釣り人になった

2021年8月12日 くもり

空は一面の雲に覆われていた。肌にベタつく風が嫌な汗をかかせる。
私は昼過ぎに最寄りの港に到着し、初めての釣行に挑むべく車を降りたところであった。

堤防を見渡すと多くの人たちが竿を振っている。
正直、驚いた。釣りをする人ってこんなに沢山いるのか。

思えば、さっき寄った小さな釣具屋だって、十数年以上前からあった。その間潰れずに経営を続けられたのは、多くの釣り人がいるからに他ならない。今まで釣具屋や港にあまり寄り付かなった私が知らなかっただけで、釣りは大衆のトップレジャーなのだと思い知った。

沢山の釣り人の中、初心者である私はどのように振る舞えばいいのか。せめて他の人の邪魔にならないようにと思い、釣りを始めることにした。

なるべく人の少ない場所を探し腰を降ろした。
そこは堤防の一番奥まったところにある船着場で狭いところに漁船が数隻とまっている。そのため仕掛けを投げることが出来る範囲がかなり狭い。

私はコンクリートに座り込み、早速釣りの準備をすることにした。

釣竿を伸ばし、悪戦苦闘しながら仕掛けと餌を付けた。
仕掛けはL型天秤のちょい投げセット、餌はアオイソメだ。

さて、どうやって竿を投げるのか、、、
あまりにも自信がなかったのでネットで「竿の投げ方」と検索し、実践してみる。

飛ばしすぎると漁船に仕掛けが当たってしまうので、軽く軽く竿を投げた。
ひょろひょろと仕掛けが飛んでいき、着水して、ゆっくりと海に沈んでいく。

おお、なんとか海に仕掛けを投入することができた!
これは紛れもなく「釣り」だ!「釣り」をしているのだ!
やった!嬉しい!できた!こんな私でも「釣り」ができた!
私はたった今、「釣り人」になったのだ!

興奮と感動を覚えながら握りしめていた竿に意識を集中すると、微かに、本当に微かだけれど海の揺らめきを感じた。

釣り竿を通して私は海と繋がっているんだな、と思った。

世界が開けた気がした。
新しい境地に踏み入った気がした。
今まで体験したこともないような特別な事が起こる気がした。

見上げた空は、いつもよりずっと広い。
揺れる海面がコンクリートに当たる音が心地良い。

何に安心したのか、何に感嘆したのか、ふっとため息が漏れた。
体が軽くなっていくような気がした。

釣りの醸し出す情緒に酔いしれていたのも束の間、待てど暮らせど魚が掛からない。
昔読んだ漫画「封神演義」では主人公の太公望が先の曲がっていない針で釣りをしているシーンが描かれていた。無論そんな針で魚が掛かる訳もなく、それでいて名シーンなもので太公望の「釣れない釣り」に憧れを抱いてはいたものの、私は短気なのでさっさとその場所を離れることにした。

先ほどより広い船着場へと行き、隣の釣り人と適当に距離が離れている場所に座る。
目の前に漁船が停泊しているが、私は足元に糸を垂らすだけなので問題はないだろう。
先ほどと同じ仕掛けを投げ込み、ちょんちょんと誘いをかける。よく分からないけど仕掛けを動かしていた方が魚が寄ってくる気がしたのだ。おそらく、これは人間の本能だろう。釣竿をちょんちょんとやってしまうのは本能由来の行動なのだ、きっと。



ほどなく、魚が餌を食っている感覚が手元に伝わった。
トゥトゥトゥと引っ張られるような感覚。
その感覚は竿を持っている者にしか伝わらない。
この瞬間、私と魚とだけが互いの存在を感覚で認知し合っている。

いよいよ、やっと、ついに魚と会い対することができる!

興奮のボルテージが最大となった私は「うっひょー!!」と叫びつつ竿先を上げた。嘘だ。本当は「あ、きた」と小さく呟いただけだ。でも、内心では叫んで踊り出したいくらいに嬉しかった。

平静を装いつつリールを巻いていく。
ドキドキが止まらない。

「狩った、狩った!これが本来人間のあるべき姿よ!」

脳内でドーパミンが爆発しているのが分かった。
猟奇的な目つきになっていたであろう私はリールを巻き続けた。

だんだんと魚の姿が見えてくる。
そしてついに魚は堤防を越え、私の手元にまでやってきた!
やった!釣り上げた!やった!

興奮と喜びに塗れ切った私は、じっと魚を見つめた。
そこには想像していたのと全然違う魚がいた。

地獄の釜の底からやって来たような赤黒い姿。
邪気を凝縮したような真っ黒の瞳。
凶悪を絵に描いたような背びれの形。
全然かわいくない。

魚の知識が皆無の私でも直感で分かった。
こいつ、「毒魚」だ。

進化の過程で神が「素手で触ってはいけません」と注意書きをしてくれたような禍々しさを放つ魚を前に、私は右往左往していた。

すると、隣にいたおじさんが「その魚、触っちゃダメだよ!」と声を掛けてくれた。
「何となく分かります」という言葉を飲み込み「そうなんですか、私釣りが始めてなものでよく分からなくて」と答えた。その魚は「ハオコゼ」というらしく、ヒレに強力な毒を持っているとのこと。

おじさんは親切に自前の魚バサミと針取りを出して、魚を仕掛けから取ってくれた。
「どうする?」といった感じの目配せがあったので、私が海の方を見るとおじさんはハオコゼを海に帰した。

「知らない魚は素手で触っちゃダメだよ」
おじさんが言う。

「となると私が素手で触れる魚は一匹もいないことになりますな!ははは!」
などと言えるはずもなく、礼を言って釣りを再開した。

その後すぐに「クサフグ」が釣れた。
「堤防 フグ」で調べたらすぐにこいつが堤防の嫌われ者であること、素手で触っても大丈夫なことが分かったので海に帰した。

この時は、ハオコゼだろうがクサフグだろうが釣れた事が本当に嬉しかった。
自分で仕掛けと餌を用意して、それを海に投げて、それを魚が食べてくれた、それだけで嬉しくてたまらなかった。

隣のおじさんがアジを2、3匹連掛けした頃、私は帰ることにした。

毒魚だろうが何だろうが釣れたことは嬉しくてたまらなかったのだが、あまりにも準備不足だったのだ。

これ以上毒魚が釣れたとして、魚をはさむ道具がない。
仕掛けが絡まったとして、糸を切るハサミもない。
仮に食べられる魚が釣れたとして、持ち帰るための道具がない。
釣り上げた魚が安全な魚かどうかも分からない。
食べられる魚を釣るための仕掛けや方法も分からない。

本当は、もっとずっと釣りをしていたかったが、このまま続行していても誰かに迷惑をかけてしまう気がして、私は帰ることにした。

ただ、自分の力で魚を釣れると分かったことは大きな収穫であり、その事実に私はひどく興奮していた。

次は絶対に食べられる魚を釣ろう!
そしてそれを食べてビールを飲もう!

そう心に決めて、私は堤防を後にした。



家に帰ってから、釣りについてネットで調べまくった。
YouTubeで沢山の釣り人の動画を見た。

情報を飲み込む事がこんなにも面白いだなんて。

寝ぼけ眼を擦りながらスマホの画面に照らされていた私は、「明日は絶対に食える魚を釣ってやる」そう決心した。

今日は本当に大きな一歩を踏み出したな。
進むべき道というのは、その道を踏み出した瞬間に分かるものなんだな。
勇気を出して釣りをやってみてよかった。

少しだけ自分が誇らしく感じられて、嬉しかった。

大冒険の始まりを予感した33歳の私は、
これから出会うであろう景色に思いを馳せ、
少年のように高鳴る胸を静めながら、

やっと眠りについた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?