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怒りを大切に抱えて、その先へ
怒り、としか表現しようのない感情がある。これは悲しみでも、憐憫でもない。
それは、誰かがレイプされたと知る度に、不本意に従属させられていると知る度に、虐められているのを知る度に、妊娠したことが非難の対象になっているのを目撃する度に、他人の不幸を厭わないで行動する人を目にする度に、特定の性質が揶揄されたり嘲笑されたりしているのを耳にする度に、ふつふつと、湧き上がってくる。
怒っている人に面したとき、大抵の人はたじろき、尻込みしてしまう。その怒りの根本に触れることを怖がってしまう。怒りが自分に向けられたとき、それを受け止めることのできる器を持った人間は少ない。怒りの真意は伝わらずに、怒られたことの不快感だけが、爪痕を残す。
グレタさんの主張は、詳細を聞くと素晴らしい。そのことに多くの人が気付き始めている。だが、少なくない人が、彼女の表情を初めて見たとき、たじろいでしまったのではないかと思う。彼女の怒りの表情に、彼女の怒りの声色に。私はそうだった。何をそんなに怒っているのだろう。こわいな。私そんなに怒られるようなことしてない。過剰なんじゃないの。耳を傾ける前に、反射的にシャットダウンしてしまったことがある。
アンガーマネジメントという考えがある。怒りは、制御しなければならないものらしい。確かに、怒りやすい人、怒りにくい人というのはいる。怒りのスイッチが入りやすい人は、自分の構造を把握するのは良いことかもしれない。もしかしたら、それは怒りではなくて、他の感情なのかもしれないから。自分の感情のバリエーションを増やすことは悪くない。
ただ、怒り自体は、悪ではないのだ、と声を大にして言いたい。グレタさんの思い、抑圧された者たちが抱く感情は、「マネジメント」されるべきものではない。そのことは強調しておきたい。
哀しいかな、怒りはそのままでは相手に伝わらない。
怒りは、そのままでは私を救ってはくれない。
怒りを伝えたいときは、泣いたらいいと教えてくれた人がいる。確かに、涙を見せるとスムーズ事が運ぶことがある。ただ、これは小手先のスキルであって、真の解決ではない。
私が怒るのは、真の解決を求めるからである。
怒りを伝える必要に駆られて、私は言葉を磨く。
言葉は、他人が作ったもので、私自身のものではないから、苦しさを覚えることもあるけれど。だけど、しょうがない、私は言葉を磨く。怒りのエネルギーを相手に伝える手法を模索する。
自分が抱いているこの憤りをそのまま相手にぶつけても、相手は離れていくだけだから、私は学び続ける、書き続ける。
言葉を重ねれば重ねるほど、自分の思いとの乖離が明白になって、苦しいけれど。なぜこんな苦しみを覚えなければいけないのか、なぜ相手は聞いてくれないのか、と新たな怒りも覚えるけれど。
怒りは、ただそれだけでは私を救ってくれないのだ。あなたのことも、苦しんでいるあの子のことも救ってはくれないのだ。
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