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忘れるということは悪いことではない。

母に今日何日?昨日の夕飯何?って毎朝聞く。

バカにすると、笑って、父に助け舟を出す。ふぅここで私に「あと何年もつかなぁ」と首を振りながら言う。私に言われても答えは藪の中である。

私は、一昨年ぐらいから何かおかしいと思っていた。ただの老化ならいいが、認知症ではないかと思ったことも何度もある。物忘れは仕方ない。でもかなり喜怒哀楽が激しく、また、今何そんなに怒っていたか忘れる。

もっと早く病院に行っていたらと、いつも思うが、病院行って一度検査してもらったら、などと言おうものなら、口から火が吹き出そうなくらい怒って、その後口をきかない。

私は昨日玄関先で転んで擦りむいた。今入浴時に何これ?と聞く。何これ?って昨日転んだやろ?と言うが、そうなの?で終わってしまった。少しずつ料理を忘れていく。手づくり命だった母はいまは、スーパーの弁当やらを買ってくる。

それでも上の娘の弁当は作る。しかし、ほとんど毎日味付けが同じなのだ。昔はたくさん色んなものを作っていたが、どんどん忘れていく。

クリームコロッケが得意だった。娘の保育園の時のバザーでクリームコロッケを作り売ると、あっという間に売り切れる。ポテトコロッケも私は好きだった。

最近私は、を抜いて硬いものが噛めない。部分入れ歯は、もしも、飲んでしまったら、危ないのでやめようと医師にいわれ、上の歯2本いっぺんになくし、その後下の前歯がグラグラになってまた抜歯した。ついつい体に力が入ると歯を噛み締めてしまう。歯茎が悲鳴をあげる。どうせなら全部抜いて入れ歯にした方がいいのにと、硬い肉を必死で飲み込みながら思う。病院のご飯は不味いが柔らかいので食べやすい。

うちは硬いものばかり出てくる。

噛みきれないものは丸呑みしてしまう。それで死にかけた事数回。今は食パンばかり食べている。まぁ私のことはまだ生きているので良しとしよう。

別に忘れていくことは悪いことではない。

楽観的かもしれないが人間は、忘れないと苦しみの中を生きなければならなくなる。

忘れるというのは、記憶を海馬の奥にしまい込んでしまうことだと考える。どんなに悲しいことがあっても、生きていけるのは、やはり悲しみはタンスの奥に仕舞っているからだ。それでも時々ひょっこり顔を出し今の自分を戒める。


しかし、母は、忘れるものが今なのだ。逆に昔のことをよく話す。私のまだ歩けて輝く女子だったことを楽しげに話す。その後、何でこんなになるとは!と言うが無視する。

今できることをやる。私の自分が嫌いではない。

思いは自由に支えられながらも生きている。それを生かされている。と思う人もいるだろうが、気持ちはそよ風に乗っている。母は、悲しみよ、さよなら とばかりに、よく笑う。大声であばばばば〜。それを聞くと幸せに思う。

昨日のことを、忘れても、今はいい。


この先どうなるかは分からないけれど、歳を重ねていくことが、苦しみにならないことを願う。

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今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。