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透明マント着るAジェンダー(2)ステルスジェンダーという戦略

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、「透明マント着るAジェンダー」という記事の後半(2)です。前半(1)では、「透明マント」という魔法の道具が出てくる小説『ハリーポッター』にまつわる、わたしの思い出について、書きました。人々の心と世界に魔術をかける貧困という魔法のこと、そして貧困のなかで悩みを飲み込んでいる性のマイノリティの子どもたちのこと、わたしはいつも覚えていたいと思います。

前半(1)では過去のことを書いたのですが、この後半(2)では現在のことを書きます。透明マントを着て生きている、わたしの現在のことです。

1.存在しない存在

 わたしは、Aジェンダーです。アイデンティファイしているジェンダーがありません。男でもなければ女でもありません。自分が「こうだ」と思えるような性別がなく、どの性別で扱われても「違うのにな」と思います。世界にいるひと全てが、わたしには「異性」に見えます。何を言っているのか、分からないですよね。でも、それがわたしが生きるAジェンダーとしての感覚です。
 自分をAジェンダーとして認められるようになるまで、本当に長い時間がかかりました。でも、当たり前ですよね。この世に「女性」と「男性」以外の存在がいるなんて、誰も教えてくれないのですから。わたしは、このラベルに出会うまでに二十数年かかりました。日本の「Xジェンダー」については知っていたけど、全然どういうラベルなのかイメージできませんでした。でもYoutubeのクィア系コミュニティに潜っていって、Aジェンダーを自認する人たちの姿を見て、そして自分たちのことを恐れずに表現する姿を観て、「わたしはこれなんだ!」と思うことができました。女性でも男性でもない、ジェンダーが「ない」というジェンダー。Aジェンダーの人が存在している。その事実を知るのに、本当に長い時間がかかってしまいました。
 ここで例に出すのが適当かどうかわかりませんが、世の中に同性愛の方が存在しているということは、みんな知っていますよね。もちろん世の中は異性愛中心的にできていて、同性愛(者)に対する、様々な差別が存在しています。同性愛(者)は存在すべきではない、という風にされているのです。その「べきではない」は、あるときは、同性愛的な人や同性愛的な関係に対する攻撃につながります。虐められたり、酷い偏見で見られたり、馬鹿にされたり、家族から縁を切られたり、します。その「存在すべきではない」はまた、ときには同性愛的な人や関係を「抹消する」という形をとることもあります。レズビアン的な性愛・恋愛の関係が明確に描かれている映画が、日本に紹介されるときにはすっかりその同性愛的な要素が希釈されてしまうとか、原作では同性愛的な関係が明らかに描かれているのに、映画化するときに「友情」や「普遍的な人間愛」のように脱色されてしまったり。それは、同性愛が存在していることを知っているからこその「抹消」です。存在するのは知っているけど、存在すべきではないから、存在しないかのように扱う、ということです。
 それに対して、Aジェンダーの存在、あるいは広くノンバイナリーの存在は、それとは違った意味で存在しないことになっています。誰もが存在を認めつつも「存在すべきではない」とされる同性愛に対して、Aジェンダー(ノンバイナリー)の存在は、はじめから存在を想定すらされていません。存在すべきではない、とかそんな話ではなく、存在しているなんて誰も思っていないのです。
 Aジェンダーは、いないことになっています。学校でも家庭でも病院でも職場でもショッピングモールでも、どこでも、女性でも男性でもない人間なんて、存在するはずがない、とされています。いいえ、より正確に言えば、「そんな人間いるはずがない」とすら誰も思わないほどに、存在するはずがないことになっているのです。
 Aジェンダー(ノンバイナリー)は、社会の中で完全に透明化されています。先ほど見たような、同性愛の「否定」や「抹消」とは違った意味で、人の目に見えていません。誰も、Aジェンダーの存在を認めていません。Aジェンダーは、完全に透明になっているのです。
 世の中の人は、女性と男性に分かれています。そうして、重なり合うことのない2つのジェンダーの部屋があって、それ以外の領域には、すっぽり透明マントがかけられています。誰も、そこに何かあることを見ることができません。あまりに綺麗に透明マントが被せられているので、そこに透明マントが被さっていることすら、誰も気づきません。男性と女性の2つの部屋以外の場所があることに、それ以外の空間があること自体に、誰も気づいていないのです。
 「女性みたいな男性」や、「男性みたいな女性」の存在は、よく知られています。そうして、自分に割り当てられたジェンダーの部屋の境界線を、不用意にも/不遜にもまたいでしまう人には、厳しい罰が下ります。そうした越境者の存在がよく知られているからこそ、厳罰が用意されているのですね。しかし、女性でも男性でもないジェンダーの部屋があることには、社会は気づいていません。それほどまでに、Aジェンダー(ノンバイナリー)の存在は透明化されています。ぴっちり、すき間なく、隅々まで、透明マントがかけられています。それが、性別二元論の力です。私たちAジェンダーは、存在するはずがないと思われることすらないほどまでに、存在していないことになっているのです。

2.存在してはならない存在

 Aジェンダーは、存在しないことになっています。でも、Aジェンダーとして生きている人々は、もちろん生身の人間ですから、他の人から見られる存在です。そんななかで、Aジェンダーである私(たち)の存在は、しばしば極めて見えやすいものになってしまうことがあります。
 全てのAジェンダーの人がそうであるわけではないのですが、わたし(夜のそら)は、自分に割り当てられた性別に典型的な外見を身にまとうのが、とても苦しいです。わたしは、男性の側の部屋で生きるように割り当てを命じられたのですが、「男性的」な髪形は死んでも嫌だし、「男性的」な服装をしている自分のことを考えるだけで吐きそうになるし、「男性的」な服装で外出していると、パジャマで人前に出させられて晒し者にされているような違和感があります(伝わらないと思いますが率直な感覚です)。自分の「男性的」な顔の骨格にコンプレックスがあり、もともと非常に薄い方ではありますが、体毛も可能な限り剃っています。
 でも、そうして割り当てられた通りの性別に典型的な外見をしていないということは、非常に目立ってしまうということでもあります。さっきも書いたように、女性/男性の部屋の境界をまたいでいたり、その境界線上にとどまっていたりすると、すごくすごく目立って、じろじろ見られることになるのです。想像してください。皆さんの目に「女装している男性」が映ったとしたら、どんな風に感じますか?実際にはその方は「女装」しているのではないかもしれないし、「男性」でもない可能性がありますが、それでも「女装している男性」に見える人が近くにいたら、どんな風に感じますか?そういう風に見える方が、乗客の沢山いる電車に乗っていたら。駅ビルで買い物をしていたら。周りからどんな風に見られると思いますか?そして皆さんは、どんな風に感じますか?
 わたしは去年、男性用のスーツを着られなくなって、結局会社を辞めました。それ以前から、なるべく非・男性的な装いを試みていたのですが、ある日からあらゆる「男性用の」服を着ることに耐えられなくなり、「男性的な」身体の動かし方をすることにも、我慢ができなくなりました。そうして、状態としては非常に中途半端な状態で、最後の方は生活していました。でも、それは本当に苦しい時期でした。
 わたしは、男性的な身体の動かし方も、女性的な身体の動かし方もできます。いつでも、スイッチできます。男性的な雰囲気を出すことも、女性的な雰囲気を出すこともできます。でも、その当時は、男性的な身体の動かし方は完全にやめたけど、女性的な動かし方は採用せず、女性的な雰囲気もあえて出さないようにして、でも女性向けにデザインされた服を着ている状態でした。結果として、わたしは目立ってしまいました。
 わたしにとっては、それは消去法で何とか自分を納得させる方法でしたが、結果的に、わたしは多くの人からじろじろ見られることになりました。後ろ姿から女性だと判断されたけど、顔を見たら男性っぽくて、「え??」という驚いた顔で見られたり、電車で前に座っている人から何回も視線を向けられたり、信号待ちをしている隣の人に胸のふくらみを思いっきり確認されたり、します。ほんとうに、苦しかった。見られるということがこんなに苦しいことなのか、視線はこんなに攻撃力があるのかと、思いました。
 さきほど書きました。女性でも男性でもない存在は、存在しないことになっている、完全に透明化されている、と。でも、実際に「きちんとした女性」でも「きちんとした男性」でもない存在が現れると、その「女性でも男性でもない存在」は、さっきまで完全に透明化されていたにも関わらず―――いや、透明化されていたからこそ―――、極めて見えやすい存在になってしまいます。完全な不可視化と、極端な可視性は、表裏一体なのです。

ときどき、いわゆる「パス度が高い」わけではない(と判断された)トランス女性の写真をツイッターにアップして、自分のイデオロギーを支える材料にしようとしているトランス差別者がいますが、本当に最低最悪だと思います。その方が本当にトランス女性だとして、どんな思いでその装いをその方が選んでいる(選ばざるを得ない)のか、想像したことはないのでしょうか。そうして目立ってしまうことで、どれだけ厳しい視線のなかを生きなければならないのか、想像したことがないのでしょうか。犯罪者予備軍とかモンスターみたいにネットで指差されて、どんなに苦しく、悲しいのか、想像できないのでしょうか。本当に、最低最悪だと思います。人が死にます。

3.存在しないかのように存在する存在

 わたしは現在、外出するときは「女性」として視認されるような状態を意図的に作っています。病院に行ったり、買い物に行ったり、休職中の会社に診断書を出したり、契約の更新をしたり。外出をするときは、もうほとんど完全に女性としてしか見なされない状態で、過ごしています。体調と相談しながら、復職することになりますが、おそらくその状態で働くことになるでしょう。
 わたしには、女性用の服を買い揃える経済的な余裕が(ぎりぎり)あります。生まれたときから周りを必死に観察して生きてきたので、女性的な身体の動かし方ができます。女性的な雰囲気を出すこともできます。ちょっと声は低いけど、女性的な話し方もやろうと思えばできます。身体つきも、”男性”を割り振られがちな人たちの平均よりは、”女性”側に溶け込みやすい身体をしています。(ジェンダークリニックで検査したところ、女性ホルモンのうちの1つの値がシス女性なみかそれ以上に高く、”男性”としては明らかに異常値だったので、それも体型?に関係しているかもしれません。※Aジェンダー自認はホルモンの値とは無関係です。そんなのは数字にすぎないので。)
 わたしは、心から望んで「女性」側にカテゴライズされている状態を作っているわけではありません。これは消去法にすぎません。男性的な服装も、身体の動かし方も、わたしには耐えられないし、女性でも男性でもない存在としてみなされるのは、苦しすぎます。
 わたしは、本当に弱い人間です。女性と男性で、すべての人間を分割して理解しようとする、性別二元論的な社会のあり方をこれだけ批判しているのに、自分の身が可愛くて、その二分法に従って「女性」の側にカテゴライズされるよう意図して生活しています。自分でも、不甲斐ないし、ずるいし、何をしてるんだろう、とよく思います。でも、「目だつ」って本当に苦しいことなのです。見られるって、きついのです。
 だからわたしは、透明マントを着て生活しています。女性風の髪形にして、女性向けの服装をまとい、女性側に視認されやすい身体の動かし方をして、多くの女性がそうであるような雰囲気を出して、女性だと判断されやすい喋り方で喋っています。透明マントから少しでも身体がはみ出てしまうと、一瞬で存在がばれてしまいます。だから、マントから身体がはみ出さないように、わたしは慎重に慎重に、一挙手一投足に集中しています。
 皆さんの多くは、自発呼吸をしていると思います。特に意識しないでも、ふつうに呼吸できている人が多いと思います。「息を吸おう」「息を吐こう」と思ってスーハ―している人は、いないと思います。同じように、皆さんの多くは、何気なく、普通に歩いたり走ったり、動いたり、喋ったりしている(健常者な)のではと思います。いちいち「こういう風に足を動かそう」とか「こういう風に喋ろう」とか意識している人は、殆どいないだろうと思います。
 わたしは違います。わたしは、透明マントを着て自分の存在を消しているので、自分の呼吸音が漏れてしまわないか、身体がマントからはみ出てしまわないか、いつも気を付けています。歩く時の重心移動の仕方。靴底の地面への入射角。腕を振るときの肘の高さ。手首の角度。電車に座ったときの肩の筋肉の力の入れ方。マスクの上に見えるほほの筋肉の緩め方。喋るときの語尾の挙げ方。動詞の活用の仕方。すべて、意識的にしています。文字通り一挙手一投足を、集中して、意識しながらやっています。わたしは、目立ちたくありません。だから、透明マントを着て生活しています。自分を透明にして、存在が目立たないように隠れています。
 最初に書きました。Aジェンダー(ノンバイナリー)は社会によって完全に透明化されている、と。性別二元論的な社会が、私たちAジェンダーに透明マントを被せているのです。そんな状況を後押しするかのように、その透明化に加担するかのように、わたしは自分から透明マントを着ています。女性でも男性でもない存在である自分の身を隠すように、透明化するように、自分自身で自分のことを透明化しています。ずるいし、最悪だと自分でも思います。でも、それしかわたしには生きる方法がないのです。一目見て「女性」か「男性」か、どっちかに自然にカテゴライズされる状態でないと、視線の攻撃にさらされてしまうのです。だから、透明マントを着るしかわたしには選択肢がないのです。
 わたしは、透明マントを着て生活しています。誰も、わたしの存在に気付いていません。もちろん、姿かたちは見えているけれど、誰も視線を止めません。それは、わたしが意図した通りの状態です。「女性」に溶け込むことで、わたしは自分を透明化しています。あたかも誰もそこに存在していないかのように存在すること。それがAジェンダーであるわたしが生き延びる方法です。

4.存在しかのようにされている存在

 女性と男性のどちらでもない存在は、社会によって透明にさせられている、と書いてきました。でも、わたしが自分の存在を隠すために透明マントを着るなかで、少しだけ感じたことがあります。それは、一部の男性には「女性」の存在が見えてないのではないか、ということです。
 以前からうっすら気づいていたことではありますが、一部の男性たちには、「女性」の存在が見えていないのではないかと思います。まるで誰もそこにいないかのように、病院や駅で「女性」に突進してくる男性がいます。誰もそこに並んでいないかのように、電車をまつときに極端に「女性」の背後に近づく男性がいます。まるでそこに誰もいないかのように、「女性」の顔のすぐそこでつり革を握る男性がいます。まるで誰もそこにいないかのように、電車を降りるとき「女性」に身体を押し付けてくる男性がいます。
 その「女性」のうちの1人になってみて、女性たちが男性たちによって「透明化」されている現実を、少しだけ体感しています。もちろん、わたしが味わっている不便や危険は、ずっと女性として生きている/生きてきた方の味わっているものに比べれば、100000000000分の1くらいだと思います。それに、女性差別はそういう身体の距離感や直接的な暴力だけでなく、制度的なものや心理的なもの、法的なものなど、色々な種類のものがあるので、わたしが「女性」に分類されることで味わう可能性のある不利益や不便さは、そのうちのごくごく(ほんの)一部にすぎません。
 それでも、「男性」にカテゴライズされる状態を生きたことのある経験があるからこそ、「女性」が透明化されている現実をよりショッキングにわたしは感じています。そうした女性の透明化は、ノンバイナリーが透明化されるメカニズムとは、全く異なったものです。ですから、この記事の主題ではないのですが、でも、自分がわずかでも経験した「透明化」の経験として、書かないわけにはいかないと思ったので、ここに書いておきます。

もしかすると、「お前は女性にカテゴライズされることを自主的に選んでいるだけだから、そういう透明化の差別を選択の余地なく被る(本当の)女性の経験は、お前(夜のそら)には微塵も分からない」と思う方がいらっしゃるかもしれません。そうだと思います。女性差別の経験を理解したと言うつもりは、全くありません。わたしには、何も分かっていません(もちろん、たった1つの「本当の女性差別」があるとは全く思いませんが)。でも一つだけ言わせてください。―――わたしがこの透明マントを意図的にまとって生活していることは、それでもわたしには、選択の余地のないことなのです。このことの意味がすぐには分からなくても、どうか理解してください。

5.ステルスジェンダーという戦略

 わたしは、自分に割り当てられた性別とは反対側の性別(女性)にカテゴライズされる状態を作り出すことで、自分を透明化させながら生きています。でも、そうして意図的に透明マントを着る以前から、ある意味でわたしはずっと自分を透明化させながら生きてきました。
 Aジェンダー(ノンバイナリー)という存在は、社会でいないことにされています。ですから私たちは、生まれたその瞬間から、たえずミスジェンダリングされ続けることになります。生まれたときに割り振られた性別と、同じ性別でカテゴライズされる。違う性別でカテゴライズされる。どっちにしたって私たちは、ミスジェンダリングされることになります。でも、そこで私たち(ノンバイナリー)が自然にその性別にカテゴライズされるということは、目立たないように自分を透明化させることに成功している、ということでもあります。
 この社会には、多くのノンバイナリーの人たちが生きていて、今日もまた、いないことにされ、透明化され、ミスジェンダリングされ続けながら生きています。わたしだって、透明マントで自分の身を隠しているだけで、女性として視認されることを心から望んでいるわけではありません。それは、依然としてミスジェンダリングです。
 でも、この終わりの見えないミスジェンダリングという、苦しくて悲しい現実を、わたしは別の角度から考えてみたいと思うようになりました。――――私たちは、一方的に社会によって透明化されているのではない、私たちは、自分を透明化させることで社会の側を欺いているのです。
 生まれたときに割り振られた性別と、同じ性別で今も認識され、カテゴライズされてしまっているノンバイナリーの人。あるいは、生まれたときに割り振られた性別とは反対の性別で日常的には認識されている(現在のわたしのような)ノンバイナリーの人。どちらも、たくさんいると思います。私たちは、確かにミスジェンダリングを被っています。でも、私たちは社会に好き勝手されているのではありません。私たちは、自分の生存のために余儀なくされていることではありますが、社会の側を欺いているのです。こうすれば目だないで生きていける、こうすれば周りの人は違和感を持たずに接してくれる。そうやって、社会の側にある、退屈で、狭苦しい、馬鹿らしいジェンダー規範・ジェンダー見分けのルールを熟知したうえで、それを逆手にとって、自分に透明マントをかぶせてステルスしているのです。
 英語で「stealth」(ステルス)というと、以前には日本語の「完パス」や「埋没」といったような意味がありました。トランスジェンダーが、自分がそうである性別として完全に目立たなくなることです。現在ではパス至上主義的なカルチャーへの批判もあって、「stealth」という言葉が若いトランスコミュニティで積極的に使われる機会は減っているように思います。少なくとも、あまりいい言葉ではありません。日本語の「完パス」もそうですけれど。
 そこで、わたしはこの「ステルス」という言葉を、そうした意味とは全く違う意味でリサイクルしてみたいと思っています。存在するはずがないとされているノンバイナリー(Aジェンダー含む)の人たちが、自分の生きやすさのために、社会の側を欺き、あたかも女性・男性どちらかの性別であるかのような状態を作ること。その状態・生き方の戦略を、わたしはステルスジェンダーとして呼んでみたいのです。
 UKやUSのクィアコミュニティでは最近、「ノンバイナリー規範」についてしきりに話題にされています。初めは女性として性別を割り振られた人が、短髪にして、髪をアッシュに染めたりして、ナベシャツを着たり胸オペをする。それが「ノンバイナリーらしい装い」として規範化されつつあるのではないか、という問題提起です。さらに悪いことに、その「ノンバイナリー規範」は人種化されています。もちろん白人です。
 こうした規範の出現は、「ノンバイナリー」(NB)の存在が可視化されることに伴う、必然的なことなのかもしれません。いないことにされていた「第三の性別」が認知されていくにつれて、外見によってカテゴライズされやすい「NBらしさ」が規範化していくのは避けられないのかもしれません。でも、そんなのあんまりではないでしょうか。特に、NBのなかでもジェンダーを持たないAジェンダーにとって、ジェンダー外的なアイデンティティを持つはずの自分たちに新しいジェンダー規範が課されるなんて、本当に気持ちの悪いことです。
 願わくば、ジェンダーというシステム自体がすぐに崩壊してほしい。でも、それが崩壊するまで、現在の二元論的なジェンダーのシステムのなかで、私たちノンバイナリーは生きていかなければなりません。そんな状況で、「ステルスジェンダー」という生き方には政治的な可能性があるとわたしは考えるようになりました。
 あなたの隣にいる「女性」や「男性」は、もしかしたらステルスジェンダーかもしれません。本当は女性でも男性でもない人ですが、皆さんを欺いて透明マントを着ているだけかもしれません。皆さんの職場にいる「女性社員」や「男性社員」は、実は女性でも男性でもないかもしれません。皆さんには、どの社員がステルスジェンダーで、どの社員がステルスジェンダーでないのか、区別がつきません。私たちは、文字通り「ステルス」――身を潜め、存在を欺くこと――しているからです。
 性別二元論的な社会を壊すためには、NBという「第三の性」を付け足すだけでは不十分だと思います。それは結局、さっき見たような「NBらしさ」という新たなジェンダー規範を付け足すだけで、ジェンダー規範・ジェンダーのシステム自体は延命してしまうからです。ここで、男性でも女性でもない「クィア」な装いを身にまとい、ジェンダーを「かく乱する」というのも、ひとつの政治戦略かもしれません。でも、わたしにはその戦略は困難が多すぎると思います。なぜなら、そうした目に見える「クィア」を装うことは、多くの人にとってはあまりにリスキーなことだからです。こんなことを言うと保守的だと非難されるかもしれませんが、「クィア」的な装いで生きていけるのは、ごくごく限られた人たちだけだと思います。わたしは、「きちんとした女性/男性」ではない人間が被る視線の恐怖を知っています。それは、本当に苦しく、辛いことです。
 ステルスジェンダーという戦略は、ある意味でとても保守的です。既存のジェンダーの見分けのシステムを、そのまま使って身を隠すわけですから。でも、ステルスジェンダーという戦略は、性別二元論的な社会にとっての恐怖になりうると、わたしは思っています。私たちは、社会のいたるところに身を潜めていて、あなたが「女性」や「男性」として私たちのことを扱うたびに、透明マントの下で舌をだしています――残念、ハズレ。私たちは社会を欺くことに長けていて、ステルスではないシスジェンダーと、私たちステルスジェンダーを見分けることが、あなたにはできません。
 ステルスジェンダーは、世の中に無数にいます。あなたの想像しているよりもはるかに多くのステルスジェンダーが、社会には潜んでいます。その存在に脅えて、ためらうがいい。誰かを女性/男性として扱おうとするたびに、あなたは立ち止まって不安になるがいい。本当にこの人を「女性扱い/男性扱い」しても大丈夫だろうか、と。立ち止まるがいい。あなたが犯したミスジェンダリングの罪を、透明マントの下から私たちは嘲笑う。あなたたちは「トランスジェンダー」を可視的な存在としていつも考えているかもしれない。でも、残念でした。性別の境界線が見えている非シスジェンダーは、自分の身を隠すことにもしばしば非常に長けている。自分の身を透明にして、目立たないようにステルスすることだってできる。
 明日から、脅えながら暮らしてください。自分の家族、職場、友人関係、あらゆる場所に潜んでいる私たちステルスジェンダーの存在に脅えながら暮らしてください。そうして、あなたの目には見えない透明マントに恐怖しながら、立ち止まって考えてください。どうして自分たちがすべてのひとを「女性/男性」でに分割して扱おうとしているのか。立ち止まって反省してください。マントの下で「残念でした」と舌を出されるのが嫌なら、立ち止まって考えてください。
 本当に透明化されているのは、社会のあらゆる関係に浸透した「ジェンダー」という制度そのものです。ステルスジェンダーは、その透明になってしまった巨悪の存在を、ある意味で利用しています。でも、ステルスジェンダーの存在が世の中に知られて、シスジェンダーたちを脅えさせることができるようになれば、それは「ジェンダー」という制度についてマジョリティに反省させるきっかけを生み出しうるとわたしは思います。「逸脱者」を可視化しながら罰を与えつつ、自分だけは不可視化されたまま社会関係を支配する、その最も透明な「ジェンダー」という制度を、その制度の中に身を隠して自らを透明化させた、ステルスジェンダーたちが可視化させていくのです。ステルスした自分たちの存在を、透明マントの下から告げることで、透明化された制度の存在を暴き立て、それを目に見える場所に連れ出すのです。
 だから、わたしは次の事実を広めていきたいと思います。ステルスジェンダーは、社会の至るところにいます。男性でも女性でもない、無数のノンバイナリーな人びと(※NB自認のない人も含む)が、いたるところにいて、自分の存在を隠してシスジェンダーにステルスしています。社会の多くの人には、誰がステルスジェンダーなのかすら分かりません。たくさんの透明マントの下で、今日もあなたたちは欺かれています。
 そして同時に、わたしは今日もステルスして生きているノンバイナリーの仲間たちに呼びかけたいと思います。あなたの生存戦略は、間違っていません。分かりやすい「クィア」的な格好をしていなくなって、反対側の性別にトランスしてなくたって、あなたが女性でも男性でもないという事実は、ひとつも揺るぎません。生まれたときに割り振られたとおりの性別で自然に社会で生活できて(しまって)いるからと言って、非・シスジェンダーであるという事実はひとつも揺るぎません。反対側の性別に擬態しているからといって、罪悪感をもつ必要はありません。私たちは、ステルスしているのです。ジェンダーの規範を逆手に取り、社会を欺いています。ステルスして透明になっている私たちの存在が可視化されていけば、きっといつか、性別二元論を不安に陥れることができると、わたしは信じています。