持たれてしまうのも勿体ないと思うので、注釈を入れておく。
 結論から言えば、『海獣』は宗教ではない。
 厳密には宗教と同じ対象を扱ってはいるが、アプローチが逆なのである。
 その対象とはつまり、「誕生祭」に代表される、奇跡だとか神秘体験のことだ。
 これを神と呼んだり、シンボルや説話といった「翻訳」を行って聴衆に伝えるのが宗教ならば、『海獣』は神秘そのものの方を向いている。
 我々が観せられるのは、フィルターを極力排した、より生に近い体験である。
 もともと宗教の目的は、世界に関する説明を行うことで不安や恐怖を遠ざけ、生きるのを楽にすることなのだが、生の体験を提示する『海獣』にはその視点がない。
 『海獣』に、もっと言えば五十嵐作品全般には、その美しさとは裏腹に、癒しとか安心とは程遠い、世界本来の恐ろしさが描かれているとも言えるだろう。
 しかし、「言葉では語らない」がテーマのひとつである作品に対し、こうして言葉で説明するという行為自体、多分に宗教的とも言える。
 皮肉な話だ。

 生の体験と言えば、深田晃司監督の『海を駆ける』も、「伝説や昔話になる前の、生の出来事」を描いたような不思議な作品である。
 海からきた不思議な青年や境界を使った演出の多用など、『海獣』の影響を強く受けていると思うのだが、どうだろう?

『海を駆ける』予告

                             ★★★★☆

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