プルシェンコ 『ニジンスキーに捧ぐ』 2004 RN 芸術点オール6,0 Plushenko

前回のセルゲイ・ポルーニンとよく似た境遇のエフゲニー・プルシェンコ。彼は私と同じ1982年に産まれた。

彼を初めて観たのは、2002年のソルトレイクシティオリンピック。何か迷いを振り払う様に、氷上で必死に踊り狂う金髪の少年に、目が釘付けになった。

当時の私は、ぐうたら短大生で、就職も決まっていなかったけど、実家暮らしだし何とかなるっしょ。氷河期だし仕方ねー。なんて思ってた。

彼の生い立ちや、当時置かれていた状況に関して、何の予備知識もなかったけど、彼が闘ってきた19年と、私が親の保護下でぬくぬくフワフワと生きてきた19年が、全く密度の違うものである事を、思い知らされた感じがして、どうしようもなく、恥ずかしく情けなくなった。

後で分かった事ですが、私が観たのはフリーの演技で、プルシェンコには同国のアレクセイ・ヤグディンという、ものすごいライバルが居て、常に二人だけ異次元の優勝争いをしていた。オリンピックもどちらかが金メダルと言われていたけれど、プルシェンコはショートで大崩れしてしまい、余程のドンデン返しがない限り、優勝は無いとみられていた。

結局、このオリンピックはヤグディンが優勝。彼の演技はショート・フリー共にパーフェクト。王者に相応しいものでした。

それから再びプルシェンコを観るのは、次のトリノ五輪だったのですが、ここで彼は圧勝するんですよね。日本のアナウンサーに「表彰式というよりも戴冠式」と言わせるほどの、圧倒的大差で。

でもその時、既に身体はボロボロだった。膝の半月板の負傷に鼠径ヘルニア。度重なる怪我と手術…。神様、もう少しだけ時間を下さい。彼がベストな演技が出来る様に…まだ20代ではないですか!と思わずに居られなかった。

ルール改悪に異議を唱える意味も込めて、休養から復帰し、出場したバンクーバー五輪でも身体の痛みがあり、四回転を決めたものの銀メダルに終わる…。

四年後のソチ五輪では、背中の激痛で途中棄権。何と過去の手術で背中に入れたボルトが折れていたそうな。宇宙空間でも耐えられる、とお墨付きだったらしいのですが、どれだけ過酷な練習をしてきたのか。そのまま滑って居たら、命の危険すらあった。棄権は誰も責められない。誰よりも、彼自身が祖国ロシア開催のオリンピックで滑る事を望んでいたのだから。

そんな彼の演技で一番素晴らしいと思うのがこちら。2004年ロシアナショナル「ニジンスキーに捧ぐ」ニジンスキーとは伝説のバレエダンサー。セルゲイ・ポルーニンは現代に蘇ったニジンスキーとも言われています。

ニジンスキーが演じたバレエの振り付け、ポーズを、散りばめた芸術的なプログラム。バレエの天才とフィギュアの天才が、時代を超えてひとつに重なる様でゾクゾクする美しさです。

この演技の芸術点で、全てのジャッジが、当時の採点方法で満点に当たる6.0を出しました。現代の採点方法でみると、ソルトレイクでのヤグディンも、このプログラムも、あまり点数は出ないと言われていますが、そんな事はどうでも良い。美しいもの、すごいものは誰が観ても美しいし、すごいのだ。

ニジンスキーもセルゲイやプルシェンコと同じく、大き過ぎる才能に悩み苦しみ、最期は狂気の淵に堕ちてしまった人物です。天才を理解できるのも、演じられるのも天才だけ。

このプログラムを演じるプルシェンコは、この世では無いどこか別の世界にいる様で、これを演じているのは、本当に生身の人間なのか?とすら思わせる気迫を感じます。

彼は長くフィギュアの皇帝と呼ばれ、その意思は、ロシア国内はもちろん、日本の羽生結弦選手にも引き継がれています。現在は自身の名前を冠にしたアカデミーも設立して、後輩の育成に取り組んでいる。

彼がこれからもフィギュアを愛し続けられます様に。それからくれぐれも身体を大事に!と願わずにいられない。彼はよく後輩達に「ステイ、ヘルシー」という言葉をかけていて、とても温かくて優しい言葉なんですが、当の本人が一番出来てない。いつも手術からの練習再開が早過ぎるし、つい最近も首を痛めたらしい。全く、それあなたが言いますか?オブ・ザ・イヤーだ。
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