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エスの旋律(6) ここにいるから

 窓から見えるのは、桜の若葉。
 花が散ってしまったからという理由で残念がられている、青い若葉。
 彼女はその、桜の若葉みたいな人だった。
 だけど自分は真実を知っている。
 その青さだっていつかは衰え、今以上に誰にも愛されない結末を迎えるからこそ、眩しいのだと。
 そんな風に感じていたかった。
 自分だけの特別なものにしたかった。
 最愛の彼女を。

 そんな風につづられていた天野椎菜の想いを、周りの人は誰も信じてくれなかったという。
 女子校時代の下級生が好きなんていうのは、昔の少女小説でいうところの「エス」だ。
 つまり思春期の少女の遊びであって、男女の恋愛の代わりでしかない。
 そんな感情に、本物も何もありゃしないと。

「『大人になったらもう一度、好きだった彼女に逢いたかった。今でも君が好きだと言いたかった』なんて手紙を……死ぬ前、遺書の他に送ってくれてた。ボクだけに」
 あたしは何を苦しんでいるのだろう。
 ほとんど衝動的に、サナちゃんと住んでいた家を飛び出してしまってから、あたしはセナのままではいられなくなった。
 ……いや、そうじゃない。
 本当に……ヒロちゃんや藍里ちゃんに言ったとおりだ。
 何年も前から、自分自身を抑え込むのが辛くなってしまったのだろう。
 過労自殺で亡くなった椎菜さんの孤独が、まるで自分のことのように思える。
 でも椎菜さんは、あたしよりずっと優しい人だ。
 誰にも本当の気持ちを分かってもらえないでいる状態なのに、最後の最後まで他人の心配をしている。

 運命の人というものは、待っていたら来てくれる王子様のことではありません。
 自分の足で外の世界を歩いて、色々な経験を味わって、見つけるものです。
 あなたが大人になって、本当に好きな人に巡り会えたなら、どうかその人を大切にしてください。
 大切な、大好きなその人を守るという、覚悟を持ってください。
 たとえ相手が女の人でも、一緒に暮らす未来が想像できるのなら、その人はきっとセナちゃんの運命の人です。
 どんなに苦しい、険しい道のりが待っていたとしても、一緒に歩いてくれるでしょう。

 こんな言葉を整えられた字で書き連ねて、ご丁寧にルビまで振ってしまうんだから。
 若いうちに死んでしまうのは、それこそロジアリの椎菜らしくて……どう頑張っても抗えない、運命みたいなものだ。
「どうしようね」

 椎菜さん、どうしようね?
 本当の本当に、女の人……好きになっちゃったね……?

 本当は、眩しいステージへ上がるための踏み台にするはずだった。
 長い間不登校で、テレビ画面にかじりつく日々だったという大地サナは、格好のターゲットでしかなかった。
 横柄で感情的な人間を目にして怯えるようでは、芸能人なんてやってられないのに。
 だからあたしはサナちゃんが好きだった。
 ピュアでまっすぐで、少し不器用なサナちゃんには、伸びしろがないところも好都合だった。
 デビューから三年経っても鳴かず飛ばずという彼女は、たまたまあたしの相方になることになった。
 ワザと歌をヘタクソに歌っているあたしの、最適な引き立て役になってくれた。
 メガネかけててツンデレっぽくて、胸が大きいってだけで、男の気も引けないようなブス。
 その胸が大きいっていうのも、本当はただ太り気味だっていうだけ。
 プレイボーイで有名な、事務所の社長にもほったらかされる。
 あいつは、どこからどう見ても哀れな処女。
 王子様どころか友達にもなりたくない人だった。
 息を切らしてパジャマ姿のあたしを見つけて、こんな大げさなリアクションをとる友達なんて。

「セナ、が、ね……寝取られてる……だと!?」
 大切な人なんてどうせ傷つけるし、許されないからいらないと思っていた。
「セナは、こいつのオムライスの方がいいってわけ!? カレーの目玉焼き乗せじゃなくて!?」
「え? サナ……」
「うちのガスが何ヶ月も止まってるからか!? バッカじゃないの!?」
「サナちゃん」
「自分が弱いからって逃げんなよっ……あたしを守るって言ったじゃん! エスプリでいるっていう約束、破ってんじゃねぇよバカっ!!」
 こんなにボロボロ泣きながら、あたしのことを愛してくれる人はどこにもいないと思っていたのに。
「やだ、サナちゃん……」
「何よ」
「サナちゃんってばマジ、そういうとこだよ」
 胸の底からあたたかい気持ちが湧いてきて、あたしは笑った。
「あの、あのね? 別にそういう関係じゃないけど、オムライスは……おキヨさんが、ヘタクソなの作るんだよ……?」
 笑って、でも涙がこぼれてきて、自分でも余計おかしく思えてきた。

 翌朝、おキヨさんはきっぱりと、ギャラ不払いの件は私に任せてくださいと言った。
「エイプリルフールのドサクサに紛れて、公式サイトにもページを追加しましたしね。天野さんの」
 実は、ここ半年ほどバタバタしていた。
 おキヨさんの芸能事務所に移籍するまで、性的な嫌がらせの代わりにギャラをピンハネされるとか、まるまるひと月分が支払われないないとか、そういう目に遭っていた。
 あたしはまだ売れてない割には珍しく、週刊誌でネタにされているのだ。
 おキヨさんのおかげ、とも言えなくもない。
「わぁ、おキヨさんが普通のおじさんになってる」
 彼のスーツ姿は、サナちゃんじゃなくてもイジりたくなるだろう。
「ええ、まぁ……パートタイム女装ですからね……もういいです、普通のおじさんで」
「や、でもサナちゃん……ボクとサナちゃんの歌を編曲してたの、この人だからね?」
 「編曲:巽(たつみ)清隆」の正体が分かると、サナちゃんは途端に頭をペコペコしだした。
 あたしはこういう、どこか抜けてるサナちゃんを見るのが面白くて好きだ。
「サナちゃん……ごめんね。ボクが遅くまで仕事してたから、このことを伝えるのが遅くなって」
「いや、でもこれでまたカレー食べれるんならいいよ」
「あのね、今度は半熟オムレツも作って、カレーの上に乗せてみたいなぁ」
「う、うん! アレはね、素早く作ってでも慌てないっていうとこが大事だからね?」
「そっか、卵の基本ってそういうとこなのか!」
 おだまりそこのバカップル、と野太い声がしたので、あたしとサナちゃんは目をぱちくりさせた。
「セナちゃんが伝えたい言葉って、その程度なのかしら」
 おっとりしていたはずのおじさんの目が鋭く光った。
「決めたのよね。天野椎菜の遺した『エスの旋律』を、自分の力で完成させるって」
 これが、ROSY ARIAのおキヨさんだ。
 彼がバンドのボーカルとして選んで、椎菜という役名をくれたのだから、その仕事はまっとうしなきゃいけない。
 コピーされた手書きの五線譜を渡されたあたしは、隅から隅までくまなく読んだ。
「あれ? こんな純粋な歌してたっけ」
「そうよ。クサいでしょ? あまりにクサいし、レズの詞なんて無理よ。男の自分じゃ歌えなくて悔しいから、曲を書きたくなかったの」
 あたしが覚えている、おキヨさんがボーカルをやっていた時と様子が違う。
 メロディーは馴染みがあるが、「君といたい エスになれなくても」なんてフレーズは知らない。
 昔送ってくれた、水色のレターセットで書かれた中身を思い出した。
「感動で泣いちゃ駄目よ。ちゃんと全力で仕事しなさい」
「ボクそんなチョロくないです」
 おキヨさんはハッとしてしばらくしたのち、口元に手を当てて、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうね。あなたは椎菜で、そして天野セナだもの」

 小さな防音室の中で、あたしは息を吸った。
 この間違いをもう一度許してくれるのなら……空と大地のつながる場所で、君と一緒に歩む勇気をください。
 そんなことを願った。

 レコーディングの本番を一発で終わらせ、周りの人をビビらせてしまってから数日後。
 アパートで、部屋着姿のサナちゃんは「ぎょえっ!!」という変な悲鳴を上げていた。
「せ、セナ、見て……再生数が大変なことになってる……!!」
 どうやらロジアリの件で恐れおののいているらしい。
「まぁ〜、結成十年目だか十三年目だかでやっと動画チャンネル作ったしねぇ」
「ちげぇよ! 明らかにあんたのせいだろ!?」
「えっ」
 改めて、再生数の桁を確認する。
「な? これは怖いでしょうよ」
「そうだね。コメント欄でボクにひれ伏しているウサギの数が多すぎて怖い」
「みんなそんなにムラムラしてんのかよ怖い」
「やだぁ、ムラムラしていいのはサナちゃんだけなのにぃ」
 ……あたしたちの普段の会話は、他の人が想像しているよりもずっと馬鹿だ。
「っていうかあたしはウサギか! 百発百中で孕ませられんのかよふざけんな」
「うぅ、駄目。しんどい。嬉しいけど色々思い出して切ない」
「発情期なのはそっちでしょうよ!」
「うぅ〜……君とあんなことやそんなことしたいのに、この世界が許してくれない。こんな世界は漆黒の闇に飲まれればいいのにぃ」
 サナちゃんが引くのは自覚しているのだが、どうもシモ方面のネタを引きずってしまう。
「もうマジやってらんない、ロジアリの厨ニ入れんのやめなさい」
「でもウケるでしょ」
 サナちゃんはしばらく無言だったけど、やがてケタケタ笑い出した。
「セナってば……しょうがない奴だなぁ」
 滞納していたガス料金は、近いうちに払えそうだ。
「本当、今までのことはごめんなさい」
「ごめんなさいで済めばどんだけマシだったか!」
 あたしは苦笑を浮かべるしかなかった。
「そう。だって……サナちゃんは全部見抜くからね。ボクの本当の気持ちを」
「単にあんたが全部喋ってるだけだろ」
「……だから……知ってたんでしょ? 君を見下していたことも」
 うぅ、と、サナちゃんかかすかにうめいた。
「この前はカッとなってたってだけで……見下されたとかそんなこと思ってない」
「……根っこが真面目だね、君は」
「うん。でも才能がなかった。セナを知ってから何年経っても、立場が変わっても、並んで歩けるだけの力がなくて……悔しかった。一番最初の、タレントとそのファンっていう関係から抜けたかった」
 彼女は唇を噛んで、目を伏せながらも続けた。
「コンビ組んだらさ、あんたってば何でもホイホイこなしちゃうんだもの。そんな、子供の頃みたいな神経でいちゃダメなんだって思い知らされた。いっぱい辛い思いして……それで芸能界降りたら仕事クビにされて、もっと苦しくなって……どうしようもなかった」
「うん。知ってた」
「あたしがなりたいのは『エス』じゃない。もちろん、『アイドルのエスプリ』でもないのに」
 サナちゃんの瞳には涙がにじんでいた。
 昔の自分だったら、こんな子なんて蹴っ飛ばしてただろうに、どうにもかなわない。
「それも知ってたよ。こんな可愛い子にキスされて、家出してたのに結局見つかって……それで、スルーできるわけないじゃない」
 本当はすごくキスしたかった。
 初めてサナちゃんにキスされた時みたいなのを、自分でやりたかった。
 ソーシャルディスタンスもクソもねぇんだな、と怒鳴られるのがすぐに想像できたとしても。
「うん分かった」
 そう言うとサナちゃんは顔を赤くして、メガネを外したのちに拳で涙を拭くのだった。
「分かったから、カミングアウトは死んでもやらないで」
「…………は?」
 あたしは真顔になってしまった。
「ゴミを見るような目だな」
「いや、そんなつもりじゃないけど……何でいけないの?」
「いい? 天野セナ。よく聞きなさい」
「はい」
「芸能界でカミングアウトしたレズカップルは、すぐ破局するの!!」
 何だそれ、何だその謎すぎるジンクスは。
 せっかくのいい雰囲気が台無しじゃないか。
「あのね、ぐーぐる先生にも聞きなさい?」
「いや、サナちゃん……聞いたらもう、そういう人らいたんだなぁって」
「その後!! 肝心なのはその後よ! あいつも、あいつもあいつも、やれ結婚式だエッセイだって大騒ぎでカミングアウトしたら! そっからいくらも経たないでズタズタになってんの!!」
 サナちゃん……サナちゃんが修造ばりに熱い……!
「君、リアルガチでマジすぎなのでは」
「決まってんでしょ。そういう人ら本業も多分減ってんだからね、それはダメだろ」
 このジンクス……あまりにアレなので、誰がどうだとは言わないが。
 改めてよくよく調べてみることにしたら、思わずうわぁと声が漏れてしまった。
「和代さんはかわいそすぎでは」
「な? その名前出すのマジでエグいからやめような?」
「そうね……」
 周囲に祝福されたら、その関係が壊れてしまう……か。
 あたしにそのジンクスを壊せる力はあるだろうか。
 まだよく分からない。
「それでも……やっぱりサナちゃんとドレス着て、一緒に並んで歩きたい。色んな人に見せびらかしたい。白くて、フワフワしてて、フリフリしてて、小さくて可愛いネモフィラのモチーフのついたドレ……あぁそっか!!」
「えっ!?」
「ライブやろう!!」
「はぁ!?」
「一日!! 一公演だけでいいから一緒に歌って!!」
 そう、エスプリには歌がある。
 大きな会場でのライブはとうとう経験できなかったけど、それは過去の話だからもういいのだ。
 あたしは今よりもっと有名になって、夢みたいな舞台で全力で踊って、サナちゃんと歌いたい。
「あんた……何がどうしてそうなった。この状況でライブかよ」
「十年かかってもいいからぁ」
「てかそもそも、あたしもうアイドルじゃないし」
「それでもいつか、いつかやろうよぉ。エスプリなんでしょ? 今でもサナちゃんなんでしょ? お願いぃ〜〜っ!」
 あたしは相方の手を取ってせがんだ。
「……本当、しょうがないなぁ」
 サナちゃんは少し困って、でも嬉しそうに微笑んだ。