見出し画像

人は本当に実用性を求めてうごくのか

「鑑賞用の植物を育てることと食用の植物を育てることに違いはあるか?」小石川植物園でもらったギンナンを調理しながら考えた。
イチョウは紅葉も綺麗だし、実を食べることもできる。
『イギリス庭園の文化史』という本に、イングリッシュガーデンは鑑賞用の植物を植える美的な側面と、食用の植物を植える実用的な側面の両方を備える庭であると書いてある。

なるほどイチョウは両方を持っているエライ植物だなと考えた。
だが、庭で食べられる植物を育てることを実用的だと素朴に考えていいのだろうか。

そして冒頭の疑問にたどり着いた。
「鑑賞用の植物を育てることと食用の植物を育てることに違いはあるだろうか?」

そもそも、まず「庭で、見る目的の植物を育てる」というのは本当に実用的ではないのだろうか。
街を歩くとどうだろう。ところどころに花壇がある。
意識的に「あ、花だ!」と感じることはないかもしれない。けれど私たちは知らずのうちにそれを”見て”いる。
もし花が全部なくなったら?
人は花を見なくても本当に生きていけるだろうか?
そう考えていくと、花屋という商売が今後なくなるということは想像できないし、どんな状況下にあっても花を植えようとする人はいるだろうと想像できる。
花を植えることは、実用性は無いのかもしれないが、生活の中に無いことはもはや考えられない。どうしても人は”つい植えてしまう”のだろう。

それでは「庭で食べる目的の植物を育てる」というのは本当に実用的だろうか。
スーパーに行けば野菜もハーブも売っている。オーガニックなどを選ばなければ高い値段でもない。それでも、自分で育てる。それは本当に実用的か?
たしかにベランダですぐに収穫できるのは便利かもしれない。けれど、買ってきて・環境を整えて・育てるという手間を考えると、実用性からは遠い。
もしかしたら飢饉や戦乱の場所・時代に生きている・生きていた人にとっては植物を「食べられる」ということは実用的だと言えるかもしれない。それがなければ本当に食べるものがないのかもしれないから。
けれど、私たちは食べ物に困ることもなく平和な場所に生きている。

だから私たちにとって、鑑賞用の植物を育てることと食用の植物を育てることは「しなくても大丈夫だけどついやってしまう」という意味において同じである。

話は飛んでしまうけど、日常生活はそういう〝ついやってしまうこと″であふれているのではないか。(本当はそうしなくてもいいのに)お菓子をつくる・食べる、部屋をかざる、ファッショナブルな服を買う、美容の手間をかける、小説を読む、ラジオを聴く、ドラマを観る…。

なぜ私たちはこんな風に、”しなくてもいいことをついやってしまう”のだろうか。

先日観た映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』で、ゴッホが「人生は種まきの時期で、収穫のときではない」と言っていた。
”何かを得よう”とするとき、私たちの頭はそれでいっぱいになる。
そしてこの社会で持っていて”意味のあるもの”が欲しくなる。”意味のなさげなもの”は目に入らない。何も得られなかったときは、その時間は無駄だったと考える。
一方生きていくことを”種まき”だととらえるのならば、そこから自分が何を得るか?ということではなくて、自分は何の種を植えることができるか?と考える。もしかしたらすぐには実にならないかもしれない。けれどこれをしたら、もっとよくなるのでは?もっとおもしろくなるのでは?もっと楽しくなるのでは?と考える。そこでは自分が死んだ後に収穫されるような種まきも考えられるだろう。
そういうまだよくわからないものへの希望が”種まき”の原動力である。
”しなくてもいいけどついやってしまう”原動力とは、これと同じじゃないだろうか。

自分の庭で植物を育てることは、たとえ見るにしろ食べるにしろ両方しなくてもいいことだから、私の庭は”意味のない庭”だ。
事実、今までは庭をもたなくても生きてきた。
だけど”意味のない庭”をつくることは私の生活をもっと良くしてくれるのではないかと思った。いや、そんなことすら思いもしなかったかもしれない。それがどんな風に良くなるのか・何かを得られるのか、そんなことはわからなかった。だけど気づいたら、私は苗を買い、庭をつくった。 

私たちはつい、考える時や行動する時に”実用性”という言葉を使ってしまいがちだ。
しかし自分の行動に少し問いかけてみたい。
「私は本当に、実用性を求めてそれをしたいのだろうか?」

ギンナンの殻を剥きながら、私はこれからも”意味のない庭”を一生懸命育てていきたいと考えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?