日が長くなると切なくなる
2分ほど遅れたワゴンRの時計が、16時30分をさしている。
信号待ちをしながら街並みを眺めていると、少しだけ日が長くなったことに気付いた。冬至からまだ二週間しか過ぎていないけれど、山に囲まれたこの田舎では、ほんのわずかな太陽の変化にも敏感だ。
夏至を過ぎると日照時間がだんだんと短くなっていき、夏の終わりを実感して物悲しくなる人は多いだろう。しかし冬至を過ぎ、日照時間が長くなって切なくなる人はいないのではないか?
…いや、ここにいる。ワシじゃよワシ。
幼い頃からそうなのだけど、日が長くなるにつれてなぜか胸の奥がしめつけられるような感覚になる。寒いのは苦手なんだから、徐々に春に近づいて嬉しいはずなのに。どうしてだろう?
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幼い頃は今以上に「年末年始」が特別だった
9歳から野球をやっていて、休日はずっと練習に明け暮れていたが、冬は雪が降るので休みになった。冬休みに入るとすぐに親の車や汽車でゲレンデに行き、毎日のようにスキーをしていた。
年の瀬になると家族で寿司や飛騨牛のすき焼きを食べ、夜更かししても怒られないからと深夜まで音楽番組を観た。毎年ジャニーズやGLAYとかが流れてたから、彼らの曲を聴くと年中いつでも年末の気持ちになる。
年が明けると遠方にある親戚の大きな家に行き、20人ぐらいで宴会をした。大人たちはみな楽しそうに酒を飲み、子どもたちはトランプをしたりかくれんぼをして笑いあった。酔っ払ってイビキをかくおじさんの顔に落書きをしたり、一回りぐらい上のお姉さんにドキドキした記憶が残っている。
一日がいちばん暗い冬至は12月22日なので、年末年始を経てどんどん明るくなる。しかし幼いころから既に「エモがり」だった僕は、日が長くなるにつれ楽しかった思い出が遠くなっていくことを毎年寂しがった。その「エモぐせ」が今でも染み付いているのかもしれない。
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目的地について用事をすませて車に戻ると、17時を知らせる音楽が街に流れ始める。季節によって流れる時間や曲は変わるけど、冬の夕方に流れる切なげなメロディは幼い頃からずっと同じだ。
不思議なもので、地元にいるのに「郷愁」という類の感情に襲われることがある。時が経過して街の風景が変わり、人が年を重ね、終わる営みがあるからだ。
冬休みに毎日通ったゲレンデは、雪が全然降らなくなって閑古鳥が鳴いている。
親戚はこの20年で何人も亡くなってしまい、集まりも自然と開かれなくなった。あの賑やかで大きな家には、今は誰も住んでいない。
あらがいようのない流れの中で、何かを取り戻そうとしてもできるはずがなく、しだいに何を取り戻そうとしたのかさえ忘れてしまう。
だけど僕も、前に進まないといけない。
地元に雪が降らなくなったなら、遠くまで運転して滑りに行こう。
亡くなった親戚にはもう会えないけど、あの頃の子どもたちで集まって酒を酌み交わそう。
過去の故郷からもらった思い出を、僕の手と足で上書きするんだ。誰かと一緒なら、もっと楽しくなる。
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暗くなりはじめた山を見つめていると、スマホが震えだして現実に引き戻される。父からのなんてことないLINEだった。
どうやら年末年始の酒量がたたって体調が悪いようだが、もう昔のように飲めないことを自覚してほしいものだ。
悲しいけど、あらがいようがないんだから。
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