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【短編小説】わかるよ、なんて言えないから(『CALL ME』トリビュート小説)

こんなとこでよければ、またいつでも来てよ。

◼あらすじ
湖畔の町で喫茶店を営む俺は、急に姪っ子を預かることになる。
中学生の姪っ子は、学校に行っていないらしい。
生きづらさをかかえる彼女に、俺は黙ってコーヒーをいれる。

YOSHII LOVINSON『CALL ME』
から着想を得た短編小説。

〈うちの子さ、何日か預かってくんない?〉
 東京に住む姉から久しぶりに電話がかかってきたかと思いきや、あいさつも早々に、そんなことを言いだした。
 姉が急な海外出張で家を空けることになった。タイミングが悪いことに、夫も翌日から出張で、その間、中学生の娘がひとりになってしまう。
〈その点、あんたはずっと店にいるじゃない? すみっこにいさせてくれたら大丈夫だから〉
「いや、預かるったって、学校はどうすんの?」
〈平気平気。どうせ行ってないから〉
 姉は軽い調子で重めの近況報告をぶちこんでくる。俺は早速、断る口実を失ってしまう。
〈順調なら、十二時頃に駅に着くはずだからさ〉
「え、十二時って今日の?」
 壁の時計を見る。もうすぐ十時半になる。
〈あんた、いつでも来てって言ってたじゃない。あの子の連絡先はあとで送るから。よろしくー〉
 言いたいことだけ言って、姉は電話を切ってしまう。
 確かに店を開いた時にそう言ったけどさ……そういう意味じゃなくね?

 仕事とプライベート兼用の軽ワゴン車で、くねくねとカーブする湖沿いの道を走る。
「真っ白」
 助手席の窓から外を見ていためいっ子が、退屈そうにつぶやいた。
 窓の外では冷たい雨が降っていた。湖の周りを囲む山から濃い霧が下りてきて、何も見えない。
「今日はダメだな。天気がよかったら向こう岸まで見えるんだけど。今は紅葉がきれいなんだぜ」
 ふうん、と小さくあいづちだけ打った姪っ子は、流れていく真っ白な湖を興味なさそうに眺め続ける。
「ここまで遠かったろ」
「まあ」
 姪っ子はこちらを見もせず答える。この子の場合、これが平常運転だ。
 ラジオが控えめの音量で懐かしいロックを流し始める。
 そこで会話が途切れた。
 思えば、姪っ子とふたりきりというのはこれが初めてだ。おまけに会うのは正月以来だから、十ヶ月ぶりになる。
 小さい頃はあいさつがわりに飛びついてくるような、お転婆てんばな子だった。だが小学校の高学年になると急に大人びてきて、顔を合わせても「どうも」と会釈えしゃくするだけになった。十四歳。親戚のおじさんなんて、お年頃をもらう時以外はまったく眼中にないお年頃だ。
「昼飯はもう食ったか?」
「まだ」
「何か食いたいもんある?」
「なんでも」
 出た。一番困るやつ。
 駅の近くなら少し店があったのだが、もう結構走ってしまった。失敗した。
「じゃあ、うちで何か適当に作るんでいい?」
「いい」
 即答だった。どうでもいいよ、ってタイプの即答。

 俺の店は、駅から湖沿いを二十分くらい走ったところにある。
 湖の東側は駅と観光地、西側は別荘地で、店があるのはその境目あたりの北側。静かだし、観光客も来やすい場所だ。
 カウンター席が七つ。テーブル席が三つだけの小さな喫茶店だ。ここで前に店をやっていた人のこだわりらしく、壁もテーブルも落ち着いた色の木で統一されている。明かりは間接照明だけで、今日みたいな日は穴蔵のように暗くなる。でも店全体がアンティークっぽい雰囲気で、気に入っている。
 荷物だけ二階の住居スペースに置いて、店のカウンター席に姪っ子を座らせた。とりあえず出かける前の一時間でざっと片づけはしたが、二階はまだ何の準備もできていない。
 まずは昼飯だ。
「なんか食べられないものあったっけ?」
「肉」
 そうだった。正月に会った時も雑煮ぞうにの鶏肉だけわんに残していた。全然「なんでも」じゃねえし。
 冷蔵庫の在庫を確認して、ざっとプランを立てる。二階にはキッチンがないので、自分の食事も店で作って店で食べている。だから冷蔵庫も供用だ。
 バターときざみにんにくを入れたフライパンを火にかける。香りが立ってきたら、冷凍のミックスベジタブルとむきエビを入れる。パチパチと油を跳ねさせながら、白かったエビがほんのり赤みを帯びていく。火が通ったらエビを取り出し、かわりにご飯を投入する。ひっくり返しながら混ぜ、パラパラになるまで炒める。最後にエビを戻して、しょう油と塩コショウで味をつけた。
 バターにしょう油が加わった香ばしい香りに、俺の空きっ腹が暴れ出す。
「あいよ。温かいうちにどうぞ」
 カウンター越しにサーブすると、姪っ子の目が大きくなった。皿にこんもりと盛られた洋風チャーハンを、じっと見つめている。
「どうした?」
 姪っ子は黙って首を振る。
 そっとスプーンでご飯とエビをすくうと、口に入れた。
 また、動きが止まる。
 そういえば、姪っ子に俺の料理を食べさせたのは初めてだ。子どもはへたな大人よりもジャッジが厳しい。少しでも気に入らないと、それ以上はまったく口をつけなくなる。
「口に合わなかった?」
「いや……」
 言いかけた姪っ子は口の中に残っていたものを飲みこんで、続けた。
「意外とおいしいからびっくりした」
 苦笑とともに、ホッと息がもれた。
「そりゃあ、一応、これで商売してるからね」
 なんて言いつつ、つい頬が緩んでしまう。
 俺もカウンターの内側で食べた。うん。我ながら、うまい。
 食べ終わった俺はコーヒーをいれる。フィルターを重ねたコーヒードリッパーに、いたコーヒーの粉を入れる。口の細いヤカンで少しずつお湯を注げば、蒸しパンがふくらむみたいにふっくらと泡が盛り上がる。いったん注ぐのをやめて、泡が静まるまで待つ。やがてフィルターを通って、コーヒーがコーヒーサーバーに滴り落ちてきた。そうしたら再びお湯を注ぐ。ゆっくりと、蒸しパンが常にふくらんでいられるように。
 コーヒーは黒いイメージがあるが、一滴、一滴は透き通った琥珀こはく色をしている。それが落ちて、サーバーの中で小さな波紋を作るのを見るが好きだ。
 湯気に乗って香りが立ちのぼってくる。豆を挽いた時もいい香りだが、液体になると香りがさらにまろやかになる気がする。
 ハンドドリップはこうした変化を感じられるのが楽しい。店を始めてから気づいたことだが、俺はコーヒーを飲むことよりも、コーヒーをいれている時間の方が好きらしい。
 気がつくと、食べ終えた姪っ子がカウンターの向こうから首を伸ばしていた。
「それ、時間かかんない?」
「かかるよ」
「効率悪くない?」
 俺はまたも苦笑する。姪っ子の方から話しかけてきてくれたのは嬉しいが、どうも上から目線だなぁ、この子は。
「でも、うまいんだよ。お前も飲むだろ?」
「うん」
「ミルクと砂糖は?」
「どっちも」
「ちょっと待ってな」
 二杯分たまったら、ドリッパーをどかす。
 ミルクを少し手鍋に入れて火にかける。その間に、カップにお湯を注いで温めた。カップのお湯を捨てたら、コーヒーを注ぐ。カップをソーサーに載せて、姪っ子の前に出す。温めたミルクを入れたミルクポットと、スティックシュガーも横に添えて。
 姪っ子は、ミルクと砂糖を入れたカップをスプーンでかき混ぜる。念入りにフウフウして、そっと口をつけた。
「どうよ? インスタントよりずっといいだろ?」
 姪っ子は小さく首をかしげる。
「おいしい、気がする……けどよくわかんない」
 普段はあまりコーヒーを飲まないから、どういうコーヒーがうまいのかわからないのだ。なんて贅沢ぜいたくな。俺のコーヒーの味を覚えさせてインスタントに戻れなくさせてやろうか。とは、さすがに気持ち悪いので言わなかったけど。
 やがて姪っ子は、カウンターの上にノートと参考書を広げ始めた。
「偉いな」
「勉強するのは嫌いじゃない」
 別にこれくらい普通でしょ、という感じの返事だった。
 姪っ子は迷いのない手でノートに計算式を書いていく。シャーペンがノートを滑るサラサラという音が、なんだかとても懐かしく感じた。
 ふと、駅で顔を合わせてからずっと聞いてみたかった質問が浮上してくる。
 学校、ずっと行ってないのか?
 話の流れで聞いてみようかと思ったが、やめた。
 そのことに関して特別な配慮はいりょが必要なら、姉が言うはずだ。大抵のことは大ざっぱな姉だが、しっかりしなきゃいけないところは決して外さない。何も言わなかったってことは、預かる上で俺が知るべきことは何もないのだ。
 どのみち、俺にはどうしてやることもできない。
 なら、何も聞くべきじゃない。

 それからの時間は、ぽつりぽつりと常連客が来店した。
 姪っ子はその間ずっと、カウンターの端っこの席に座って勉強したり、スマホをいじったり、イヤホンで音楽を聞いたりしていた。二階でテレビを見ていてもいいと言ったのだが、興味を示さなかった。そもそもテレビを見る習慣がないらしい。もしかしたら、テレビっ子という言葉はもう死語なのかもしれない。
 結局、夕方五時の閉店まで、姪っ子はずっとカウンター席に座っていた。今は、イヤホンをつけてスマホで動画を見ている。
 俺が目の前に立っても気づかないので、カウンターをノックした。顔を上げた姪っ子が、イヤホンを外す。
「夕飯の買い出し行くぞ」
「それって、私も行く感じ?」
「一日中、座りっぱなしだろ。散歩だよ、散歩。ほら、行くぞ」
 姪っ子は心底面倒くさそうに「ええー」とぼやきながらも、意外とすんなり立ち上がった。

 姪っ子に好きな食べ物を聞くと「葉物野菜」と、範囲がせまいんだか広いんだかわからない答えが返ってきた。
 スーパーで安かったキャベツを買ってきて、家にあった冷凍アサリでパスタを作った。つけ合わせに、店の残りもののスープとサラダを出す。
「おじさんって、なんかところどころ女子っぽいよね」
 姪っ子が急にそんなことを言い出すものだから、俺は危うくスープを噴き出しそうになった。
「どこが?」
「作る料理とか、家具とか。車もかわいいし。全体的に、あんまりオジサンっぽくない」
「そうかぁ?」
 俺がこの店を買ったのは、内装の渋い雰囲気を気に入ったからだ。料理だってキャベツとあさりを塩とにんにくで炒めただけで、特に飾り気はない。どのへんが女子っぽいんだ?
 そこまで考えて、ふと、もしかして、これはほめられているんじゃないか? と思い至った。調子に乗って聞いてみる。
「母ちゃんの料理と、どっちがうまい?」
「こっち」
 あまりの即答に、つい笑みがこぼれる。
 それを見た姪っ子が「そんな嬉しい?」とちょっと呆れ顔になった。

 うちの喫茶店は朝が一番忙しい。八時の開店と同時に、常連客で席が埋まる。
 軽い食事とコーヒーを飲みながら新聞を読んだりラジオを聞いたり、一時間くらいのんびりすごすと、それぞれ仕事や散歩へ出かけていく。だから十時をすぎると客足はいったん途切れる。俺の朝食はそれからだ。
 俺は店の入口を開けて外を覗く。しっとりとした空気に首がヒヤッとした。夜のうちに雨はやんだが、また降ってきそうだ。
 店の前の駐車場をほうきでいている姪っ子に声をかけた。
「おー、きれいになった! サンキューな。手洗っといで。朝飯にするぞ」
 落ち葉が入ったゴミ袋とほうきを片づけて店に戻ってきた姪っ子に、俺は温かいミルクを出す。
「何食いたい? メニューから好きなの選んでいいぞ」
 姪っ子はカウンターに置いてあるメニューに目をやった。しかし何秒も見ないうちに、視線を上げてしまう。
「おじさんは何食べるの?」
「俺? 大体いつもトーストと卵だけど」
「じゃあ、それでいい」
「なんだよ、遠慮しなくていいんだぞ」
「別に、そういうわけじゃない」
 はり合いねえなぁ。
 朝から「働かざる者、食うべからず」などと偉そうなことを言って掃除をさせた身としては、働いた分、好きなものを食べさせてやりたかったのに。
 朝食を用意する間、姪っ子は開ききらない目で、カウンターの天板をぼーっと見ていた。いつだったか姉が「放っておいたらいつまでも寝ている」と言っていたので、無理やり起こした。やはりまだ眠たいようだ。
 トーストとサラダ。スクランブルエッグには牛乳と砂糖を少しだけ入れて、ふわふわに焼いた。
 姪っ子はトーストにブルーベリージャムをぬりながら、つぶやいた。
「あれって毎日やってるの?」
「何が?」
「落ち葉」
 ああ、あれね、と俺はうなずく。裏口に置いてあるゴミ袋の山を見たのだろう。量が量だから、収集日までの数日でそれくらいたまってしまうのだ。店のすぐ裏が森なので、秋は地獄だ。
「そうだよ。この時期は、毎日やらないと埋まっちまうからな」
「だったらこんなとこに店出さなきゃいいのに」
 実感がこもった言葉だった。落ち葉掃除は、よっぽど大変だったらしい。
 まあ確かに、俺も初めての秋はかなり後悔した。だが今は季節の風物詩ふうぶつしとして受け入れている。冬は寒いし、夏はセミがうるさいのと同じだ。文句を言ったってどうにもならない。
「おじさんって、東京のおっきい会社で働いてたんでしょ?」
「まあね」
「そんな会社を辞めてまで、なんでこんなとこで喫茶店なんかやることになったの?」
「んー、コーヒーが好きだからかな」
 姪っ子がため息をつく。
「え、ダメ?」
「コーヒー出すにしても、もっと売れそうなお店あるじゃん。おしゃれなカフェにするとか、家族向けのレストランにするとか。料理うまいんだし」
 姪っ子はフォークでスクランブルエッグを差す。甘い卵はお気に召したらしい。
「うーん、そういう張り切った感じは、しょうに合わないんだよなぁ」
「それで潰れたら元も子もなくない?」
 これは手厳しい。確かに、朝と昼時を除けば、客はぱらぱらとしか来ない。去年近くにできた古民家カフェに観光客を取られて、経営はかつかつだ。
「好きな場所なら、自分のままでいられるかなと思ってさ」
 店を開いた一番の理由は、自分の居場所を作りたかったからだ。同じようにここを居心地がいいと感じる人が、ゆっくりできる店にしたかった。だから、たくさんの客を集めたいわけじゃない。考えが甘いと言われればそれまでだが、そこを見失ったら、この店は価値を失うような気がする。
 だがそれを説明するのは照れくさいので、おどけてはぐらかした。
「金じゃあ買えねえもんが、この店にはあるってこった」
 さいわい、姪っ子は「クッサ」と笑ってくれた。

 昼をすぎた時間帯は客がほとんどいないので、そこをねらってくる常連がいる。おっちゃんもそのひとりだ。
 カウンター席に座ったおっちゃんは、メニューも見ずに注文をする。
「とりあえずアメリカンでしょ。あとはそうだな、今日はフレンチトーストがいいな」
「だからそれは朝限定だって言ってるでしょ」
「だってあんたの作るやつうまいんだもん。ね、お願い」
 おっちゃんは顔の前で手を合わせる。今は他に客もいないし、まあいいか。
「しょうがないな。ける時間短いから、いつもとはちょっと違うかもよ? それでもいい?」
「いい、いい」
 おっちゃんは「やった」と子どもみたいに喜ぶ。俺はいつもこうして、おっちゃんの人懐ひとなつっこさに押し切られる。
 フレンチトーストは人気だが、前日の夜から用意しておく必要があるので、提供数に限りがある。だから朝食限定メニューにしているのだ。
 とき卵、牛乳、砂糖を混ぜた液に、五枚切りの食パンを四等分したものをひたす。本当はこのまま冷蔵庫でひと晩置くのだが、今は、すぐに染みこませるために電子レンジで温める。バターをとかしたフライパンに、液を吸ったパンを入れ、ふたをして焼いていく。ぽってりとふくらんだパンの表面に地図みたいなまだらな焼き目がついたら、ひっくり返す。
「これよこれ」
 でき上がったフレンチトーストを出すと、おっちゃんが待ってましたとばかりに手をすりすりした。
 ところが、勢いよく食べ始めた手が、ふた口目で、止まる。
「うーん、でもやっぱり、いつもよりパンっぽいなぁ」
 液を吸わせる時間が短いから、中の方まで染みきらないのだ。だから言ったでしょうが。
「いつものが食べたかったら、朝一で来て」
「だって朝はゆっくりしたんだもんよー」
 とかなんとか言いつつ、おっちゃんは着々と食べ進める。浸ける時間が短いかわりに、いつもよりバターを多目にしたから、そう悪くはないはずだ。
 ふと目をやると、姪っ子がおっちゃんを見ていた。じっと手元を、というかフレンチトーストを見つめている。
 おっちゃんが気づくと、姪っ子は視線をさっと参考書に戻した。
 おっちゃんは首をかしげる。
「あんた、あんな大きなじょうちゃんいたのか?」
「姪っ子だよ」
 おっちゃんは再び姪っ子を見て、うなずく。
「どうりで。いやぁ、あんたの子にしちゃあ、お利口そうな顔してるなーと思ったんだよ」
「そういうこと、若い子に言うと嫌われるよ」
「あんたは若くないから大丈夫さ」
「だからそういうとこだって」
「何が?」
「もういいよ」
 俺は笑いをこらえ、おっちゃんにコーヒーを出す。
 おっちゃんはフレンチトーストと、追加で注文したコーヒーゼリーまできれいにたいらげた。ぐだぐだとおしゃべりして、ニ時間くらい店にいたことになる。
 支払いを終えた帰り際、思い出したようにおっちゃんが言う。
「今夜は晴れそうでよかったね」
「夜、何かあるの?」
「何って、流星群だよ」
「あー、あれって今晩だっけ」
 そういえばニュースでやっていた。てっきり、もっと先の話だと思いこんでいた。
「予定ないなら、うち来るかい? 釣り仲間と集まる予定なんだ。嬢ちゃんも連れて来なよ」
 自分の話をしているとわかったのか、姪っ子はちょっとだけ目を上げた。イヤホンを外した姪っ子に、俺は尋ねる。
「行ってみるか?」
 姪っ子は、どうだろう? とでも言うように首をかしげる。興味がないのか、単に面倒くさがっているだけなのか、いまいち判断がつかない。
 こっちに来てから四日目だが、姪っ子はずっと店にいる。俺は店があるから連れ出してやることができないし、ずっと天気がよくなかったこともあって、そのへんを軽く散歩するくらいしかできていない。その点、流星群はもってこいだ。
「おっちゃん家、高台にあるから、きっときれいに見えるぞ」
 俺がこっちに移住した時、星の美しさに圧倒された。東京で生まれ育った姪っ子も、きっと驚くはずだ。
 俺とおっちゃんは、じっと姪っ子の答えを待つ。
 姪っ子は、そんな俺とおっちゃんの顔を交互に見る。
 そうやってしばらく考えこんだ姪っ子は、やがて、小さくうなずいた。

 その日の夜、車でおっちゃんの家に行った。すでにおっちゃんの釣り仲間が数人集まっていて、ほとんどがうちの常連だった。
 彼らに姪っ子を紹介する。姪っ子は少し緊張しているのか、会釈えしゃくであいさつして、何か聞かれても言葉少なに答えるだけだった。
 おっちゃんの家には広いバルコニーがあって、そこにテーブルとイスを出していた。テーブルの上にはおつまみの袋やアルコールの空き缶が広がっていて、小さな宴会のような状態だった。
 このあたりは秋になると、夜は東京の真冬並みに冷えこむ。みんな冬物のコートを着こんで、足元に置いた石油ストーブを囲んで座った。秋服しか持っていなかった姪っ子には、俺のマフラーとブランケットを貸した。
「おっ!」
 発泡酒ですっかりでき上がっていたおっちゃんが、空を指さした。
「流れた! 今流れた!」
「ほんと?」
「えー、全然見えなかった」
「またすぐに流れるだろ」
 などと言いながらみんなすぐにおしゃべりに夢中になってしまい、当初の目的をすっかり忘れていた。
 数日ぶりに雲が晴れた空には、深いあい色が広がっていた。月もない。星を見るにはいい日だ。
 だが、待ってもなかなか星は流れない。
 あくびをしたら、吐息が白く曇った。
「寒くないか?」
 俺は姪っ子に声をかける。
 しかし、隣のイスにはブランケットが丸まっているだけだった。トイレにでも行ったのだろうか。だがしばらく待っても戻ってこないので、俺も席を立つ。
 やはりトイレにはいなかった。一階に下りてみるが、リビングもキッチンも無人だ。人の家の中を勝手に歩き回るような子じゃないと思いつつも、廊下を進み、扉が開いている部屋を覗きこんでみる。玄関まで来たが姪っ子の姿はない。どこへ行ったのか。
 ふと視線を落とすと、姪っ子の靴がなかった。俺の靴の横に、一足分、ぽっかりと空白が空いてる。
 外に出たのか?
 ひとりで?
 どこへ?
 俺は靴を引っかけて外へ出る。あたりには街灯がないので、家から離れると真っ暗になる。家の前の坂を上がれば森、下れば車道。どっちに行ったって暗闇しか見えない。
 心拍数が上がっていく。
 どこに行ったんだ。
 こんなに暗いのに。
 土地勘だってないのに。
 俺はポケットからスマホを取り出した。着信履歴から姪っ子の番号を探し出す。指がかじかんでうまく動かないのがもどかしい。
 出ろ。
 頼むから。
 冷たいスマホを耳にあて、祈る。
 呼び出し音が鳴り始めた。一回、二回……。
 その時、どこかで聞き覚えのあるメロディーが鳴った。ポロポロという木琴みたいな音で、短いメロディーを繰り返している。
 俺は音のする方へ近づいた。家の前の砂利の駐車場に、車が数台並んでいる。一番手前に停めてある俺の軽ワゴン車の横を覗きこむ。
 ドアに寄りかかって姪っ子が座りこんでいた。着信音を鳴らし続けるスマホから顔を上げ、じとっと俺を見る。
「お前、こんなとこで何してんの」
「別に」
 別にって……お前ねぇ。呆れつつ、肩から力が抜けた。電話を切る。
 着信音が途切れると、姪っ子はまたスマホに視線を戻してしまう。
 あまりに素っ気ないその態度に、俺はなんだか急に腹が立ってきた。
「勝手にいなくなるなよ。心配するだろ」
「いなくなってもすぐに気づかなかったじゃん」
 いつになくトゲがある言い方だった。鼻までマフラーに埋めた姪っ子は、こちらを見もしない。
「どうしたんだよ」
 姪っ子の眉に力がこもる。答えが返ってくるまで、少し間があった。
「知らない人、嫌いなの」
 ため息が出た。人見知りする性格だと知ってはいたが、ここまでとは。
「気乗りしないんだったら、最初からそう言えよ」
「だって、おじさん行きたそうだったし。行かないとか言うの、ノリ悪いし」
 勝手に退場する方がよっぽどノリ悪いと思うんだけど。
 危うく口から出そうになった嫌みを、ぐっと飲みこむ。
 深呼吸で感情を抑え、できるだけ責める口調にならないように言う。
「俺は、一緒に行ったら楽しいかなと思ったんだよ。お前が楽しめないなら、行ったって意味ないだろ」
 今度は、姪っ子も何も言い返してこなかった。
 しばし、気まずい沈黙が流れる。
 あ、まずい。
 今の言い方だと「楽しめないお前が悪い」って意味になるかも。
 だがそう気づいた時には、もう遅すぎた。今から何を言っても、言い訳にしか聞こえない。
 姪っ子の顔が、ますますマフラーに沈んでいく。

 姪っ子の調子が悪いみたいだから帰る。そう言うと、おっちゃんたちは本気で心配して、宴会を中断して見送りにきてくれた。嘘をついている後ろめたさから、俺は玄関まででその見送りを断り、そそくさとおっちゃんの家をあとにした。
 家へ帰る車の中では、まったく会話がなかった。
 車が走り出すなり、姪っ子はイヤホンをつけてしまった。意識から俺を閉め出すみたいに、体ごと窓の方に向けている。
 強引に誘ったつもりはなかった。姪っ子がひと言でも行きたくないといったことを口にすれば、諦めるつもりだった。
 確かに姪っ子にしてみれば、面識がない上に、ほとんど祖父母と変わらないような年齢の人に囲まれて、居心地が悪かったのかもしれない。そこは気づかなかった俺が悪い。
 だからって途中で消えるか?
 行くって決めたのは、自分なのに。
 俺は静かに深呼吸する。
 常に大人に気をつかって、誘われれば断れない。そのくせに、現地で勝手に消えるほどの頑固さ。
 どうしてその頑固さを、誘われた時に発動できない。
 どうして言葉に変換できない。
 かと思えば、突然、上から目線で失礼なことを口にしたりする。
 気の毒なほど、バランスが悪い。
 そういう子だとわかっている俺でさえ、どうしても感情が振り回されてしまう。誤解されそうな性格だ。
 フロントガラスの向こうで、きらりとひと筋の光が伸びて、すぐに消えた。まだ流星群は見られそうだ。
 俺は店の前を通りすぎ、暗い道を走り続けた。山へと上っていく道を進む。そのまま十分くらい上ったところにある展望台の駐車場に、俺は車を停めた。ヘッドライトを消すと、あたりは完全な闇に包まれる。
 顔を上げた姪っ子は、知らない場所だと気づいて眉をしかめた。
「どこ?」
「ちょっと寄り道」
 俺はハンドルに腕をついて、窓から外を眺める。昼間なら正面に湖が見渡せるのだが、今は真っ暗だ。湖のほとりに少しホテルの明かりが見えるが、あとはどこまでが湖で、どこからが山なのかもわからない。
 そんな俺を、姪っ子が不思議そうな顔で見ていた。
「降りないの?」
「ここなら、車降りなくても星見えっかなー、と思ってさ」
 山の上なので、視界を遮るものが何もない。フロントガラスいっぱいに夜の空が広がっている。何より明かりがないから、星がよく見える。
 俺はラゲッジからステンレスボトルを取ってきた。おっちゃんたちへの差し入れで持ってきたコーヒーだ。何人来るのかわからなかったので二本用意してきたのだが、結局一本しか飲まなかった。ボトルのふたに注いだコーヒーを姪っ子に渡す。
「砂糖もミルクもなくて悪いけど」
 姪っ子は黙って受け取ると、手を温めるみたいに、両手で包んだ。
 もうひとつのボトルのふたを持ってきて、俺も自分の分を注ぐ。
 そうやってふたりで、熱いコーヒーをちびちび飲みながら、暗い車の中で夜空を見ていた。
 外で鳴く秋の虫の声と、時折フウフウとコーヒーに息を吹きかける音が、車内の沈黙を和らげてくれる。
 だんだんと暗闇に目が慣れてきた。スプレーで噴いたみたいな小さな星まで、くっきりと見える。
 ここに住んでみて初めて、夜でも空は青いのだと知った。日の光が届かなくなっただけで、空の色そのものが変わったわけじゃない。東京の濃い灰色の夜空に慣れていた俺にとっては、衝撃的だった。
 明日には姪っ子は東京へ帰ってしまう。まったく町を案内してあげることができなかったから、せめてここの星を見せたかった。
「おじさん、偉いね」
 唐突に、姪っ子そんなことを言った。いつの間にかイヤホンは外している。
「なんだ急に」
「ちゃんと大学行って、いい会社に勤めて、自分の店持って。急にこんな面倒な子ども押しつけられて、振り回されても、怒りもしない。私だったら絶対、初日でぶん殴ってる」
 こちらを見もせず、ひと息に言い切った姪っ子は、ふう、と息をついた。
 俺はしばし、考える。
 もしかして、謝っているつもりなんだろうか。
 これには苦笑するしかない。
 まったく。とことん、こじらせてるなぁ。
 他人をほめるために自分をとすなんて、不器用にもほどがある。
「俺は、お前が思ってるほど、立派な人間じゃないよ」
 姪っ子の目が、ちらっとこちらを見た。
「前の会社、めちゃめちゃキツくてさ。望んで入った会社だったから頑張ったんだけど、心も体も全然ついていけなくて。それで辞めたんだ」
 人に話したのは初めてだった。喫茶店をやるために会社を辞めた。家族や知り合いにはそう説明していたけど、本当は違う。
 俺は大学卒業後、東京の広告代理店に就職した。だがノルマが厳しく、すぐにいっぱいいっぱいになった。能力も時間も、自分の持っているものは全部捧げた。それでも数字が伸びない。同僚と常に比べられ、競わされ、目標を達成できないと朝礼でつるし上げをくらう。心も体もどんどんすり減っていく。眠れなくなって、頭が回らなくて、次第に失敗が続くようになった。上司からは毎日、罵声ばせいを浴びせられる。それでも必死に食らいついた。ずっと憧れていた仕事に就けたのに、ここで投げ出したら全部無駄になる。つらいのはまだ慣れていないからだ。そう自分に言い聞かせた。
 でも一向に慣れることなんかなかった。五年目に突入した頃には、ほとんど気力だけ出社している状態だった。
 ある夜、打ち合わせを終えて会社に戻る途中で、一瞬、意識が消えた。踏み出した足が突然、豆腐みたいにふにゃっと潰れたと思ったら、いつの間にか地面に寝ていた。声をかけてくれる人はいなかった。夜だったから、酔っぱらいだと思われたのかもしれない。かかえていた荷物がクッションになったおかげで頭を打つことはなかったが、腕と両ひざがずきずきと痛かった。
 俺の目の前を、どんどん通行人の靴が通りすぎていく。
 その手前で、何かが揺れているのが見えた。
 アスファルトの隙間から、雑草がひょろりと生えていた。隙間っていったって、ほんの数ミリしかない亀裂だ。そこから稲に似た青く細い葉が、噴水みたいに伸びていた。
 すげえな。
 こんなとこでも根をはって、葉を伸ばしちゃうなんて。
 俺には無理だな。
 そこでようやく、辞める決心がついた。
 直視することを避けていただけで、ずっと頭の片隅にはあったのだ。俺にこの仕事は無理だって。
 上司からは「途中で投げ出すのか」「自分の仕事に責任を持て」とさんざん文句を言われた。だが退職の手続きを済ませたら、連絡はまったくなかった。俺のかわりは、いくらでもいたってことだ。
「なんか全部面倒になって、とにかく今いる場所から遠くに行きたいって、それだけの気持ちで、ここに来たんだ。逃げたんだよ」
 喫茶店を開いたのだって、大した動機があったわけじゃない。たまたまテレビでこの湖を見て、実際に来てみたら、たまたま居抜きで売りに出ていた店舗と出会っただけだ。自分ひとりなら、もうからなくても困るのは自分だけ。だれにも迷惑はかけない。コーヒーは好きだけど、人生をけるほどじゃない。ずっと憧れていたものを仕事にして失敗したから、ほどほどに好きなものなら、もしかしたら続けられるかなって。本当に、その程度だった。
 姪っ子が何か言おうと息を吸う気配がした。だが言葉にはならず吐息だけがもれて、また吸って、を繰り返す。俺はそのまま少し待った。
 やがて姪っ子が、おそるおそる尋ねる。
「どうやって、乗り越えたの?」
 こういう時、何かひとつでもいいから、役に立つようなアドバイスをひねり出すのが、正しい大人の姿勢なのかもしれない。
 だが俺がどん底にいた時、知ったふうな顔で押しつけられる忠告ほど、虫酸むしずが走るものはなかった。まるで自分はすでにその段階を通過したみたいな、遠回しな自慢話にしか聞こえなかった。見下されている気がして、掴みかかりたくなるほど腹が立った。
 そして、そう感じた相手には二度と相談しなかった。
 だから俺は、正直に答えることにした。
「たぶん、まだ乗り越えられてない。避ける道を見つけただけだ」
 あの頃に感じていた息苦しさも後悔も、自分の中にまだ残っている。うまいこと埋めて、見えなくしているだけだ。
「大人は偉そうなこと言うけどさ、実際、大したもんじゃないんだよ。失敗を避ける方法を知ってるだけで、本質は、お前くらいの年だった頃とそう変わらない」
 もしも今の俺があの時とまったく同じ状況に追いこまれたら、やっぱり同じように潰れるだろう。解決策や克服法があるなら、当時すでに見つけているはずだ。見つからなかったから、そこを通らなくていい道を探した。
 どう頑張ったってかてにできない種類の挫折ざせつはあるのだ。
 成長できない部分はある。
 変えられない部分はある。
 それらをうまく隠せるようになることを、大人になるというのかもしれない。
「今だってそうさ。姪っ子に気をつかわせる、情けない大人だよ、俺は」
 子どもの世界は、大人の世界よりももっと残酷ざんこくだ。
 大人なら自分の意思で生きる道を選択できるが、子どもは親や学校の意思決定の範囲内でしか動けない。避けるにも限界がある。大人はそのことをすっかり忘れて、子どもに自分の選択を押しつけてしまうことがある。
 姪っ子はそういう世界に押しつぶされることに、慣れてしまったのかもしれない。
 だから、出張で家を空けるから親戚のところへ行けと言われたら黙って電車に乗るし、知り合いの家に行くから一緒に来いと言われたら大人しくついていく。
 どうせ逃げられないなら、あらがわない方が楽だから。
 だが我慢が限界を越えると、埋めたはずの「嫌だ!」が地面を突き破って出てきてしまう。
 それは、姪っ子の強さかもしれない。
 俺にはそれができなかった。倒れるまで、自分の本当の感情に耳を傾けることができなかった。
 もしかしたら、それを口に出せるようになるだけで、姪っ子の状況はずいぶん変わるんじゃないだろうか。
「今日は本当、お前が楽しんでくれたらと思って誘っただけなんだ。でも結果的に無理いする感じになっちゃって、今、俺、罪悪感すげえんだわ。だからこれからは、嫌な時はちゃんと言ってくれ。我慢とか無理とか、お互いにとっていいことないからさ」
 やりたいこと。やりたくないこと。それを口に出したくらいで、嫌いになったりしないから。
「お前はもうちょっと、他人に甘えていいと思うよ」
 姪っ子の方を向くと、姪っ子も俺を見ていた。
 暗くて細かい表情まではわからないが、姪っ子の大きな目だけはうっすらと見えた。星の光を吸収して、ほのかに発光しているみたいに、暗い中でも不思議な存在感を放っている。
 こんなにしっかりとお互いの目を見るのは、姪っ子が小さかった頃以来だ。
 視界の端で、星が流れた気がした。

 翌朝の空は、雲ひとつなく、きれいに晴れていた。しんしんと冷えた空気は、空と同じように澄んでいる。
「もう焼けるぞ。手洗っといで」
 俺が声をかけると、店の前で落ち葉を掃いていた姪っ子がぱっと顔を上げた。ほうきを片づけに、小走りで裏口へ回る。
 姪っ子がカウンターにつくと同時に、俺はフライパンのふたを開ける。パンが焼けるジュワジュワという音とともに、しっとりとしたバターの香りふわっと上がってくる。ふっくらとした生地に、きつね色のまだらな焼き目がついている。完璧だ。
「おじさん。一個、甘えていい?」
 昨夜、姪っ子が改まった口調でそう言った時は、いったい何が飛び出すのかとドキドキした。けれど聞いてみればなんてことはない。ずいぶん控えめな「甘え」だった。
 皿に盛ったフレンチトーストを出すと、姪っ子が「うわぁ」と小さくもらした。たっぷりのバターできらきらしている黄金色の生地を見るなり、姪っ子の目も輝きだす。
 姪っ子は手にしたナイフを、そっと生地に下ろした。すっ、とほとんどナイフの重さだけで刃が生地に沈む。
 切った生地をフォークで持ち上げると、断面がふるふると揺れた。卵と牛乳と砂糖の液にひと晩ひたしていたので、内側はプリンみたいに柔らかくなっている。
 ひと口には少し大きかったが、姪っ子はもっと大きな口を開けてぱくりといってしまう。もぐもぐしながら、目を細めた。
「うまいか?」
「うん」
 口いっぱいに頬ばったまま、姪っ子はうなずく。本当は、最初にメニューを見た時からずっと気になっていたらしい。念願のフレンチトーストは大満足のようだ。
 食べ終わる頃を見計らって、俺はコーヒーと砂糖と温めたミルクを出す。
 それからキッチンの奥に用意しておいた紙袋を、姪っ子のカップの横に置いた。
「サンドイッチ作ったから。途中で食いな」
「うん」
 紙袋を覗きこんだ姪っ子はうなずく。そのままコーヒーに戻りかけた視線が、はたと止まり、上目づかいで俺を見た。
「ありがと」
 照れくさいのか、姪っ子はすぐに目をそらしてしまった。俺は照れ屋なかわいい姪っ子に「お安いご用で」とうやうやしくお辞儀してみせる。
 このあと、姪っ子を駅まで送っていく。昼すぎには東京に着くだろう。姉も今日帰国の予定で、順調にいけば夕方には家に帰れるはずだ。
 東京に帰ったあとは、これまでと同じ生活が待っている。
 俺は、姪っ子の感じている生きづらさがわかるなんて、言うつもりはない。
 時間が解決してくれるかもしれないけど、それを言ったって、今はなんのなぐさめにもならないことも知っている。
 大人になれば平気になる、と言ってあげることもできない。大人になっても変わらない苦労はあるし、大人になったことで増える苦労もある。つらいけど、それが現実だ。
 でも、つらい場所に無理してしがみつく必要はない。これだけは断言できる。
「こんなとこでよければ、またいつでも来てよ」
 今いる場所が合わないなら、別の場所へ移ればいい。どこへ行けばいいかわからない時は、その場から逃げるだけでもいい。
 安心だと感じられる場所に避難して、そこでゆっくり次の行き先を考えればいい。
 自宅で安心できるなら、それに越したことはない。だけど親ってのは厄介やっかいなもので、絶対的な味方になれるが、同時に世界で一番うっとうしい存在でもある。近くにいるからこそ、言えないこともある。
 だから自宅以外に、いつでも行ける避難所があると、気持ちが楽になるんじゃないかと思うのだ。
「あっ、やっぱ今のなし」
 俺は慌ててつけ足す。
「来る時は、先に電話して。さすがにいきなりはビビる」
 半分は照れ隠しで言ったけど、もう半分は、わりと切実な思いだった。
 姪っ子は声を出さずに笑って、深くうなずいた。

<了>

Photo by Stefan Stefancik
Edited by 朝矢たかみ


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