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エスの旋律(5) エスの旋律

 私はきっと、ほのかに暗い道の中を歩いている人間なのだろうと思う出来事があった。
 父の友人、そして、私の友人でもある男性の、告別式に出た時だ。
 確かあの頃の自分はまだ垢抜けない、制服姿だっただったはずだ。
 参列者の多くが年上のお兄さんとかおじさんで、とても浮いていたかもしれない。

 その、亡くなった彼は年齢の割に顔が幼かった。
 しかも女っぽくて、私はそれを「お姉ちゃん」とからかって遊んでいたくらいだ。
 今考えればなかなかひどいものだけど、それでも彼は苦笑いを浮かべながら「お兄さんって呼んでくれないかな」と返していた。
 その喋り口をとうとう不思議に思っていたのだけど、その理由はとうとう聞けなかった。
 だから代わりに、清隆さんという人に聞いてみたことがある。
 どうしてお姉ちゃんは、清隆さんと違って女言葉を喋らないの、と。
「そんな小細工を使わなくたって、彼は可愛い子なのよ」
 と、清隆さんは穏やかな声で答えた。
 この、清隆さんがのちに「おキヨ」として有名になる……ROSY ARIAというバンドの、作曲とシンセを担当する男性である。

 お姉ちゃん、私は今、清隆さんの仕事を手伝っているんだ。
 正直、とても辛い。
 あなただったら……カメラの前に座っている、「椎菜」のことをどう思う?
 だってこの場所で、漆黒の闇に飲まれている椎菜っていうのは……天野なのに、天野じゃないのだ。

「オーケーオーケー。ギャルズ、どうもありがとう」
 清隆さんのメイクは、いつもより気合が入っていた。
 ここ数カ月の情勢には参っていて、それを何とか乗り切ろうとしてるのだろうか。
 私を含めたスタッフ陣も、撮影が終わったのにため息を吐くのがやっとだ。
 うちのレベルでこれだ、もっとマイナーなバンドは悲鳴を上げる元気すらないだろう。
「うぅ……思っていたよりまともな動画でよかったぁ〜〜」
 傍らで、ロジアリのダンボールベーシスト(ふざけているようだが、ベースがダンボールでできているのでマジである)がヘナヘナとへたり込んだ。
「おぉ。体力のない豚野郎だ」
 そのガーター付きのニーハイに、黒いフリルのついたシャツも相成って、椎菜のセリフは暴力的でコント的である。
「このままでは藍里にダンボール製ベースの座を取られるぞ」
「うぐっ!」
 ユウキが丁度四つん這いの格好でヘナヘナしていたので、椎菜はその上に乗っかって遊び始めた。
「おい藍里」
 いつもの天野だったらボーイッシュで可憐な声で「藍里ちゃん」と呼んでくれるのに……今はこの有様だ。
「薔薇のように美しい衣装をまとってくれるのなら、僕はベースの座を君に譲ってもいい」
「えぇ? そりゃあ勝手だな……っていうか、その薔薇のような衣装って? まさかそいつの、フリフリでゆめかわなパステルピンクじゃないだろうな」
「嫌か」
「嫌です」
 私は真顔で答えた。
 即答だった。
「私は、オッサンの厨ニギャグに付き合えるタイプじゃないぞ」
 ふぅん、とうなずきながら、椎菜はペチペチとユウキの尻を叩く。
 ……ユウキは豚というより観光地の馬だ。
「ううっ。やめてぇえ。ネイビーさんの前でこんな辱(はずかし)めは嫌だぁあ。あとベース取られるのはボクだって嫌だぁあ〜〜」
 何でネイビーさんばっかりに甘いの、とユウキがベソをかくと、椎菜はしれっと言った。
「レディに優しくするのがフェミニストだと聞いた」
「レディに向かって『性欲に飢えたウサギ』呼ばわりする悪魔のどこがフェミニストですかっ!!」
 自分が外国人だったなら、きっと肩をすくめていただろう。
 この人たちはすごく、ものすごく、アホである。
 お姉ちゃんが残してくれと願ったロジアリとは、こんなものだったのか。
 黒部さんが「黒曜」を名乗った上で加入して、しかもニューハーフになって最初の奥さんと離婚した時も大概だが。
 ここ数年でもっとひどいことになっている……!
 私の大事な椎菜が、椎菜役をやらされてる天野セナが、どっちもかわいそうだ。
 私の知る天野は、ハキハキしてて明るくて、仕事相手が要求するものをすぐに察して、応じることができる。
 何より素直で愛らしい。
 その素直さが、清隆さんたちロジアリに汚されているような気もして、胸の奥が痛む。
「……り、藍里」
 いや、痛めている暇なんかないのか。
「喜ぶがいい。そして他のギャルズから嫉妬の視線を浴びるがいい」
「また嫉妬?」
 いや、実はそんなに妬まれることもないのだが。
「君はついに、美少年であるこの僕の背中を流す権利を獲得した。ベース担当の代わりだ」
 おいおい美少年を自称するのか……
 しかしながら年単位で、その低くキザな声で刷り込まれてしまうと何だか変な気分になるのも事実だ。

 いかにも豪邸らしい、広いバスルームに湯気が広がった。
 彼女の背中をこすりすぎないよう気をつけながら、私は言った。
「天野さぁ……そんな頑なに、麗しの悪魔なんてキャラやらなきゃいいじゃん。私、十分すぎるくらいエネルギーを吸い取られているのだが」
 裸の付き合いというのは、普段から顔を合わせている同性相手でも恥ずかしい。
 椎菜は、舞台用の強力なメイク落としとシャンプーのおかげで天野に戻ったはずだった。
 だけどやっぱり、目の奥が死んでいる。
「あのさぁ。私、本物のお姉ちゃ……椎菜と、ボードゲームやったりしてたんだからな。亡くなるまでは本当に、家族みたいに可愛がってくれてたんだから」
 天野とお風呂……ここまでの信頼関係が出来上がるまでずっと我慢していたけど、私はお姉ちゃんとの思い出を、初めて明かした。

 厳格な家に育った彼は、うちの父や清隆さんとのバンド活動が本当に楽しみだったそうだ。
 やれ打ち合わせだの何だのと嘘をついてはスーツを脱いで、演奏の練習中でも華やかなメイクをしていた。
 遊びでボンデージを着てみたらえらくカッコよくて似合ったものだから、椎菜のライブ衣装として定着してしまった。
 あの素材って本当は、夏は暑くて冬は寒い代物なのに。
 でも……
 私は、天野セナが演じる前の、本物の椎菜の歌声を思い出せないでいる。
 パンドラの箱にしまわれているみたいで。

「天野はやっぱり、天野でしかないんだからね」
 背中にお湯をかけるが、天野は口を開かない。
 私は声が震えた。
「こんなこと、私が言うのもアレだけど。清隆さんには気をつけてよ……あの人本当はすごく怖いんだ。『アタシは、可愛くて不幸せな子を放っておけない』って」

 あんな窮屈そうな服を着せられ、大勢の前で歌わされるなんて。
 自らの背に重くのしかかる欲望も、絶望も、生まれた時から持っていた演技の才能も、何もかもを『椎菜』の中に押し込められてしまうだなんて最高じゃない。
 でも足りないの。
 その身を、心を、もっと蹂躙(じゅうりん)したいの。
 はらわたをグチャグチャにされ、泣き叫ぶように歌うその声が欲しいのよ。
 あの子にはもっと不幸でいてもらわなきゃ。

 清隆さんは歪んだ笑みを浮かべて、以前そう話したことがあるのだ。
 素顔の天野と一緒になってお風呂に浸かったが、いよいよ心配になってきた。
「天野は嫌じゃないの? あのおじさんに何年も、まるで精神が病んでるかみたいな扱いされるなんて」
 天野は足先をじっと見つめたのち、
「……君は、ボクがかわいそうだとでも?」
 素直で可愛い声色に、私は心臓を掴まれるような思いをした。
「そんなわけないだろ。ただ私は……」
「あぁボクってばかわいそう」
 天野は、私の言葉を遮った。
「アイドルって、なんてかわいそうな仕事なんだろう」
「え……?」
 そっちがかわいそう、というのは意外な答えにも思えた。
 水着写真を撮られるのも、歌を歌うのも好きで、近年はやっと枕営業の苦しみから抜け出したはずなのに。
「藍里ちゃんの大切な人の力を借りなきゃ、本音も言えないなんて」
 微笑を浮かべる天野だけれど、目の奥は笑っていなかった。
 あの時の清隆さんと同じ空気を感じた。
「ねぇ藍里ちゃん、ボクが……こんな自分を嫌がっているように見える?」
「なっ、天野……?」
 彼女のうつろな瞳に、かすかな光が宿った。
「嫌がるわけないでしょ? だってボクはこんなにかわいそうで、こんなに可愛いんだもの」

 箱の鍵がこじ開けられる音がした。

 かつて、本当に初期のROSY ARIAにだって、それなりのヒット曲があった。
 スポットライトが眩しいから、僕は目を開けられない。
 だけど、そのステージに飛び込むことこそが自分の運命であるから、想い人とは結ばれない。
 結ばれないなら、このきらめきを壊してしまおう。
 僕たちは阿鼻叫喚の中にいる。
 ……『エスの旋律』はおおむね、そんな意味合いの歌詞だった気がする。
 清隆さんはとうとう、この詞はクサいから曲を書きたくないと渋っていたらしい。
 渋って、とうとうギリギリまで渋った末に完成した楽曲は、桜の木の枝を無理矢理へし折るような美しさだと、清隆さんはライナーノーツにつづっている。
 もう、今は売られていないCDの。
 当時の椎菜は……お姉ちゃんは本当に、舞い散る花を愛でる余裕すらなかったという。
 初めてのレコーディングの裏で、会社の仕事に押しつぶされていったのだと。
 そして、『エスの旋律』はまだ仮歌しか録れていないのに、お姉ちゃんは短い遺書を残して逝ってしまった。
 だから私は、その歌声を知るはずもないのだ。
 椎菜と呼ばれていた人間は結局、何者だったのかを。

 リビングで天野の髪を乾かし終わった私は、清隆さんに真実を聞きたいと思ったのだ。
「あらまぁネイビーちゃん。椎菜くんとちょっとイチャイチャできたからって図々しいのね」
 ふざけないでよ、と私は返した。
 藍里という本名ではなく、ギャルズのネイビーとして呼ばれることを、今は望んではいないのだ。
「私は椎菜って呼ばれてた人のこと、本当は全然覚えていないの。告別式に行ったっきりで何もできていないし」
「いいのいいの。エイズで死ぬとかそんな、いかにもな理由じゃないんだし」
 案の定、彼はあんまりなことを言い放った。
「あの子のことは、あなた相手でも話さない。そういう約束だったでしょう。死んだ方の椎菜を追っかけても仕方ないの」
「でも!」
 思っていたよりも、自分の声が大きかった。
 サテンのパジャマに着替える天野をびっくりさせてしまったようだ。
「でも、天野のやってる椎菜と、あの椎菜は別の人だろ!? それなのに同じ名前つけるってさ、結局未練タラタラなんだってことだろ!?」
 清隆さんは渋い顔で、額に手をやった。
「……本当、壊したいくらい可愛い子だったわ」
 私の目をまともに見ないで、彼は冷蔵庫の脇にかけてあるエプロンを肩にかけた。
 おしゃれな家というのはリビングもダイニングも、キッチンもひとつながりになっているのが定番なもので、それが今は何となく憎い。
「清隆さん……まさかそれだけ?」
 こちらに背中を向けたまま、目の前の清隆さんは何も言わない。
 平然とした様子で、卵を何個か取り出していた。
 あぁ、こんな人と家族ぐるみの付き合いなんて、と泣きそうになったその時だった。
「セナちゃん、ワケあってうちに泊めてるんだけど。付き合う?」
「へっ?」
 つい、変な声が出てきてしまった。
「ただし、あなたはネイビーちゃんでもあるんだからお仕事はサボっちゃ駄目よ。動画編集はあなたが頼りなんだから」
 えらく唐突だった。
 清隆さんと出会って十五年近くは経つはずなのに、彼が天野のことを「セナちゃん」と呼ぶのは初めてだった。
「は……てか、何でそんな」
 卵がリズミカルに割られ、中身がボールに落とされていくのを眺めながら、清隆さんはつぶやいた。
「『エスの旋律』をちゃんと歌ってもらうの。そこにいる、麗しき悪魔にね」
 オムライス用の卵を溶いている彼の横顔は、うっすらとほころんでいるようにも見えた。
「やっぱあの歌はね、アタシじゃ変なオカマになるから無理よ。女の子が歌わなきゃ」
「ええ……いや、あの……うん?」
「初代の椎菜くんは本当に惜しかった。あんな美男子のような歌い方しときながら、妹みたいに可愛い女の子だったのよねぇ」
「…………はぁ!?」

 どうやら私は、とんでもない思い違いをほったらかしにされていたようだった。

 寝床で、天野は腹を抱えて笑っていた。
 赤っ恥にも程がある。
「そこまで笑わなくてもいいだろ! お、お姉ちゃんのことは本当に、女顔の男だって思ってたんだぞ!」
「いやでも、分からなくもないよ……あははっ……まぁねぇ、あんな短い髪にしてて、スカートも履かないんじゃねぇ!」
 ひとしきり転げまわって笑ったのち、天野は懐かしそうに言った。
「そう、椎菜……パパの妹の椎菜さんのこと、ボクも少しだけ思い出した」
「えっ、妹?」
「そう。妹」
 これには心底驚いた。
 私と天野のつながりは、そんなところにも及んでいたなんて。
「藍里ちゃんはキレイなお姉さんみたいだって思ってたみたいだけど、ボクはその逆なのね。いつまでも子供みたいに見えてたから、いっつも呼び捨てにしてた」
「でも、ガチで怒ることはしなかっただろ」
 天野はコクリとうなずいた。
「優しいから……本当のこと、いちいち歌にしなきゃ言えない人だったんだよね」
 そう言うと彼女は、トートバッグからガサガサと何かを探していた。
「椎菜さん、女の人が好きだったんだ」
 天野が手に取ったのは、少し日に焼けた、淡いブルーの封筒。
 あたしは、彼女たちの気持ちを遠巻きにしか見られないでいる自分が悔しいと思った。

 そういえばそうだった。
 徒花(あだばな)の季節はすぐに終わって、空と大地がつながるようなイメージのある、あの可憐な花が咲くのだ。