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我が子が「勉強」ではなく「ゲーム」にハマるわけ

「我が子が勉強をしないでゲームばっかりしている!」

そんな悩みを持つ保護者の方は大勢いると思います。
どうしてこういう現象が起こるのか、国立大学大学院卒のゲームクリエイターである私、朝森久弥が解説しましょう。

理由は大きく分けて3つあります。

理由1.できないから

「下手の横好き」ということわざはあるものの、自分がうまくできないことに夢中になれないのは人として自然な感情です。

世間の人が言う「勉強」は難しいです。たとえば日本の小学校・中学校では1年で約700時間授業を行います。9年間で約6300時間、宿題も含めれば7000時間以上は「勉強」しているでしょう。
ここまでやってようやく義務教育が、つまり現代社会で生きるためのチュートリアルが終わります。この時点で「もう勉強することは何もない!」と言える子は皆無でしょう。難しさにうちのめされて「もう勉強したくない!」と言う子は大勢いそうですが。

とはいえ、7000時間以上も取り組んでいるだけあって、大多数の子は多かれ少なかれいろいろなことがわかるように・できるようになっています。ある一人の子について、小学校に入学したばかりの時と中学校を卒業した時を比較すれば、それは明らかでしょう。
ところが世間の人が「勉強ができる」という場合、周りの同年代の子と比較して成果を出しているかどうかで判断しがちです。ある子が1年前に比べてわかること・できることが増えていたとしても、周りの同年代の子と比較してその量が少なければ「勉強ができない子」とみなされます。こうした判断基準を採用している限り、「勉強ができない子」は必ず一定数生まれるのです。
「勉強ができない」と自覚させられた子が、果たして「勉強」にハマれるでしょうか?

一方、世間の人が言う「ゲーム」、すなわちゲーム機やスマホなどで遊ぶデジタルゲームは、短いものなら数時間、大作と呼ばれているものでも1000時間ほどプレイすれば極めることができます。「勉強」よりもはるかに短い時間で「できた!」と実感できるのです。
難しい「ゲーム」ももちろんありますが、ヒットしているゲームはもれなく、序盤は誰でもクリアできるようになっています。そして、途中で挫折しないように細心の注意を払って徐々に課題(ステージ・クエストなど)の難易度を上げているのです。

しかも、「ゲーム」はクリアするまで何度でもやり直せます。必ず「できた!」という実感を得てから、より難易度が高い課題に挑むことができるのです。つまずいてもお構いなしに新たな課題(授業・宿題など)がやってくる「勉強」に比べてなんと良心的でしょうか。

理由2.ほめてもらえないから

ここで言う「ほめられる」には2つの意味合いがあります。

  • 他者から成果をたたえられる

  • 成果が可視化される

まず、「勉強」ができてもあまりほめてもらえません。周囲から「勉強ができない子」と思われている子はもちろん、「勉強ができる子」と思われている子でさえ、なかなかほめてもらえないのです。"学年1位"のような極めて卓越した称号を得れば話は別ですが、そうすると今度はやっかみを受けるリスクがあります。
「ゲーム」ができて周囲の人からほめられるかは状況によりますが、「勉強」にくらべるとやっかみは少なそうですね。仮に周囲の人からほめてもらえなくても、「ゲーム」自体からほめてもらえます。課題を達成した時に鳴り響くファンファーレや"推し"のキャラからの声援を励みに、多くの子どもたちが「ゲーム」にのめり込んでいくのです。

次に、「勉強」の成果はテストの点数や成績によって可視化されるわけですが、「ゲーム」に比べて頻度が少ないです。学校の定期テストは1年に数回しかないですが、「ゲーム」なら数分遊ぶだけでスコアが表示されるし、毎日のようにレベルアップできます。
「勉強」でも毎日宿題が出てドリルやワークを解くじゃないか、そこで成果が可視化されるじゃないかと思われるかもしれませんね。日本のドリルやワークは未だに紙が主流ですから、解いた後に答え合わせが必要です。答え合わせは結構面倒な作業で、「勉強」が苦手な子は答え合わせ自体が正確にできない傾向があります。答え合わせをした結果たくさんマルが付いたら気分がいいですが、たくさんバツが付いたら「面倒な作業をした上に、自分のできなさを自覚させられる」という二重の苦痛を味わうことになります。

念のため補足すると、答え合わせをして自分ができなかった箇所を可視化するのは、次に取り組むべきことを明らかにして学習効率を高める上でとても有意義な営みです。それはそれとして、答え合わせを人力でするのは面倒ですけどね。

「ゲーム」ではふつう、課題に対する成果の可視化が瞬時に行われます。たとえばRPGで敵を倒したらすぐに経験値が入るし、音ゲーでステージを終えたらすぐにスコアが表示されます。「勉強」でいうところの答え合わせが不要なので、プレイヤーは課題達成に集中することができるのです。
さらに言うと、「ゲーム」はプレイヤーの行動に対する反応がとても細かいです。たとえばRPGで炎属性の敵に水属性の攻撃をしたら通常よりも多くのダメージが与えられれば、プレイヤーは「水属性の攻撃は炎属性の敵に有利」だと学習します。このように、「ゲーム」はプレイヤーの行動をこまめに評価して反応することで、プレイヤーの学習を促進しているのです。

理由3.やらされているから

誰だって、他人にやらされていることよりも、自分がやりたいことをしている方が楽しいものです。

我が子が自ら「勉強したい」と思ってくれればどんなによいか、と考えている保護者の方は多いと思います。
そこで保護者の方は我が子に「勉強すると将来幸せになるよ」みたいなことを言い聞かせます。自立した大人になるには知識や判断力が必要だとか、学歴が高かったり学校歴(どこの学校を卒業したか)の見栄えが良かったりすると就職に有利だとか、いろいろなアプローチがあると思います。
ただ、保護者の方の言い分が正しいとしても、我が子がそれを信じてくれるとは限りません。将来のこと過ぎて実感が湧かないからです。

個人的には、将来への実感が湧かない若いころにどれだけ「勉強」するかで将来の選択肢に差が付くのは理不尽だと思いますが、日本の学校制度が保護者の出資ありきで成り立っている以上、保護者の方は我が子を一刻でも早く「勉強」に向かわせることを強いられています。結果として、我が子に「勉強」を"やらせる"人が後を絶たないのです。それが一概に悪いとは言いませんが、我が子が「勉強」に夢中になるチャンスを失っていることは確かです。そして「勉強」をする理由が「親に言われたから」だけの人は、親からやらされなくなれば「勉強」をしなくなります。

かたや「ゲーム」は、やりたいからやる人が多いです。自分がやりたいと思う限りはいくらでも続けられるのです。裏を返せば、「ゲーム」もやらされているなら楽しくないはずです。仮に高校入試の試験科目が「ゲーム」になったら、その「ゲーム」は受験生にとって嫌悪の対象になるでしょう。

ちなみに、ある種の「ゲーム」には"ギルド"や"クラン"といった、他のプレイヤーとチームを組んで遊ぶシステムを取り入れているものがあります。こうすると「同じ"ギルド"や"クラン"の人と一緒に遊びたい」という、「ゲーム」を続ける理由を作ることができるのです。一度人間関係が構築された場所からはなかなか離脱できないという人の習性を利用しているわけですね。これは部活やサークル、宗教団体などでも同様です。

「勉強」はゲームの一種

ここまで「勉強」にはハマらないが「ゲーム」にはハマる理由を解説してきましたが、本来「勉強」と「ゲーム」は対立する概念ではありません。

どちらも、何らかの課題を達成するという点では同じだからです。

課題の分量や難しさ、世の中での位置づけなどによって、現代の日本では「勉強」は嫌われがちで「ゲーム」は好まれがちというだけに過ぎません。

もっと言うと、何らかの課題を達成する営みなのは「仕事」だってそうですし、「家事」だってそうです。たとえば起業家にとって「仕事」は「ゲーム」のように楽しいのでしょうね。

このように考えると、私は「勉強」という言葉が好きになれません。
勉めて強いる」すなわち「気が進まないことを無理をしてがんばる」という、楽しくない、ハマれない営みであることをアピールする言葉だからです。私は、世の中の人が「勉強」と呼んでいるものは「学習」や「学び」と呼ぶべきだと考えていますし、日頃からそうしています。

私のnoteの記事を読み返してもらえれば、私が徹底して「学習」を「勉強」と呼ぶことを避けているのがご理解いただけると思います。
https://note.com/asamorikdb

私自身は、学習が好きだし得意だと思っています。
両親(ともに非大卒)は「スポーツ」が得意で、幼いころは私もよく「スポーツ」をしていました。ところがスポーツ少年団(野球)に入ろうと思っていた矢先、バッティングセンターでデッドボールを受けて「スポーツ」が嫌いになり、学校図書館に入り浸るようになりました。その結果偶然にも読書、そして学習にハマり、気が付いたら「勉強ができる子」になっていました。
周囲からは「勉強なんて辛いことができて偉いね」みたいなことをよく言われたのですが、私としてはハマった対象がたまたま学習なだけで、無理をしてがんばっているわけではないのに、そんなことを言われるうちに「苦行に耐えることに価値があるのかな」といったことを考えるようになってしまいました。

地方のファーストジェネレーションとして生まれ育った私にとって、「勉強」が自分の人生を切り拓くのに役に立ったことは事実です。しかし、私が好きなのは学習であって「勉強」ではありません。私のような「勉強」で身を立てざるを得ない出自の人間を含めて、学習が好きだと堂々と言える世の中にしたいと思って、教育をライフワークにしようと決心したのが10年前のことでした。

ゲームクリエイターは日夜、ひとりでも多くの人をハマらせるために、先に述べたことを必死に考えてゲームを作っています。
一方、日本の教育制度や学習コンテンツは「勉強」という言葉を言い訳にして、人々を学習にハマらせる努力をおろそかにしているように思えてなりません。

私は教育業界のエキスパートかつゲームクリエイターとして、誰もが楽しく学べるコンテンツを作ることで、「勉強」という言葉を教育業界から消し去りたいです。

私たちがこれまでに作ったゲームはこちら


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