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禁煙ってくそ愉しいな🤫

あけすけに言おう。禁煙ってくそ愉しいな。この愉快さをみんなと共有したいんだけど、おれの周りは喫煙者の友人ばかりで、彼女ら彼らに禁煙のすばらしさを語るのもイヤミったらしい、ということで、いかに禁煙がいいものかということをnoteに書いておこうと思う。禁煙成功者とこの思いを分かち合うことができたらうれしい。あるいは、あなたの禁煙の後押しになればうれしい。


煙草をやめてから10日が経った。禁煙のきっかけは『禁煙セラピー』を読んだことである。経緯は下記のnoteに書いてあるのでよかったら読んでみてほしい。禁煙セラピーを読むとなぜ禁煙できるのか、逆に禁煙セラピーを読んでもやめられないひとはなぜやめられないのか、といったことを、本を読むという経験に照らして書いてあるので、煙草に縁のないひとにも楽しんでもらえる内容だと思う。

なぜ禁煙に失敗するのか

おれはいま、禁煙というものにおもしろさを感じていて、禁煙関連のnoteを読み漁っている。すると、禁煙してから煙草が吸いたくて仕方がないなんてひとがたくさんいるらしくて驚いている。おれは煙草をやめることができたこと、もう吸わなくてもいいということに安堵感さえ覚えているというのに。この違いはどこにあるのか。

思うにそれは、煙草がいいものだという幻想を砕くことができたかどうか、であろう。まず前提として、煙草はおいしいものではない。したがって、煙草を吸いつづけるということには二重の欺瞞が発生する。煙草はおいしいものではないのに吸うという欺瞞と、その欺瞞を正当化するために煙草はおいしいものであると信じ込む欺瞞とである。だから、このコンプレックスこそを解きほぐさないと煙草をやめることは難しいのだが、その正当な手続きを経ないから、禁煙したあとも煙草が吸いたくなるのだ。

『禁煙セラピー』はこのことが理解できるようわかりやすく書いてある(上記のコンプレックスは本書では「洗脳」と表現されている)し、ご丁寧なことに、チェックポイントまで設けてくれており、理解が不十分な場合は再読することを勧められもする。おかげでおれも万全の状態で禁煙生活に臨むことができた。

上に書いたことが理解できていれば、禁煙は気合い(精神論)でするものではないということも、偶然できるものでもないということも納得がいくはずだ。正しい理解に至ること、そしてその結果として認知が変わることが重要なのだ。

だから、ニコチンパッチやVAPEのような代理物なんてのも、意味がないことがわかる。煙草やニコチンがいいものだという前提をひっくり返していないからだ。むしろ禁煙の歯切れが悪くなるので、禁煙が遠のくといっても差し支えないだろう。

「洗脳」が解けさえすれば、あとはニコチンの離脱を待つだけだ。ニコチンが脱けるのに必要な期間は『禁煙セラピー』によると三週間ということだから、あとは変な代理物を見つけたりすることなく、心穏やかに待っていればよい。

禁煙の愉快さ

にしても、愉快だ。こんなに簡単にやめられるとは。そしてやめたあとの生がこんなにも素晴らしいとは。煙草は、やめるためにこそ吸っていたかのようだ。煙草を吸ったことのないひとには決して味わうことのできない心地よさである。そしてこの快楽には限度がある。もっともっと、と欲しがるような類の気持ちよさではなく、中毒がない、という消極的な気持ちよさだからだ。だからこの快さに安住することができる。くつろぐことができる。思えば喫煙者時代は馬車馬の如く走り続けていたようなものだった。落ち着きがなかった。

なにがそんなにいいのか、と問われてもむずかしい。具体的に挙げられるのは身体的な健康さとか、精神的な調子のよさとか、金銭的に余裕ができるとかだけれども、もっと深い気持ちよさがある。惨めさからの解放だ。ベルクソンは『笑い』の中でひとは、人間の機械的な様に可笑しみを感じるということを書いているが、まるで機械みたいに煙草を吸い続けていたおれは、本当に可笑しかったと思う。でももうそこに戻らなくてもよいのだ。

『禁煙セラピー』の著者、アレン・カーがひとの禁煙の手伝いをすることに喜びを見出しているのもよくわかる。こんなにいい経験はない。そして、ひとが中毒しているのは煙草だけではないのだから、この方法論でいろんなものやことをやめていけばひとは自由に近づくだろう。そして瞑想とはそういうものだということも理解ができる。禁煙をして、おれはよりよく生きる道を理解しつつある。

いまおれには禁煙のアナロジーで、さまざまなものをやめていけるビジョンがかなり鮮明に見えてきている。そして、今の世には人間を中毒させるためのものがたくさんあふれていることにも思いが至る。ジュース、アルコール、ジャンクフード、ゲーム、動画、ポルノ、等々……。その中でも煙草産業はかなり巧妙な方だ。

喫煙者を憐れむことができるほどおのれを買いかぶっちゃいないけれど、この罠とでも呼べるような構造はちょっとひどいと感じる。煙草のパッケージに書いてある、健康に悪いよ、というメッセージさえ喫煙の推進に加担している。喫煙者はそんなのでやめるわけないだろ、と思っていい気になっている場合ではない。むしろあれは、煙草をたくさん吸わせるための手段なのだから。やっぱりnoteに上がっているような、煙草をやめたいのにやめられないひとたちの有様を見ると惨めだと思うよ。どうにか自由になってほしいと思う。禁煙セラピーを熟読してほしいと思う。煙草のなにがいいのかをおのれにこれでもかというほど問い質してほしいと思う。

手前の健康は手前でつかめ

喫煙は病気じゃないよ、と医療化の波にあらがってあえて言おう。たしかに喫煙によって発生する心身の不調はあるかもしれないけれど、それは自ら選んだものではなかったか。おれだって煙草を吸っていたのは健康のためだったよ。嘘ではない。喫煙することによって減るストレスがあることを知っていたからだ。その「病的」な状態に健康さを見出していたのだ。問題は、健康(の保証)を与えられることではなく、自分自身で健康をつかみなおすことだ。おれはずっと健康だった。煙草を吸っていたときも、吸うことをやめた今も。喫煙をハンドリングできなくなった状態が一番危うい。だから、禁煙は一回勝負だ。おれは『禁煙セラピー』を読んだとき、やめるなら今だ、と思ったのだった。これ以降はだらだら吸い続けてしまう、つまりは、このままいけばいつかおのれの健康さが自分の手元を離れていってしまうような気がしたのだった。そしてその直感に従い、やめた。ほんとうにすっきりしている。

最後まで読んでくれたあなたも、どうか健康であれるよう、祈っている。

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