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橘の古代(3)
いらしてくださって、ありがとうございます。
今回は、橘が登場する古代の「常世虫騒動」について綴っていきます。
蘇我入鹿が中臣鎌足らに討たれた乙巳の変。
645年の出来事ですが、その前年、東海地方で奇妙な騒動が発生していました。
東国・富士川のほとりの人・大生部多が、「常世の虫」を祭ることを人々に勧め、巫女たちも「これは神のお告げ」と偽り、人々に「常世の神を祀ると貧者は富を得、老人は若返る」と広めていきました。
人々はこぞって財を投げ出して虫を祭り、騒動は都まで届きますが、そんな有り様を憎んだ秦河勝が、大生部多を打ちこらした──。
こんな顛末を記したのち、日本書紀は虫について、以下のように言及しています。
この虫は常に橘の木に生じ、あるいは山椒の木にもつく。
長さ4寸あまり、大きさは親指ほど、色はみどりで黒いまだら模様あり。
その形はたいへん蚕に似ていた──と。
このくだりを読んだとき、まず、常世虫ってなんだろうと思い、イモムシさんについて調べてみました。
どうやらナミアゲハというアゲハ蝶の幼虫が、それらしい特徴を備えているように思います(キアゲハの幼虫には緑に黒の規則的な模様がありますが、食性は柑橘よりセリ系植物を好むようで、ナミアゲハのほうかな、と)。
ナミアゲハはミカン、カラタチ、山椒などを好んで産卵するといい、若齢幼虫は緑に黒のまだら模様。親指ほどの太さに大きくなった幼虫は、まだら模様は消えますが、ぱっと見、小さな緑色の蛇のようなのです……。
たしかに繭を作る前の蚕にもよく似ていますが、顔つきは蛇のほうが近い気がいたします。
幼虫の天敵は鳥と蜂。
蝶に羽化したあとは、水たまりや海岸で吸水する姿も見られるとか。
あらためて騒動について考えてみると、発端となった場所は富士川です。
日本三大急流の一つで、甲斐と駿河を結ぶ水運の要路でもあり、富士山の西側を南流していく川ですが。
更級日記には「富士河は富士山より落ちたる水」という一節があり、当時の人は富士山から流れ出た水が富士川になると考えていたのか、ほかにも「藤川」が富士川に変化したという説もあるようで。
当時の奈良・飛鳥の都にとって、富士山の裾野を流れる富士川を含む東海地方は、どういう位置づけだったのでしょう。
日本書紀や古事記には、なぜか富士山が登場しません。
万葉集には「田子の浦」の歌など、富士山を詠んだものはいくつかありますが、記紀には皆無。
たとえばヤマトタケルは駿河などを通っていますが、その道中に富士山は描写されません。はっきりと見えていたはずなのに。
記紀の成立する時代、富士山に触れることは禁忌だったのではないか。
この説は、『古事記はなぜ富士を記述しなかったのか 藤原氏の禁忌』(戸矢学・河出書房新社)に詳しいのですが、藤原は富士原であり、鎌足や不比等の出自にかかわってくるために、記紀では富士山を描くことが封印されたという、なかなかスリリングな内容です。
そんな富士山のおひざ元である東海で起きた、アヤシイ騒動。
これを「人々を勧誘して財を搾り取る新興宗教のハシリ」とする記述も見たことがありますけれど、私はこの騒動、宗教がらみではないと思うのです。
騒ぎを主導したとされる大生部多という人物の名、ここに「多」という字が入っていることが気になるのです。
多氏といえば、壬申の乱の折り、天武天皇に助勢した多品治という人物があり、その子が古事記を仕上げた太安万侶ともいわれます。
また、多品治の父・薦敷の妹は、日本に人質として滞在していた百済皇子・豊璋の妻になっており、多氏は皇統(政治の中枢)に近い一族だったようなのです。
大生部は、壬生部といって「皇子・皇女の養育にかかわる人々や封民のこと」を指すそうですが、さきの多品治は「湯沐令」という、「皇族(大海人皇子のちの天武天皇)の領地を管理する役」を負っており、大生部と多氏には共通点がありそうにもみえます。
ですが、オオウベという言葉自体は、もう一つ別のものも示唆していると思うのです。
それは『オオムベ』という果実。
アケビに似て常緑ゆえ別名「トキワアケビ」ともいい、「ウベ」と呼ぶ地域もあるとのこと。
ムベという名の由来は、天智天皇が蒲生野(琵琶湖南部)で狩りをした際、老夫婦から「無病長寿の実」と教えられた果実を口にして、「むべなるかな」と仰せになったから、という言い伝えがあるそうで、古代から皇室に献上されてきた果実だといいます(文末に産経新聞さんの記事をリンク)。
つまり、大生部多とは、『不老長生と関わりの深い多氏(の誰か)』を指しているのではないかと思うのですけれど……。
さて、そんなオオウベノオオが、人々に祀れと勧めたのが常世虫。
ナミアゲハの幼虫と思われるイモムシさんを「常世虫」としたのは、それが橘の木につく虫だから。
橘と常世のかかわりは、日本書紀では時代を遡った垂仁天皇の時代に描かれていますが、そちらは次回詳しく触れるとしまして。
橘は、唐代の小説『柳毅伝』にも「湖南洞庭湖の竜王宮の入り口に目印の橘樹があった」という話があるように、この世ならぬ異界・常世国に生える木として信仰されていたようです。
不老長生にかかわる人物(オオウベノオオ)が、不老長生の木(橘)につく虫を祀れと人々を唆した……そして、それを憎んだ秦河勝が彼を討ったというのですが。
前回書きましたように、秦河勝は「橘大夫」とも呼ばれていたそうで、その邸宅には橘の木が植わっていたのですよ。
秦河勝こそ、「橘の人」だったはずでは──?
自身こそが正統な「橘の人」であり、「橘の人」を標榜するオオウベノオオの振舞は許せなかった。
そんな同族嫌悪ゆえに、秦河勝は彼を倒したのか。
あるいは、オオウベノオオとは秦河勝の暗喩だとすれば、彼が倒したのは彼自身、つまり、『秦河勝が滅ぼされた』ことを日本書紀は記したのではないか。……その翌年に滅ぼされたのは、蘇我入鹿なのですけれど。
ここですこし話が逸れますが、入鹿の祖父・蘇我馬子はかつて、推古女帝にこんな願いを申し出ています。
『葛城(という土地)はもと、私の本拠。葛城を私に与えてください』
唐突に姪である女帝におねだりをした馬子ですが、女帝は断っています。
けれど、この唐突なやりとりがずっと気になっているのですよ。
葛城という地は、葛城氏という「大王家と関わりの深い一族」の本拠でしたが、ある事件をきっかけに、その土地を大王家に差し出しています。
蘇我氏はそんな葛城氏の「もろもろを継承した」がゆえの発言らしいのですが。
私はここに、秦氏の影を感じてしまうのです。
秦氏は、葛城襲津彦の支援で日本にやってきたとき、葛城氏の本拠である葛城に住んだとされます。
秦氏の本拠として知られるのは、京都の太秦や伏見区深草ですけれど、襲津彦の伝承が真実ならば、葛城こそが彼らにとっての真実の故地なのかもしれません。
蘇我馬子が望んだ本拠とは、秦氏の故地・葛城を我らに返してほしいということだったのではないかと考えるのです。
そして、そんな望みを持つ馬子とは、秦氏そのもの。その時代の著名な、族長ともされる秦氏といえば、秦河勝──。
葛城や蘇我などと、いくつもの名を冠しながら伝えられる「この国の王統に娘を妃としていれてきた一族」はすべて、秦氏を指しているのではないか。
蘇我氏って、もしかして秦氏のことだったりします……?
と、脱線してしまいましたけれど。
橘の木につく虫をめぐる常世虫騒動は、秦河勝によって鎮圧されましたが、日本書紀では秦河勝のその後には触れられぬままです。
そして騒動の翌年、蘇我入鹿は殺され孝徳天皇の御代が始まるのでした。
ときに。
この常世虫騒動の前年には、聖徳太子の御子・山背大兄王が、蘇我入鹿によって一族もろとも抹殺されるという事件が起きています。
その事件後には、百済皇子・豊璋が、三輪山で養蜂に失敗したという、前後になんの脈絡もない一文が記されているのです。
常世虫・アゲハ蝶の幼虫の天敵は、蜂……。
蜂といえば『古代史随想(6)』で、秦氏と蜂とが深くかかわっているのでは、という記事を書いています。
さらには、アゲハ蝶の幼虫がいたなら当然、蝶もいたはずなのですが、記紀には登場せず、さらに万葉集でも詞書以外、歌に詠まれたことは一度もなかったりします。
蝶は死者の魂を運ぶなどとも申しますけれど、橘の木が多く植えられていたという蘇我氏の邸宅まわりには、アゲハ蝶が群れ飛んでいたのではないかと思うのですよ。
ゆえに、蝶のことに触れるのは、記紀の時代のすこし先まで「禁忌」だったのかも……とも想像したりもするのでした。
そういえば、常世虫は「蚕に似ている」と、わざわざ日本書紀は書いていますが、養蚕、機織といえば、それこそ太秦とも呼ばれる「秦氏」のお家芸でもありますね。
橘と秦氏、そして蘇我氏……調べるほどに謎が深まっております。
橘をめぐる古代、次回はタジマモリという人物が求めた『非時香果』の物語と、柑橘としての橘について綴れたらと思っています。
産経新聞さんの2015.11.16配信記事、ムベについてとても詳しく説明されています。 ↓
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最後までお読みくださり、ありがとうございます。
大雨が降ったと思えば猛烈な暑さだったり、なかなかに厳しい天候の日々が続いておりますけれど、みなさまもくれぐれもご無理なさいませぬよう、お健やかにお過ごしくださいませね(´ー`)ノ
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