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古代史随想(1)

(2022年4月の記事の再掲です)

 いらしてくださって、ありがとうございます(´ー`)

 日本の古代史といえば、邪馬台国の謎が話題の筆頭にあげられるでしょうか。もちろん私もその所在地には興味津々ですが、ほかにも気になる人物や時代がありまして。

 そのひとつが、奴奈川姫ぬなかわひめのこと。

 出雲の八千矛やちほこが求婚したこしの国の女性(王だった?)、と古事記に書かれていますが、日本書紀には登場しない人物です。古代の越という国の姿とともに、新潟県糸魚川地方を中心に産出したヒスイをめぐる謎も含めて、とても気になる人物なのです。

 もうひとつ気になるのは、その八千矛が治めていた出雲という国のこと。

 荒神谷こうじんだに遺跡や加茂岩倉遺跡などが発見されるまで、古事記が記す『出雲』という国の出来事は、長らく「架空の物語」と考えられていました。これらの遺跡から銅剣や銅鐸が大量に出土し、それらは整然と向きなどを揃えて埋められていたこと、また、一部の銅剣や銅鐸には☓印が付けられていたことなど、そこに大きな勢力はあったと思われるものの、出雲王国の姿は、まだ多くの謎があるようです。
 
 古代の資料本をさまざま読んでみて思うのは、海の重要性です。島国日本にやってきた人々は、どこから、そして何をこの国にもたらしたのか。
 長野正孝さんの著作『古代史の謎は海路で解ける』(PHP文庫)、『古代史の謎は「鉄」で解ける』(PHP新書)などを読むと、出雲や丹後、敦賀などの古代海洋王国の姿が浮かび上がってきます。さらには伴とし子さんの著作『ヤマト政権誕生と大丹波王国』(新人物往来社)、『卑弥呼の真実に迫る 京都府丹後に謎解きの鍵』(明窓出版)などからは、古代丹波王国の姿がまざまざと立ち上がり。
 個人的には古事記が記す「出雲」という国は、現在の島根県のみを指すのではなく、日本海側の出雲から丹波、若狭、敦賀、石川・新潟方面までを含むゆるやかな連合体だったのでは、と思っています。そして、出雲の国譲りの物語には、それら連合体が大和から駆逐されたことに加えて、蘇我氏の姿をも落とし込んでいるのでは、と思えてならぬのです。

 そして、もっとも魅かれているのが、この蘇我氏のことです。

 日本書紀では物部守屋もののべのもりやを殺し、崇峻すしゅん天皇を殺し、聖徳太子(厩戸皇子)の子の山背大兄やましろおおえを殺し……とさんざんな描かれ方をしている一族ですが、この「蘇我氏という豪族」は存在しなかった。彼らは王に仕えた豪族などではなく、ある時期においては「王であり、しかも日本の古代から続くもっとも古く正統とされる一族であった」と考えています。

 こう考えるに至ったきっかけは、日本書紀の記述に胡散臭さを感じたからでして。手許にある日本書紀の現代語訳は、講談社学術文庫・宇治谷孟氏の第63刷ですが、あるとき神武天皇から持統天皇までざーっと目を通したときに、妙だなと首をひねる場面がいくつもあったのです。

 たとえば、蘇我入鹿が殺される場面などは、迫真の描写で記されています。「やあ」とかけ声もろとも物陰から躍り出て、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた……なんて、まるで小説のよう。
 あるいは入鹿に滅ぼされる山背大兄や、即位前の天智天皇に滅ぼされる蘇我倉山田麻呂は、理不尽に迫る死に臨みながら、怨み言でなく「民を思い、王を思う心」を吐露するのです。こういう場面は、あまりに「饒舌すぎる」と思えます。嘘を吐くとき、人は饒舌になると申しますよね……。
 書き手の、つい筆が滑ってしまうような、いえ、あえて「こう書いてやろう」という意図を感じてしまうのですが、林順治さんの『天武天皇の正体』(えにし書房)には、作家の坂口安吾氏の言葉が紹介されています。坂口安吾氏は「蘇我蝦夷が大王であった」と考えていたようで、日本書紀の記述について、

『入鹿・蝦夷が殺される皇極天皇の4年間だけでなく、その前代の欽明天皇の後期ごろから何千語あるのか何万語あるのか知らないが、夥しく言葉を費やして、なんとまア狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね。
 文士の私がとても自分の力では思いつくことができないような、いろんな雑多な転変(原文まま)地異、妖しげな前兆の数々、悪魔的な予言の匂う謡の数々、血の匂いかね。薄笑いのかげかね。すべてそれはヒステリイ的……だね。それらの文字にハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、でているようだ。
 なんというめざましい対照だろう。法王帝説の無感情な事実の記述は静かだね。冷たく清潔で美しいや。それが事実というものの本体が放つ光なんだ。書記(原文まま)にはそういう清潔な、本体的な光はないね。なぜこんなに慌ただしいのだろうね。……ヒステリイ的なワケはなんだろう。それは事実をマンチャクしているということさ。(『天武天皇の正体』林順治・えにし書房より抜粋)』

 などと語ったと。これを読んで、まさに、とうなずいたものでした。ちなみに林順治氏は、本書タイトル副題にあるように「古人大兄=大海人=天武」説を唱えておられます。

 また、蘇我氏や関連の氏族に対する蔑称も気になりまして。

 蘇我氏のゴッドマザーともいうべき蘇我稲目そがのいなめの娘・堅塩姫きたしひめ欽明きんめい天皇のきさきとなった彼女は、用明天皇(聖徳太子の父)や推古天皇の母ですが、その名の「堅塩きたし」という言葉は、日本書紀・孝徳天皇の条に「塩を忌み、堅塩と呼ぶ」という記述がでてくるように、「汚い塩め」くらいの蔑称だと思われます。

 馬子うまこ蝦夷えみし(上宮聖徳法王帝説では「毛人」表記)、入鹿いるかという蘇我氏三代の呼称も、人の名前としては違和感があります。(イルカという生き物は神の使いだとか神聖な生き物で、尊称であろうという説もありますが、この場合、人外で揃えたように思えますし、馬子の父の稲目いなめも猪目の転訛かも? などと思ったり)

 ほかにも蘇我氏に所縁があるといわれる葛城氏の大臣に蟻という人物があれば、その娘はハエ姫だったり。蜂子皇子に蚊屋皇子まででてくると、動物・昆虫シリーズなのか? と首をひねってしまいます。

 そうした違和感から、日本書紀の記述をもとに、蘇我氏の系図や年表を作ってみたところ、どうやら同一人物なのに名前を変えて、あたかも別人が存在したかのように記されている者があることに気づいたのです。それも、一人だけでなく、何人もがそのように描かれているようで……。

 そうなると、日本書紀は誰が何のために書いたのかということを思わずにはいられず。もちろん、対外的に(唐の皇帝に認められようとして)必要があり、天武天皇が発案、と伝えられる歴史書ではありますが、天武自身がそれほどまでに蘇我氏を貶めたかったのか。なぜ、そこまで蘇我氏を憎んだのかが謎でして。

 あるいは日本書紀を文法や音韻からα群・β群とに分類する研究によれば、大化の改新や馬子・蝦夷・厩戸皇子らが登場する推古・舒明朝などの記述は、のちの追加・修正も考えられるとも申します。……とすれば、誰が、何の意図でどのような手を加えたのか。藤原氏や桓武天皇が、という説もあり、では彼らがなぜ、と。

 この数日、日本書紀(講談社学術文庫版)の蘇我氏関連の記述を読み返し、原文を神代から持統天皇までプリントアウトして気になる箇所を参照したりしていますが、読めば読むほど、書き手の蘇我氏へ向けた根深い悪意を感じております……。そして、いまの時点では、西暦580年頃~日本書紀が編まれた720年頃までの期間が、実際には、崇峻系と聖徳太子系、そして石川麻呂系の、血で血を洗う凄まじい権力闘争の明け暮れがあったのではないか、と考えているのです。崇峻系とは、馬子、蝦夷、入鹿、天智、大友皇子、桓武らであり、聖徳太子系とは、厩戸皇子、山背大兄、当麻皇子、天武、大津、高市、元明、元正、聖武に連なる血族であり、石川麻呂系は孝徳、持統、草壁、文武らではないか、と。
 ……何を言ってるのか、よくわからないですよね^^; でも、日本書紀が、同一人物をいくつもの名前で書き分けているとするならば、こういう結論になってしまって。うまく説明できるか心もとないのですが、「日本書紀のこの記述からこう考えた」というところを、これからすこしずつ記事にしていこうと思います。よろしければゆるりとおつきあくださるとうれしいです<(_ _)>

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 最後までお読みくださり、ありがとうございます<(_ _)>

 パズルが好きです。ジグソーパズルやクロスワード、数独など、ピタリとハマったときの快感がたまらぬのです。
 古代史は、その現場を見ることができぬ以上、正しい答えというものは出ないものですが……日本書紀などごく限られた文献資料を読んで、あれこれ推理していくのはパズルに似て、とても楽しくもあり。
 そしてそれを素材に、古代の物語を紡げたらと思っているのです。

 東京はこのところ雨がちの日々。まるで梅雨のようですけれど。
 みなさまにも佳き日をお過ごしになれますように(´ー`)ノ

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