「父殺しの神話」としての『スパイダーマン』 映画『スパイダーマン:スパイダーバース』評
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クリストファー・ミラー&フィル・ロードがまたしてもやってくれました。なんの話か? スパイダーマンですよ! 『スパイダーマン:スパイダーバース』。あの怪作にして大傑作、『LEGOムービー』のコンビによる製作(アヴィ・アラッドもいるけど)。本年度アカデミー賞長編アニメーション部門で作品賞を受賞。これまで映像化されたスパイダーマンの中で最高傑作といっても過言ではない出来栄えで、こりゃ近日公開される『LEGOムービー2』も期待するしかないじゃない。
そんなわけで、今回は感想だけでなく評論方面にも踏み込んだ内容となっております。
※公開から時間も経っているので、以下ネタバレには一切配慮しません。未見の方はご注意を。
「スパイダーマンになる」ことの意味
『スパイダーバース』の魅力を語れといわれたら長くなる。映像? 音楽?(プラウラーのテーマいいよね) キャラクター?役者の演技(日本語ネイティブでよかったと心から思える吹替版の素晴らしさよ)? ストーリー?……めんどくさいので思わず「全部」と答えたくなる。「意外と短かったな(ノワール風に)」
特に、CGアニメーション世界にカートゥーンや日本アニメをほぼ全編にわたり、同時に混在させるという、頭おかしいとしか思えないこだわり……なんか憶えがあると思ったら、やはり『LEGOムービー』――こちらでは画面に映る、文字通り?すべてのもの”をレゴブロックで表現している。シャワーの水から大海原、炎や煙、光線、風になびく髪までもである。ほんとどうかしてる。「私的三大どうかしてる映画」では未だ不動の一位に君臨する作品なのである(ちなみに残り2作品は『クリムト』と『ドゥームズデイ』。それぞれ‟どうかしてる”の意味合いは違う)。
『スパイダーバース』はストーリーにおいても『LEGO』を思わせる。すなわち『LEGO』は「そもそもレゴとは?」という問いに答える構造であるのに対し、『スパイダーバース』では「スパイダーマンになるとはどういうことか?」が問い直されるのだ。
本作は、マルチバースが繋がることにより六つの次元のスパイダーマンが一堂に会すというのがウリではあるが、核となるのはマイルス・モラレスという少年の成長譚である。そこにサイドストーリーとして、冴えない中年スパイダーマンたるピーター・B・パーカーの「おっさんプレイバック」が絡んでくる。
マイルスは地元の中学から抽選に当たったエリート校に転向して間もない。新しい学友たちとは馴染めず、彼に期待をかける父親との仲もぎくしゃくしている。その上、放射性グモ由来のスーパーパワーを唐突に手に入れてしまい、力の使い方を教えてくれるはずだった彼の次元のスパイダーマンは悪党の手にかかり殺されてしまう。
マイルスの抱える最大の問題は「孤独」であること。他の五人のスパイダーマンたちは、「君は決して一人ではない」と、彼に伝えるためにやってくるのである。
これは、ヴィランのボスであるキングピンにも通じる。彼は巨大な闇組織を従えているが、自分一人で戦っているつもりになっている。それを示すのが「私の加速器を」というセリフを、ドック・オクに「私たちの」といい直されるシーンだ。
彼もまた、自分が本当の意味で孤独では‟ない”ということに気づかずにいる。
マイルスの成長に絞って話を進めよう。彼は、我々がよく知るスパイダーマン=ピーター・パーカーよりもさらに幼い。年齢的にもそうだし、体格もそのように描かれている。本家スパイダーマンよりも多彩な能力を持つものの、それを使いこなすことはまだできない。
それゆえ、先輩スパイダーマンから戦力外通告を受け、決戦の場には連れていってもらえない。
そのときのセリフ――字幕版では「いつまで待てばいいの?」だが、吹替版では「いつになったらスパイダーマンになれるの?」となっている。
「スパイダーマンになること」とは、つまるところ「大人になること」を端的に指している。
「父殺しの神話」としての『スパイダーマン』
原点のピーター・パーカーは、スパイダーマンとしての力を当初、己の欲望のために使う。悪党を懲らしめもするけれど、それは自尊心を満足させるためである。だが、無責任な行動が元で庇護者であるベンおじさんを失くし、以降真の意味でのヒーローとなる。
ここで出てくるのが有名な「大いなる力には大いなる責任がともなう」という言葉だ(これにカウンターをブチかますのが『キックアス』なのだが、その話は割愛する)。
何故ピーターは最初からヒーローではなく、ベンおじさんの死というイベントを経て成長する必要があったのか。それは、スパイダーマンがマーベルで最初の“少年“ヒーローだったことと無関係ではないだろう。それまでのフィクションでは、ヒーローといえば大人の男性であるのが当たり前で、ある意味最初から完成されていた。
そこに風穴をあけたのがスパイダーマンだった。守られる立場であるはずの子供が、いきなり大人の世界に放り出される――つまり、それまでベンおじさんが負っていた社会的責任を引き継ぐという構図である。
今回、『スパイダーバース』においてマイルスがピーターより幼いのは、子供としての無力感と、勇気を持って踏み出した結果起こる飛躍を、より強調するためだったのではないか。
『スパイダーマン』の示したヒーロー像は新しいものだったが、少年が父親の死によって成長するという物語は大昔から存在する。
それこそオイディプス王の時代から、『スターウォーズ』、『ガンダム』、その他数えきれないほどの作品に共通するモチーフ、すなわち「父殺し」である。
オイディプスを語源とするエディプス・コンプレックスでは母の愛を得るために父を殺すが、そもそもは父の持つ王権や財産を継承、もしくは簒奪するというのが原形だった。現代ではそれが個人の問題に置き換わり、親をはじめとする大人の庇護・支配から脱し、自立する成長譚となっていった。
これは必ずしも実の父ではなくとも、それに類する男性であればよい。実父を殺した叔父であればハムレットやバーフバリになる(前者は主人公死んじゃうけど)。
つまり『スパイダーマン』は、典型的な現代の「父殺しの神話」といえるのだ。
ベンおじさんからピーターに引き継がれた社会的責任をさらに詳しく見ていくと、大きく「状況」と「勇気」に分けられるだろう。「立場」と「覚悟」に言い替えてもいい。
守るべき者はなく、襲ってくる脅威には自ら立ち向かっていかねばならない「状況」と、それを受け容れる「勇気」だ。
『スパイダーバース』ではこのふたつの要素が、アーロンおじさん、ピーター・パーカー、ピーター・B・パーカーと、三人のキャラクターに振り分けられている。アーロンおじさんが「状況」、二人のピーターが「勇気」である。
注目すべきは「勇気」の部分で、二十代のピーター・パーカーが伝えるはずだったものを、アラフォーのピーター・B・パーカーが引き継ぐことにより、先に挙げた「おっさんプレイバック」がメインストーリーに無理なく絡んでくる脚本の見事さ。
もちろん物語の最後で、ピーター・B・パーカーもまた、自分の次元に帰るというかたちで「疑似的な死」を迎える。洪水のような光の中に、真っ逆さまに「落ちて」いくシーンは、どうしたって死のイメージと重なるだろう。
一方で「疑似的な死」は、大人になるための通過儀礼(イニシエーション)である、というのもお約束である。
ピーター・B・パーカーが大人になりきれていないのは、MJとのあいだに子供を作る勇気がなかったという独白に表れている。
マイルスとの交流でその不安を払拭した彼は、帰還後、MJの家のドアを叩く。この物語は、大筋でマイルスの成長物語であると同時に、ピーター・B・パーカーが「ちゃんとした大人になる」物語でもあった。
そして、二人のピーターの伝えた「勇気」は、確実にマイルスの中にも残った。
決戦前、マイルスが「勇気」を振り絞り、文字通り「翔ぶ」シーンは、本作の白眉である。
蛇足
感想と覚書に留めるよ、という当初の趣旨に反していろいろと語ってしまったけれど、最後にこれだけはいっておきたい。
ペニー・パーカーかわいい。
字幕版の「ハロー、コニチワー」はちょっと腹立つので、吹替版のほうが私は好きです。
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