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他人の気持ちを理解した「ふりをする」こと

私はASD向けの集まりに通っている。もっとも、この2ヵ月ほどは新型コロナウイルス感染症対策を理由に開催されていない。
今回はその集まりで聞いた話を起点にして感じたことについて書きたい。

少し前のこと、その集まりではASDが苦手とされる「他人の気持ちを理解すること」に関して、ある人が「他人の気持ちは究極的には分からない。分からないなら、分からないなりに寄り添おうとする態度が大事だ」という話をした。

私はそれを聞いた時、確かにそうした態度は大事であると感じた。
だけど、とその集まりからしばらく日にちが経った今思う。

「他人の気持ちが分からないなら、分からないなりに寄り添う」というのは、よく分かっていない物事を分かったかのように振舞うことではないか。
分かってもいない物事を分かったのように振舞うことは、非常に欺瞞的な態度ではないか。

現実には他人の気持ちを正確に理解できていなくても、理解しようとする「態度を示すこと」の方が重要とされる場合だってある。
いや、むしろその方が場合としては多いくらいだろう。
そして、そのような態度を相手に伝わる形で示すことができないことが、ASD者が対人関係でトラブルを起こす原因の一つであることも認めなければならない。

そうであったとしても、多くの人が表層的に他人の気持ちを理解したふりをしながら生きていると考えると、そのような「ふり」によって成り立っている世の人間関係の薄っぺらさに、私はぞっとせずにはいられない。

これはASDのせいにしてよい問題ではないかもしれないが、私にはこの世の中が時にひどく欺瞞に満ちたものに感じられる。
それが現実だ、ASDであろうが定型発達であろうがその中で生きていかなければならないと言われれば反論しがたい。
だが、それが私なりの感じ方である。
その感じ方に無反省に従うことによって生じる他人との無用な揉め事は避けつつも、私自身の感じ方自体は大事にしたいし、それをこの場で発信し続けたいと思う。

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