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ゆるゆる雑記

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 トップ画像、どアップ過ぎてなにがなにやらですけれど^^;
 ご近所スーパーで葛粉をみつけて、「すり流し」を作ってみたのです。上の層は抹茶、下の層はこしあんを、それぞれとろみがつく程度のくずと合わせて重ねました。とろりとしたのど越しが心地よく、これからの季節、よく冷やしていただくのがよさそうです。

 このひと月ほどは、頭がなんだかぼんやりしてしまって。書きかけの記事がたまってばかりのこの頃で、今回も備忘録がわりのまとまりないつぶやきですが、よろしければゆるりとおつきあいくださいませね。

 日本書紀と古事記を中心に、さまざまな資料を読みつづけていますが、最近は万葉集も気になっています。

 『聖徳太子は天皇だった』(渡辺康則:大空出版)という著作は、蘇我と物部の宗教戦争はなく、物部守屋の敗北もなく、蘇我本家は実在せず、王統は【敏達─橘豊日─豊聡耳─天万豊日─天豊財重日足姫】が本来のものとし、聖徳太子とよばれる豊聡耳が天皇(大王)であった、という説をあげておられます。

 著者は、『持統天皇と藤原不比等が日本書紀によって、天武朝以前の歴史を書き換えてきた』という考えをベースに、その改竄に危機感をもった反対勢力が「歴史の修正」を図ろうとした、その現場が『万葉集』である、としています。

 不比等らの捏造した歴史とは。

 西からの東征王権である天智朝を、ヤマトの正統と位置付けるために、天智の出自を修正。さらに聖徳太子の妃だった斉明を、舒明天皇の皇后として、その嫡子に天智天皇を滑り込ませた──。

 という、なかなかにスリリングな説ですけれど。
 著者は、万葉集に収録されている斉明天皇がらみの歌を読み解くことで、日本書紀が描く歴史とは異なる王統を示そうとしているのです。

 著者のこれらの説については、個人的には納得する部分と、そうかなぁと思う部分とがありますけれど、万葉集について漠然と感じていた違和感が、本書を読んで「そういうことか」と膝を打ちまして(謎は深まりましたけれど……)。

 万葉集が読み手に差し出すメッセージ、たとえば斉明天皇と軍王という謎の人物の歌について、著者は以下の三点に気をつけて読むことを教えてくれます。

(1)巻冒頭歌群の時代配列
(2)重出歌
(3)『類聚歌林』引用の左注

 万葉集を学んだ方は、どのように理解して(教えられて)おられるのか存じませんけれど、初めて巻一の一首目から読んだとき、首をひねったものです。

 1首目が雄略天皇、2首目が舒明天皇、3・4首目が孝徳天皇妃の間人皇后が間人老という人物にたてまつらせた歌、5・6首目が軍王という人物の歌で、7首目が皇極天皇の御製。

 雄略天皇がなぜ冒頭歌なのか、どうしてそこから数百年ジャンプして舒明天皇の歌なのか。3・4首目は舒明天皇が狩りに出かけられたときに、中皇命(中西進氏の万葉集・全訳注では「間人皇后」としています)がどうして歌をささげるのか。一巻の5首目という位置に、軍王という伝未詳の人物の歌がなぜとられているのか……。

 そして万葉集には、同じ歌が複数回にわたって採録されてもいます。
 同じ歌なのに別作者のものとして、あるいは別の時代の歌として登場する。著者はこれを非常に作為的なサインであるとしています。

 さらに『類聚歌林』という、現存していない謎の書物を根拠とする歌の解説が執拗に繰り返されていることも、著者は万葉集編者からのメッセージだと。
 
 歌集を編むなら、誰のどんな歌を、どのような順番で掲載するかは、とても大切な要素だと思うのです。

 百人一首の『歌織物』説、ご存じの方もおいででしょう。
 藤原定家が編んだ百人一首には、「その人物ならもっとすばらしい他の歌があったのに、どうしてこの歌を選んだのか」と疑問に感じる歌が収録されています。
 でもそれは、定家のあえての企みのため、という林直道氏の説ですが、それぞれの歌に含まれる共通語をもとに百首を上下左右に並べていくと、ちょうどタテ10首、ヨコ10首におさまり、含まれる語(山、川、紅葉、雲、花、桜、菊、鳥、鹿、瀬、滝、松など)を絵に置き換えると、一枚の絵が浮かび上がるというものです。詳しくはwikiの『歌織物説』などをご覧いただくとして……。

 万葉集も、配列や作歌者、詞書などを注意深く見ていくことで、古代史の記紀には記されていない何かが見えてくるのではないか……と、いまさらながら感じているこの頃なのでした。

 たとえば藤原鎌足の作とされる
「われはもや安見児やすみこたり皆人みなひと得難えかてにすといふ安見児得たり」という歌。

「私は、ああ安見児を手に入れることができました。宮廷の人々が皆思いをかけて遂げられなかった安見児をわがものとしました」という意味だそうで、鎌足が(人々に人気だった)采女を妻とした(天智天皇から賜った)ときに作った歌という詞書が添えられています。

 でも私、安見児は采女なんかじゃないと思うのですよ。
 ヤスミコのヤスミは、八隅知之(やすみしし)という、大君(天皇)につく言葉のヤスミのことで、天皇の妃あるいは皇女を暗示しているのではないかと思うのです。

 このあたり、天智が鎌足に妃を下賜したという話もあり、不比等は天武の妃だった五百重を自分の妻にしていますし、鎌足も不比等も「臣下」であったなら、臣下が天皇の妃を我がものとすることは許されないはずで、彼らの関係には何かただならぬものがあると思えてならぬのです。そして、不比等が持統のもとで頭角をあらわしていくことも、彼女との間に血縁があった可能性もあり得るのかも、などと妄想は広がっていくのでした。

 妄想といえば、先日ふとジョサイアという言葉が頭に浮かんで意味を調べたら、ジョサイア(ヨシア)という紀元前600年ごろの人物に行き当たり。
 彼はヤハウェ信仰以外の宗教信者の弾圧をしていて、その神々の像を偶像と侮蔑して破壊したのだそうです。そしてメギドの戦いでエジプト軍の矢をうけて死ぬのですが。
 この記述を読んで、これは物部守屋だなぁと思いましてね。
 日本書紀によれば、八百万の神々を祀る物部氏として守屋は「仏教を取り入れようとする蘇我氏」と対立し、仏像を焼いたり堀に投げ入れたりしますし、そんな守屋の最期はトミノイチイに矢で射抜かれて亡くなる、というものでした。
 ヨシアのユダ王国はまもなく滅亡しますが、物部守屋の死後、息子は諏訪に逃げて、守矢家(矢ですな)の養子になったという話もあり。
 天武天皇がのちに、信濃にも都をつくろうと計画したことにつながりはないのかなぁと思ったり。

 守屋といえば、蘇我氏との戦で「稲を積み上げて」防戦したという記述があるのですよ。この呪法ともされる戦い方は、垂仁天皇のときの狭穂彦の反乱のときとおなじで。
 狭穂彦は、垂仁天皇の妃だった妹の狭穂姫に、「兄の私と天皇とどちらが大切か」と迫り、兄だと応じた妹姫に天皇の暗殺を持ちかけます。結局、妹姫は夫を殺すことはできませでしたが、兄とともに最期をともにしています。
 この狭穂彦の物語、おなじ戦い方をした守屋に投影されている(暗示)とすると、守屋の妹の夫は蘇我馬子なのですよ。
 妹に「兄の私と馬子とどちらが愛しいか」と迫っていたなら、馬子は大王だった可能性も。そして、この時期の兄と妹といえば、穴穂部皇子と橘豊日皇子(用明)、穴穂部間人皇女(用明妃)、額田部皇女(推古・豊御食炊屋姫)などがいて。
 時代を遡ると、神武天皇と戦った長髄彦も、妹を饒速日に嫁がせていますが、この妹の名が三炊屋姫で、額田部皇女(推古・豊御食炊屋姫)とそっくり。
 兄と妹とその夫。この三つ巴が日本書紀で繰り返されているのは、何を暗示しているのだろうと思うのです。稲の防戦は根臣もでしたかね。
 蘇我馬子と争った物部守屋は、穴穂部皇子だったのかも。馬子とされる人物は、実は敏達か用明か崇峻か、いずれかの名で語られる大王で、その妃は推古(イコール間人)だったり?

 と、ポップコーン脳なのか思考が弾けてしまうのですけれど、いつかこのあたりをきちんと整理して、古代史随想記事でお伝えできたらなと思っております。

・・・・・

 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 当地は台風接近で、そろそろ雨脚が強まる気配。
 どうぞみなさまもご安全にお過ごしくださいませね。
 今日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ

 
 

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