1日1箱吸う詩人が『禁煙セラピー』を読んでみた
『禁煙セラピー』という本がある。どんなヘビースモーカーもこの本を読むだけで煙草をやめることができるという奇書だ。喫煙者の間ではけっこう有名な本である。これを読んで煙草をやめたという知り合いも少なくない。「本当に1冊の本を読むだけでやめられるの?」なんて思うのは当然のこと。その効き目はどれほどのものだろうか。さて、ここにいい被験体がいる。1日に1箱煙草を吸っているおれである。このnoteでは、おれが『禁煙セラピー』を読んでどう変わったか、変わらなかったかをお見せしたい(約8,000字)。
被験体(おれ)の情報
起き抜けに1,2本、食後に数本、仕事や作業の合間に数本ずつ、これらを合計したらだいたい1日に20本前後は吸っていることになる。気分やそのときの状況に合わせていくつかの銘柄を吸いわけているが、基本的に吸いごたえがあるのが好きなので、タール数の表記がある銘柄なら、最低でも8mgのものを吸っている。最近はセブンスターのメンソールがリニューアルしていて、それが美味しくてよく吸っている。
喫煙年数は約10年。間に吸っていない時期もあるが(禁煙していたわけではない)、平均すると1日5本ほど吸っていることになると思う。2年前から住人が喫煙者ばかりのシェアハウスに住み始めたので、ここ最近は本数が多くなっている。とはいえ、おれは口腔喫煙がほとんどだ。肺にまで煙を入れることはほとんどなく、口の中で味わっては吐き出すだけ。煙草の香りが好きで吸っているのであって、ニコチンを摂取したくて吸っているわけではない。でもその結果として本数が増えているというのはあるかもしれない。
文章を書いているとつっかえることがある。そんなとき、煙草を1,2本吸えば、アイデアが湧いてくることもあるし、ちょっとした息抜きにもなる。筆がノっているときというのは煙草も進むタイミングでもあって、しっかりした分量のものを書くときなんかは、さっき開けたばかりの1箱が気づけばすっからかんになっていることもある。そんなわけで、煙草は執筆にも欠かせないものとなっているのだ(この文章を書き始めてからも、すでに1本吸っている)。
本を読む前に
さて、朝方届いた本書をすぐに読み始めてもいいのだが、せっかくなので読む前に思っていることを書いておきたい。
1冊の本で人生が変わる、と聞いて、おれにはふたつの反応がある。ひとつは、そんなわけないだろうという懐疑的な見方で、煙草をやめるかどうかは結局本人の意思次第ではないか、という意見だ。もうひとつは、たしかに過去の人生においても本によって自分が作り変えられる経験をしてきた以上、あながち嘘でもないのだろうな、という予想である。本を読んだから、読んでしまったから自分がこうなってしまった、ということは読書家には身に覚えのある話だと思う。そしておそらくこの本も、読んでしまったら、本当に煙草を吸わない主体へと作り変えられるのだろうな、と思う。
だから、正直、おれはこの本を読むのが怖い。いまの自分が変わってしまうことを少しは予感してしまっているからだ。こうして本を読み始める前にだらだらと前口上を述べているのもおれの無意識の抵抗ではないなどと、誰が言うことができようか。もう煙草を吸うことができなくなるんじゃないか、あの美味しい体験、気持ちのいい瞬間が二度と戻っては来ないんじゃないか、そんなことをどこかで思っている。だから、中毒しているとかそういうことではなく、本当はこの本が読みたくないのだろうと思う。ビビッドな黄色の表紙がすごく嫌な感じがするし、帯に書かれている「鎌田實先生絶賛!」なんて文字も、胡散臭えなんて思っている。
そしてこの『禁煙セラピー』に限らず、本とは、そのようにして読むものであるはずだ。自分を自分と自分ならざるものの間に揺蕩わせるという過程。わかるとわからないの狭間で、己を投影し過ぎることなく文字を追っていくという抜き差しならない駆け引き。それができないと本に読まれることとなり、書いてもないことをでっち上げたり、過激すぎる内容に同調してしまったりするのだ。
だから今日はいつもよりも、さらに慎重に、この『禁煙セラピー』を読んでいくこととしよう。さあ、戦いの幕開けである。
『禁煙セラピー』
『禁煙セラピー』の目次
まずは目次を読もう。長くなるが、ここに列挙する(読み流してくれたらよい)。
ざっと読むと、煙草のメリットとされているものは幻想であるとしながら、デメリットをいくつも挙げているということがわかる。そして、禁煙する具体的なアドバイスも書いてあるらしい。煙草をやめたくはないけれど減らしたいと思っているおれにとっては、「23 減煙は禁煙よりずっと難しい」という厳しいタイトルの章もある。全体として、煙草とうまく付き合ったり、代用品で紛らしたりせず、煙草の認識自体を改めることによって禁煙へと導こうとしているらしい。「さあ、最後の一本を吸おう」というタイトルは、なかなかシビれるものがあって、そのあたりを読む頃には本当にやめようとしているかな、と淡い期待を抱いたりもした。目次を書き写すだけで、既に「禁煙」への道を歩み始めているらしいということを感じる。
さて、読んでいこう。
幾度も書かれるのは、本人が三十三年ヘビースモーカーだったことや、やめるときにはスパッとやめることができたということである。それから、一般的な禁煙法との違いや、喫煙者がなぜ苦しんでいるのかが繰り返し述べられている。この反復というのはとても重要で、考え方を刷り込むのに適した方法だ。本文のどこか一箇所にまとめて書いておき、そこを参照せよ、とするのではなく、逐一表現を変えつつ似た内容を繰り返すことで、読者は自分がどこからどのように変化を被ったのかがわからなくなる。トレーサブルな文章であれば、あとから自分が受けた印象を振り返ることが容易だが、そうでない場合は、あの内容ってどこに書いてあったっけ、と幾度もページを繰る必要が出てくる。そしてその「読めなさ」のなかで、読む主体は変容させられる。だからこのnoteは、おれがちゃんとこの本を読み込むためのメモでもある。以下は、気になったことの書き抜き、まとめである。
メモ
やめたい理由を挙げるのではなく、「何のためになるのか?」「本当に楽しんでいるか?」「大金を払ってこんなものを口にくわえてむせ返る必要があるのか?」を自分に問うべき。
喫煙者は煙草がいいものだと思っているからやめるべき理由を挙げようとするけれど、その根本を筆者は突き崩そうとしている。煙草にいいところなどないのだから、吸う理由をこそ考えよというのが筆者の立場。
喫煙者が煙草を吸い続ける理由は「①ニコチン中毒」と「②洗脳」の二つ。
ニコチンに中毒することと、煙草を吸うためのあらゆる認識を保持することとは別のことだということだろうか。
煙草の禁断症状は肉体的なものではなく、精神的なもの。
喫煙は精神に関わるものだということが繰り返される。喫煙者(あるいは煙草中毒)はなんとか精神の部分を守ろうとするかのようだ。
煙草に関する誤解:吸わないと苦しくなる→煙草のせいだとは気づかない→火をつけるとほっとする。したがって煙草が喜びや心の支えだと誤解する。
論理の逆転が起こっている。煙草が安心感や喜びを与えるのではなく、煙草が安心感や喜びの欠如を生み、それを煙草によって埋める、という、倒錯といってもいい状況が喫煙にはある。
煙草を吸う四つの理由:「退屈しているとき」または「集中しているとき」、「ストレスを感じるとき」または「リラックスしているとき」。
この四つは記憶しておこう。身にも覚えがある。
体内のニコチンの99%を排出するのには三週間しかかからない。
断食が好きな身としてはこの情報は面白いと思った。三週間もあればほぼすべてのニコチンが出ていくんだね。
「喫煙者はリラックスできないのです。彼らは完全にくつろぐというのがどういうことなのか忘れてしまっています。タバコをやめると、そのくつろぎが戻ってくるのです。」
これはかなり刺さったところ。煙草は無為のくつろぎを与えはしない。煙草は集中力を削ぐのだ。
コンビネーション・タバコ(上記の四つの理由が重なったときの喫煙)は悲惨である。
車に乗っているとき(集中×ストレス)とか、つい吸っちゃうよなぁ。
吸えば吸うほど疲労感が沈殿する:「喫煙すると肺だけでなく、体中の血管もニコチンや一酸化炭素などの毒素でふさがれていくので、酸素や栄養素が全身にいきわたらなくなります。そのため日常の行動の機能は下がり、無気力感が増していきます。」
ここ最近の疲労感は実はかなり気になっていたけれど、煙草に主な原因がありそう。
減煙は禁煙よりずっと難しい:本数は少ないに越したことはないが、本数を減らせば禁断症状の時間も長くなり、さらに煙草が貴重なものになる。結果、禁煙がさらに難しくなる。
煙草を減らしたいと思っていた身にとっては厳しい言葉。減煙はかえって煙草の報酬系を強化してしまうということか。
喫煙「習慣」は存在しない:喫煙は麻薬中毒症である。体が麻薬に対する免疫をつけていくほど禁断症状は強くはなっても減ることはないから、中毒症を現在のレベルに保つだけでも強い意志と鍛錬が必要。
習慣という生易しい言葉を使うことで実情に目を背けるよりは、中毒だという認識を持った方が禁煙にはよいということだろう。そして、免疫の向上にともない、禁断症状が強くなるということから、本数も逓増しがちだというのに納得している。
まるで写経。おれはメモすることで、確実に禁煙への道を歩んでいる気がする。そして、文章も読みやすかったので、一気に読み通してしまった。以下はひととおり読んだあとの感想である。
読み終えてみて
結論:おれは禁煙……
結論から述べる。おれは禁煙……
……することにした。変わり身の速さに驚かないでほしい。世には「君子豹変す」という諺もある。7月1日の16:01に吸い終えたゴロワーズが最後の一本である。正直面白半分で読んでみようとしただけだったが、もうこれを機に禁煙するか!というふうに思えたのである。喫煙への意思が弱いからではない。いいや、本書でも何度か言われるように、煙草を吸い続けられるひとの精神力が強くないはずがない。なぜなら喫煙者はあえてまずいものを摂取して、それでニコチンへの耐性ができたらさらに多くの量を摂取して、ということを漸次的に続けてきたひとなのだから。むしろ、おれは自分がより深いところで思っていたことに耳を傾けたのだということができる。つまりそれは煙草をやめたいという願いで、いつかやめようと思っているのなら、今回の読書体験はいいきっかけじゃないかと思ったのだった。そして、いまを逃したら、煙草をやめるタイミングを見失ってしまうような気がしたのだった。
この本には、読み終わるまでは禁煙するなと書いてある。でも不思議なことに、この本を読み進めるうちに煙草がまずく感じるようになってきたのだ。この本が催眠療法のような方法を採用しているわけではない。おれが喫煙というなかば機械的にこなしていた「作業」に自覚的になることができたからだろう。はじめて自分で買った煙草を吸った日のことはよく覚えている。椎名林檎の「罪と罰」を聴いて吸おうと思ったセブンスター14mgだ。実家の自分の部屋で、窓を開けてそこから身を乗り出して吸ったのだった。まだ寒い日だったということも覚えている。香ばしいけれども、そのときはたいしておいしいとは思わなかった。中毒するはずなんかない、と思っていた。でも、そのとき買った20本入りの1箱の残りを吸わずに捨てるわけにはいかないし、その1箱を吸ったら他の銘柄がどんな味がするかも気になるし、ということで、いつの間にか常飲するようになってしまった。
この本を読むと、喫煙者は自分が中毒しているという事実を認めない、ということが書かれている。おれもまたそうだ。むしろ、たいして味わってもいないくせにこれはおいしいものだという正当化をして、おいしさを楽しんでいるだけだと思い込んでいた。でも実際はニコチンの常用によって生まれる不安感や虚無感をニコチンで解消して、というのをずっと繰り返しているだけだった。朝起きたときから咳や痰が出たり、自らの口臭を気にしたりということが惨めだと思うようになった。
自由を説く方法
この本の書きぶりは、おれが指導を受けたヴィパッサナー瞑想の説かれるやり方に似ている。それは、自由になるかならないかという選択肢を提示しているところや、疑いがこの過程の邪魔になるというところや、煙草をやめた瞬間から解放が始まるということを説くところである。あるいは、やるなら徹底的にこの指示に従うべきだというところや、喫煙している現状が惨めであるということを強調するところもそうだ。喫煙者にとっては、耳が痛くないはずがない。したがって、この本を読む前におれが書いた、煙草をやめるかどうかは本人次第だという話もたしかに当てはまっている。結局、素直な人間だけがここに書いてあることを読んで実践しようと思えるのであって、素直でない喫煙者はこの本と出会ってしまったのなら、さらなる正当化の根拠を探さなくてはならない。というか順序は逆で、正当化するから、そのひとは素直でなくなるのだ。「いつか禁煙するときに再読したい」でも、「事態はこんなシンプルじゃない」でも、「翻訳が合わない」でも、なんでもいいのだけれども、とりあえずはこの本の記述を否定することで、喫煙者としての足場を守ろうとする。
本を読む、ということ
おれの悪い趣味だが、読めていないにもかかわらず批判的な、というか読めていないからこそ批判的な、というか、いずれにせよ読めていないひとによる批判的なレビューを読むのが面白い。ニコチンパッチのような代用品を使うことは本書ではまったく推奨されていないにもかかわらず、ニコチンパッチを使用してみただの、あるいは筆者の書きぶりが好みに合わないだの、わかりきったことばかりが書いてあるだの。肝心なところはそこではないということがわかっていない。というか、そういう拒否感が出ているということはそこが自分が変容を迫られているポイントだということなのだが、そのことがわかっていない。この本が喫煙者に煙草をやめさせるための本だということは自明であり、したがって読む以上は自己の変更を迫られる、拒否感が出てくるのは必然なのだけれど、それをさも、この本の落ち度かのように書いてしまう愚かさよ。本を読むということは、自らの無意識をも動員しながら、それでも呑まれないようにする、というのっぴきならない事態だということがわかっていないから、まったくこの本が読めないのだ。いいやむしろ、この本をよく読んだということだといってもいい。この本を読むということ、この本が読めるということ自体が、喫煙中毒を手放すということだから、彼女ら彼ら批判的レビュワーは「読まない」ことでこの本を理解しているのだ。拒否反応をさもおのれのプライドかのように擬装しているのだ。でも残念ながら誇り高き喫煙者ははなからこのような本には近づかないものだよ。近づいたということはどこかで禁煙に関心があったということだし、なのにこの本を読まなかった、というその中途半端さ、甘さを自覚したほうがいい。本とは大切に読むものだ。自己とは大切にするものだ。中途半端に読むと、自我なんてものは簡単に崩れていってしまうよ。
というわけで、この本を「読んでしまった」おれは禁煙を開始している。本書によると、まずは三週間というニコチンの離脱期間はなんとしても禁煙するということが重要らしい。いまのところはいける気がしている。さて、以下には、禁煙を超えた本書の射程について述べておきたい。
不安感への対処
喫煙者は煙草を吸うことで不安感を紛らしている気になっているが、その不安感は煙草によって生まれたものである。つまり、不安感を生むために煙草を吸い、その不安感を消すために煙草を吸うというループを巡っているのだということができる。だから、不安感を和らげるには煙草をやめるしかない。だが、煙草をやめたからといってすべての不安感がなくなるわけではない。ハイデガーのいうように、不安は現存在の根本的な感情であり、不安から逃れようとすることでひとはダスマンとなる。だからこの本はハイデガー的に言えば、不安を直視することで本来的な生き方に目覚める道を指し示しているのだということができる。人間の中毒は煙草だけではない。あらゆるものに人は中毒し、不安を感じているのだから、この本のメソッドで不安を直視していけば、他の中毒からも解放されるだろうし、より生きやすくなるだろうと思う。
最後に
この文章を書いているのは、禁煙を開始してからまだ5日ほどしか経っていない頃なのだが、この数日間は禁煙のすっきり感を堪能することができている。もうすでに疲労感がかなり減っているし、喉の奥の異物感が少ない。身体も軽い感じがする。勘も冴え、活動的になってきている。そうか、こんな簡単なことだったか。
やめる前はずーっと靄がかかったように仄暗い憂鬱さを抱えていたのが、少しずつ晴れていくのを感じている。最近の不調ももしかして本数が増えてからの不調だったのではないかとさえ思う。
おれはいまや元喫煙者なわけだが、元喫煙者の嫌煙家というのは、喫煙の楽しみも知っている分、いっそう厄介な存在だ。自分の成長を感じたいという思いに囚われているものだけが、過去に自分がいたところを否定しようとするものだ。おれは煙草を吸う人を否定はしたくないし、喫煙者フレンドリーな非喫煙者でいたいと思う。かつて自分がそうだったように喫煙者は煙草を楽しんでいるのだから、それをとやかく言うのは野暮だ。ひとは始めるべきときに始め、やめるべきときにやめるものだ。おれはいまがやめるべきタイミングだったというだけの話だ。
煙草を吸っていたのは、やめるためだったのではないかとさえ思う。この気持ちよさを知ることができるのは喫煙していたものだけだろう。
夏の夜の空気がおいしい。もういまは、煙はなくてもよい。