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気を引き締めて心は緩める
本当は今日はイタリア語学習ノートを書こうと思っていて、また、しばらくは新型コロナウイルスの話題を自分の発信するものからは離そうと思っていたところ、昨日の緊急事態宣言の発令がありました。
それで、なにも触れないまま別のことを書くのもなんだか自分が気になる…という気持ちになり、今思うことを書こうと思いたちました。
今私たちは少なからずパニックを起こしている
ミラノでは学校の授業もスカラ座もサッカーも、美術館やその他の催し物もどんどん中止になっています。
— 山田麻美 Asami Yamada (@ciamisop) February 23, 2020
イタリア人、"こわい"という思いに対する反応が早いのです。
根拠を探すより前に一旦ストップ!これがイタリアンスタイル。得体の知れないものに対する反応としては悪くないです。
このツイートから一か月強経った今、「他の国と同じように!補償とセットだ!」というたくさんの叫びが聞こえています。
これを書いた当時、イタリアですぐに補償の話は聞きませんでしたが、"そんなことよりまずは怖いから家にいよう"という人が多かった印象があります。もちろん当時は"風邪でしょう?"というだけの印象を持つ人もいましたし、とにかく全員が今以上にこのウイルスの性質を知らなかったのだからまぁないことではないと思います。
(現在もイタリアの話を近しい人から聞いていると、他国の詳しい状況や補償なども各国の人に聞いてみないとわからないことはまだまだあるなという印象です。)
日頃からお仕事がない人も少なくなく、ある面では思い通りにならないことへの免疫がすこしあるのもあるのかもしれない、また外国人という立場だった自分は不自由(色々な作業をするにも一つ一つその基本を知るところから入ることの繰り返しだから)に慣れていたのもあるかもしれないけれど
「とり急ぎ閉めてくれた」ことで私の中では劇場や伝統芸能をささえるイタリアの人たちへの信頼度が上がった気持ちがしました。(色々あるけれどもともと好意的なほうではある)
その後ロックダウン、罰金による外出制限がはじまりましたね。
突然外出には決まった書式の紙にサインをして歩かなければなくなり、実施されるとされた瞬間から路上ではこまめな職務質問、その紙のフォーマットも何度か変わって、情報の届きにくい人たちには口伝えで…と一部ではなかなかアナログではありましたがなんとか今に至っている印象です。
その頃くらいから、私のところにも大量にイタリアの現状を伝えるもの、強い言葉で医療体制や政府への考えを訴えるビデオ、東洋で使われていると噂の薬への問い合わせ、マスクやその薬を送れないかという内容のメッセージや電話が毎日たくさん届くようになりました。もちろん冷静な人、協力的な人も大勢いましたが。
ちょうど今の日本でのSNSのような感じ。
今日本にいて思うのは、きっと長いこと頑張っている海外の様子をニュースで見ているからこそ「私たちは長期で耐えていけるのかしら」とおもったり、不安に思う人がほとんどなんだろうなということ。大変そうだな、ということ、みんな肌で感じているからこそですよね。
それらの言い分が正しい正しくないかにここでは触れるつもりはありませんが、
・今日本で目にするものも、多くは「パニック」なのだな。(自分のパッと思ったこともそうなのかな?と立ち止まるようになりました)
・たぶん、すくなくとも今この瞬間は、突然全部満足ということにはならない。もし補償が足りない部分があるのであれば、一つずつ届く方法で必要な場所にしかるべき方法で声をかけて整えていくしかないのだな。
…と思います。
正しくこわがろう、と同時に自覚せざるを得ないこともある
目に見えないものと手探りで闘う中、専門家のみなさんがすこしでもわかりやすく伝えてくださるページがあります。
"中の人"たちには心から感謝申し上げます。
今過去の病気の歴史や傾向と対策を専門に勉強し仕事として実践してきた人たちが、その経験とその強みをいかして平穏への糸口を探してくれている。今はまだない"確かなもの"を作ろうとしてくれているのです。
それまでどうやってもちこたえようか。そんなふうに思う人がほとんどですよね。でも、お任せできるプロがいる。嬉しいことです。
やはりここには"会う人を7-8割減らしたい"とあり、ではそれ以上が可能な人が可能な時にそういう風にするのもありなんだろうな。と思い、私はちょうど職業柄仕事も減ってしまい残るわずかな仕事は遠隔でしているものなので、せめてできることとして自分がうつしてしまう・およびうつってしまう可能性をゼロに近づけるられる時はそうする。というつもりでいます。
これは正直なところ
・のぞんでいてもいなくても、7-8割減に届かない人もいるだろうな。
・もっと増えてからそれに対処するよりまだ今の数字に留められるのであれば、その方が効率よく収束に向かうのだろうな。
という考えからでもあります。そして、"少なくとも私はそうする"と、今のところ思っています。
疲れない努力が必要
昨日の宣言発令時に
「楽しみにしていたライブが中止になった。行きたい所に行けない。みんなと会えない。かつての日常は失われました。しかしこうした行動によって、多くの命が確実に救われています。」
とおっしゃったように、日常が失われたことのストレスは小さいものではありません。挙げたものが小手先に選ばれたものにみえますか?私にはどれも日々頑張る人たちの心を支えていたものにみえます。でもこれもまたおっしゃる通り、命のことですから受け入れたいしそうするしかない。
私ごとで恐縮ですが、帰省したら「平和で清潔な環境を満喫」「日本でしかできないことを楽しむ」「日本"でも"仕事を広げていく準備期間」という期待が大きかっただけに、それと今している生活の差はなかなか大きい…けれども日頃から楽しいこと嬉しいことに囲まれていたいという欲が強いため、それらを家の中でできることで全力で補填しようという気持ちに切り替えることにしました。
ではそれらが私に与えてくれていたことはなにか。
"心を緩められる時間"や"ワクワクする気持ち"。
ウイルスも、ピリピリも、お家の外へ。心穏やかにすごすために、ワクワクするために、好きなものを作ったり、好きな歌を歌ったり、お部屋を掃除したり、勉強したり。録音設備を整えたり。
お部屋を掃除することで出てくる懐かしいもの(図工の道具や簡単な楽器など)であそんでみたり。
目につくところには好きな色のものを置いたりと、自分を笑わせてあげること。
それに会いたい人と声をかけあうことも大切だとおもっています。心の中を共有すること、やり方によってはお互いの大きな癒やしになるから。
気と心の違いってなによ
ということで今自分がなにを思っているか、パッと浮かんだのが"気を引き締めて心は緩める"だったわけですが
気と心の両立はできるのか?そもそも2つは別のものなの?違いは?と思い、同じ文字との組み合わせである"気遣い"と"心遣い"をくらべてみました。
気遣いには他者の配慮や他者との場で物事をうまく運ぶための懸念からくる行動という意味合い、また心遣いには気を配ることに加え労りという意味合いがあるようです。
急に生活が変わってしまうことは辛いことだし、逆に変えたいように変えられない状況の人もいて、焦りや不安も浮かんでは消えるけれど、もうこれは紛れもない事実。でも気遣いをしながらも自分や他者の心を労り、やわらかくいることはきっと可能だ。
節目節目に思う。自分の人生の責任をとる人間は自分だけ…。自分のそれだって、完璧にはできない。
— 山田麻美 Asami Yamada (@ciamisop) April 7, 2020
だからこそ人の優しさがこんなにも嬉しいし、自分を突き詰めれば人は一人では生きられないと再確認する。
つらい時こそ自分が自分の心によりそって、どうありたいかどうなりたいか、おぼえておきたい。 pic.twitter.com/YBTcx7aNp8
気を引き締めて、でも心をこまめに緩めて、みんなで安心できるその日まで、笑顔で健全にすごしたいと願っています。
今後は新型コロナウイルスについての発信はプロの方々にお任せして、もとの内容に戻ろうと思います😊
みなさん引き継ぎ、ご自愛ください🍀
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