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「勝負」にこだわる?それとも「結果」にこだわる?

よくこんな話を聞きます。例え、議論の「勝負」に負けたとしても、自分の望む結果が手に入るのであれば、それは大きな意味で勝ちを意味するというものです。

◯カーネギー先生の教え〜議論をしても、相手を説得することはできない〜
 いかに相手のプライドを傷つけずに意見を曲げさせるか?そのためには、自分が負けたフリをすることが一番手っ取り早く効果が大きい。カーネギー著の「人を動かす」の中でも「議論に勝つ唯一の方法は、議論をしないことだ」と述べています。

◯議論の目的は?
 本来、議論をすることの目的なんでしょうか?「自分の意見と通すこと」「相手を論破すること(最近は、マウントをとるなんていいますよね)」「相手に間違っていることに気づいてもらうこと」などなどいろいろあると思います。でも、僕が思う一番の目的は「議論の先にある良質な結果を得る」ことだと思っています。どっちが勝った負けたより、Aさんの意見(1)なのか、Bさんの意見(2)なのか?またはそれ以外の意見(3)なのか、どちらにしても、目的を達成する一番いい答えに辿り着くことが、議論の目的なのだと思います。そのプロセスで対立したり、言い合いになったりしますが、DeNAの南場さんが良く言う「コト」に向かって行われることであれば、それは健全なのだと思っています。議論の中で意見が対立しても、人間否定ではない「意見否定」であればいいということです。議論は忖度なしで行わなければ最適な答えにはたどり着かないため、時には勝ち負けにこだわってもいいというのが私の意見です。それで相手を打ち負かしたとしても、わだかまりだけが残らないように、その後のフォロー(飲みに行くとか)は必要になります。

◯そうはいっても「上司と部下」や「先輩と後輩」の議論は?
 明らかな立場の違いがある中で、忖度なしで議論ってできますか?優秀で社内で一目置かれている人、後先考えない強気な人、単なるバカ(?)というレアの人達ならまだ知らず、僕も含めた一般人はなかなか難しいですよね。僕も新人の頃は、「単なるバカ」だったので先輩に突っかかったり、上司に楯突いたり多少はしてましたが、いま45才を越えて当時の先輩や上司の年齢よりも高齢になり、一応社会人としての経験を積んで思うことは、みんなそれぞれのポジションや性格などがあり、フラットな議論は難しいと思うけど、真っ向から対立する意見ではないにしても(例えそう思っていたとしても)、少し角度を変えた何かしらの意見というのは欲しいと思います。「こんな時ってどうなるんですか?」「僕だったらこんな風に思っちゃいますけど」「僕の友達でこんな人がいたので…」など、発言のしやすい言い方は工夫が必要なのかもしれないけど、それでもきっといい議論になると思う。

ということで、僕はどうせ議論するならば「勝負」でも「結果」でもなく。そこから導き出された「答え」にこだわりたいと思います。

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