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「ディズニー好き」と「Dオタ」の線引きはどこなのか?

ねぇねぇ、○○さんってさ、ディズニー好きなんでしょ?私も好きなの!

そう問われた瞬間、相互に心理戦が始まるというのはDオタあるあるだろう。

というのも、一般に「ディズニー好き」と言ってもその様相や熱度は千差万別で、いくら同じ「ディズニー好き」とはいえ互いの趣向が一致することは稀だからだ。
また、そもそも一般に「ディズニーが嫌い」という人の方が珍しいため、「ディズニー好き」という表現では対象となる人間の幅が広い。だからこそ、「Dオタ」という言葉には、「ディズニー好き」の"中に"含まれる集合として何となくの共通認識があるのだ。

だからこそ、同じ「ディズニー好き」でも、会話の中で「この人は"Dオタ"というわけではないのだな」という感覚を受けるのも珍しくはない。しかし、だからと言ってそこにDオタ界隈で共有している明確な基準があるわけでもない。

そうすると、この主観的感覚から来る線引きはどこから来ているのだろうか?今回は、考えゆる原因を考察して、言語化していきたいと思う。


"証"としてのDオタ用語

さて一般によくある線引きというのは、Dオタ界隈のみで使われる用語ーすなわちジャーゴンとしてのDオタ用語の使用の有無というものがある。

冒頭で述べた「心理戦」の中には、Dオタ用語を徐々に小出しにしていって、それが通じるかどうかで相手がDオタかを判断するという現象も広く確認されている。

しかしながら、Dオタ用語の使用・理解というのが、果たしてDオタであるという十分条件になり得るのだろうか?

一般にDオタ用語が広く用いられているのはX等のインターネット上だ。というのも、文章量を極力少なくしたいSNSユーザーにとって、東京ディズニーリゾートに関わるあらゆる用語というのは単純に長すぎる。

例えば以下の文章。

「ビッグバンドビートの最終公演回、システム調整による中止になった」

これをDオタ用語を使った文章にすると、

「Bラス、シス調」
といった具合で、大幅に整理することが出来る。

そんなわけで日々Dオタ用語が飛び交うX上のD界隈というのは、殆どの人にとっては怪文書そのものである。しかしながら、分からない用語が飛び交うたびに調べたり、添付画像から用語を推測していくうちに、段々と用語を理解することが出来るようになる。

だからこそ、Dオタ用語のネイティブ化というのは、ある種インターネット上でD界隈に少なからず入り浸った証明にはなる。

しかし、だからこそ奇妙な話でもある。
これは要するに、"ツイ廃"であることが、Dオタとしての十分条件になるという事を意味する。

ご存知東京ディズニーリゾートというのは、千葉県浦安市にある。当然だがインターネットにはない。このなんとも言えない奇妙さ・矛盾を残して、Dオタ用語の使用を「ディズニー好き」と「Dオタ」との線引きだと言い切ることは出来まい。

パークの知識・常識

東京ディズニーリゾートにおける知識や常識の有無が、Dオタである十分条件だとする意見もあるかもしれない。確かに、結局のところ「東京ディズニーリゾート」に詳しくないのなら、熱量は大したことはないという感覚は何となく分かる。

しかし、これについても反論を述べることが出来る。
というのも、D界隈では個人の持つ「知識・常識」というのは多様化し過ぎているのだ。

例えば「ショーパレ」が好きな者にとって、頭の中には常に"Today"のように現在行われているショーパレ及び公演場所が陸海問わず頭の中にインプットされているのかもしれない。それでも、普段何気なく食事をするレストランの詳細なBGSを知っているかどうかは別だ。それが"BGS界隈"では常識だとしても。

同様に、これは所有物についても言うことが出来る。一眼、レジャーシート、ぬいば…。それを持つことが"常識"かどうかは、結局のところ千差万別である。

つまるところ、「Dオタ」としての共通常識など、この界隈には存在しないのだ。


"Dオタである"というアイデンティティ

執筆しながら他の要因も考えてみたが、「よくある線引き」というのは全て上述した2つの要因に類似するものであった。すなわち、絶対的な線引きは存在しないのである。

結局のところ、主観的な線引きというのはある種の防衛反応であると考える。私が"Dオタ"であるために、"Dオタ"という存在は世の中で稀有でなければならない。世間一般でいう「ディズニー好き」という広い範囲に自らが留まると、それは具体性に欠けるのである。

だからこそ、私たちDオタというのは、どこかジャーゴンだとか、パーク知識とかで自らを稀有な存在だと認識したがる。しかし結局のところ、その主観的な線引きで生まれた自己を確立したところで、自身の人生に何がもたらされるのかは、そこまで重大ではないような気がするのである。何故なら、「Dオタである」という自己自体は、趣味の領域を主戦場とするだけで、他のあらゆる人生の分野においては大した効能を果たしてくれない。

ー私はDオタである、だから何だという話である。
ジャーゴンの使用も、知識の獲得も、D界隈という"井の中"のみでは確かに意味を成すが、現実世界という"大海"においては、ただの変人として扱われるのが関の山だ。

だったら、Dオタであること自体に胡坐をかかずに、もう少し"大海"においても通用するような自己を確立しようじゃないか。

だから私はこうして藻掻く、より実用的な具体性を求めてー。

おわり

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