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理想とは違った現実との折り合いの付け方

車がビュンビュンと走る横で時速20キロの農作業トラクターがゆるりと走っていたり、
お寺を訪ねたらそこの修行僧の方と立ち話になって、「ちょっと待っててね」とさっき山から取ってきたという綺麗なマンサクというお花を頂いたり、
定休日があるのかないのかよく分からないような食堂で店先にいつも通り準備中と掲げられていたので「今日はお休みですかー?」と尋ねたら、どうぞ入ってくださーい、と誰もいない準備中のお店の中でご飯が注文出来たり。

地方で暮らしていると、素朴でのんびりしているなーと感じることがよくあります。
一方で田舎暮らしもある程度経ってきて、ここで暮らす人との関わりが増えてくると、それまで自分が夢描いていた牧歌的な田舎とは違う側面が段々と見えてきます。
そんな夢溢れて飛び込んだ地方での暮らしの中で、理想とは違った現実が見えてきた時、どんな風に感じたのか、そしてどうやって折り合いをつけていったのかというお話しをしたいと思います。

お江戸に仕える地方の構図

東京で暮らしていた時は、自分たちの生活がどんな風に他の地域に支えられているのかという実感を日常的には持てていませんでした。確かにスーパーには日本各地から届けられたお野菜に出会ったりするし、ビルで土地が埋まっている都内で資源といった資源が採れているわけではないというのは考えれば分かるものの、地方と東京の関係性に対して思いを巡らすことはほぼありませんでした。

田舎で暮らし始めて周りの人と話していると、地方には「結局全て地方は東京のために使われる」というマインドを持つ人が一定数いるということに気づき始めます。
例えば私が住む那須塩原市には産業廃棄物処理場が栃木県の中でも一番多く存在し(参考)、130箇所以上に産業廃棄物処理場が建設されてきました(参考)。広大な産業廃棄物処理場に運ばれるゴミはもちろん東京含む県外からのものも多く含まれ(参考)、こういう処理場が飲み水などに影響を与えるのではないかと反対の声を上げる人たちもいます。(参考)

また栃木県は47都道府県の中で太陽光の発電量が17番目に多いのですが(参考)、私が住む那須塩原市や隣町にもメガソーラーがたくさん建設されていて、もちろんここで発電された電力は東京にも運ばれていきます。東京にいた時は太陽光は環境にやさしいエネルギーだからいいのではと思っていましたが、実際にこのメガソーラーが建設される地域の方々は必死に反対の声を上げるなど、決して平和に地域に受け入れられて建設されているわけではありません(参考1参考2) 。

こういった地方と都会の関係性は、どこかで「お江戸に仕える地方」というマインドセットにつながるようです。実際に中央政府から配られる地方交付金に財政も頼っていることからも、現実的に主従関係的が存在しているとも言えるかもしれません。
こういう状況に対して地方のインテリ層の人の中にはー例えその人たち自身もかつては東京で暮らしていたことがあったとしてもー自然保護やサステナビリティという文脈で物事を語りながらも、そこには都会に搾取される惨めな地方という感覚が発言のべースにあるように感じることがあります。

地方に来てみて、田舎にはなんとも形容しがたい東京への複雑な感情があり、それを「ひがみ」と一言で片付けることはできないような、根深い色々な思いと社会経済構造があるようです。

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まるで週刊誌のような

東京では聞き慣れない地方独特の方言でゆっくりとしたテンポでお話しをする人たちに最初の頃こそ新鮮さとあたたかさを感じていましたが、会話を重ねていくうちに、当たり前と言っては当たり前なのですが、穏やかさだけではない、という現実を見させられます。

特に噂話や愚痴の類は、まるでゴシップ週刊誌の記事を埋められそうな位色々な話題でゴロゴロ溢れている印象を受けてしまいます。この辺りは、若い人を中心に閉鎖的な田舎が嫌で出て行くというのが理解できるような、地方独特の人と人とのつながりの濃さ故の一側面とも言えるのでしょうか。
「誰々さんの奥さんは実は二人目の奥さんで、その背景には・・・あんなにニコニコいつもしてるけど裏ではねー・・・」といった夫婦関係ネタは話題に尽きないとか。
他には、地方には持ち家をどしんと構える人が多いからか、ご近所付き合いに関する愚痴は人によってはあるようです。「◯◯さんにはいつも親切にしてきたのに、この前その人が企画した集まりに招待してくれなかった。なんて無礼なんだ。」といった感じです。
また、こんな旧時代の考えを持つ人が存在するんだ!とびっくりする話もあったりします。いわゆる「男尊女卑」的な考えを当たり前のように一家全員が持つ家に嫁いだ女性の方は、女の稼ぎは全て家のものということで、その女性の方のパートの収入を一銭残らず全部取り上げられているなんていう噂もあったりなかったり。

時に、こうした心から同情をしてしまうような話もあるものの、「不平、悪口は精神のオナラなり」という言葉を仏教学者の福田亮成さんが言ったそうですが、個人的にはオナラの臭いに囲まれるよりは、もう少し違った香りの中に身を置きたいなーと思ってしまいます。

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見ざる、言わざる、聞かざる

とはいえ、目の前の現実に嘆いてばかりでも、前にも後ろにも進まないような状況に陥るだけです。その上で「見ざる」「言わざる」「聞かざる」がポイントではないかという思いを日々強くしています。
そこで、東北から沖縄まで日本全国を移住し尽くした地方移住暦20年超のベテラン・イジュラーの清泉 亮さんが書いた「誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書」を、私自身の経験も交えて「超訳」的にご紹介しながら、田舎の現実とうまく折り合いをつける方法のアイデアをお伝えしたいと思います。


見ざる
清泉さんの本(以下「バイブル」)には、「数年だけお世話になります」と伝えよ(Kindle p.184) とありました。これは、地方には何十年にもわたって築き上げてきた地位やら関係性がある中に、新米移住者がずかずかと入り込むことを好まない人たちもいる。だから、相手の期待値コントロールをすべし、という考えです。
私自身は、この言葉を自分自身に言い続けることにも意味があるように思います。死ぬまでこの場所にコミットするぞ、なんなら何世代にわたって住み続ける、と腹を括っている人に見えてくることや気になることと、一時滞在者のノマドが気にすべきことは同じであるはずがないかと。そのため、過度に色々なことや人に関心を持ちすぎずに、適度な距離感で、「あまり見ない」という心掛けが大事かなと思います。

言わざる
次に、バイブルの名言「何か愚痴や噂話をしたくなったら駐在さんにだけ話せ」(Kindle p.166) 。これは、田舎では噂話が大好きなので、何か愚痴や噂をしたら、それが瞬く間に広まるので要注意ということでした。一方で駐在さんは普段あまり事件らしい事件がなくて面白い話を求めているし、守秘義務があるので絶対に自分が話すことを外に漏らすことがないから信頼できるとのこと。
私は駐在さんと日常的に関わりがないのでよくわかりませんが、確かに、自分が聞いていて好ましくないと思うような不平不満、噂話を自分からするのはナンセンスかなと思います。誰かに言いたくなる前に、自分の中でとことん消化する、これに尽きると私は感じています。

聞かざる
そして、私は移住前には理解不能だった「ゲートボールには行くな」というアドバイス(Kindle p.166) 。これはゲートボールという場所が地域の噂話の温床であり、一度抜けたら出るのが非常に大変で、著者もその知人も非常に痛い経験をしたことからの渾身のアドバイスです。ちなみに昨今の田舎情報によれば、最近はゲートボールではなく、グラウンドゴルフが流行っているということでした。
ゲートボールでなくても、ある一定数の人が、〇〇付き合いとか、〇〇友と言った、何かの名目ありきで集まる(むしろその名目がなければあえて集まらないような) 場においては、その中でのパワーバランスに固執し始める人、ネガティブな話をし始める人が一人はいるかな、と確かに思います。別に地方に限ったことではないとも思いますが。素直に心から楽しいな、と思える人とだけ付き合う、孤独を恐れない強さが田舎暮らしでは大事な気がします。(まるで何かの歌詞にありそうなフレーズですが)



♢♢♢

今まで持っていた田舎像が壊れるような現実に直面した時、地方に描いていたロマンチックな思いがガラガラと音を立てて崩れていくかもしれません。せめて私はそうでした。

そして一旦見え始めてしまった側面は、もうそれに気付かないふりをし続けるのは難しくなるのも事実です。それはまるでルビンの壺(↓)などに代表される白黒のだまし絵が、白い色だけ見ていれば一つの絵で、黒い方も別の絵になると気付いたらその絵が見え始めてしまい、それからは二つの絵の存在を無視するのが難しくなるのと極めて似ているように思います。

ルビンの壺

しかし、だからといって、やっぱり自由な空気がある都会が良かったと懐かしむのはあまりにも簡単で、かつ目の前の毎日が幸せな時間になっていくわけではないかと。
それよりも、都会では知ることのなかった現実に出会ことを通じて、他人はどうであれ私はどうするのか、という決断を一つ一つしていくことで自分の軸を見つけていくきっかけになれるんだ、と前向きに考えていくことにこそ意義があるように私は思います。
私自身は、田舎暮らしを通じて自分が大切にしたいものは何かが分かるようになってきて、結果として自分らしい心地よい毎日が過ごせるようになりました。

今回のブログ記事が、地方移住にあこがれていた人たちの夢を打ち砕くことにつながらないことを、そして改めて「不平、悪口は精神のオナラなり」の言葉を振り返り、この記事自体がすかしっぺのようになっていないことを願っています。

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【Podcastの新エピソードを公開しました!(4月25日)】
本ブログ記事に関連する内容で、Podcastで新エピソード「 清濁併せ吞むー自分の考えと、人の考え方の違いに折り合いをつけていくということー」(17分半)を配信しています!

Podcastでは私の経営者としての体験談や思いをお話をしています。起業してからとにかく山あり谷ありで、大変なことだらけでしたが、そういったことからたくさん学んでいます。
今回は2013年に私がビジネスを始めて間もない頃に出会った二人の著名な方とのエピソードを中心に、自分の考えと他の人の考えが違う時に、どんな風にその現実を受け入れていったのかということをお伝えしています。

もしよければぜひお聞きください^^ ↓


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