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文字起こししたもの「薄田泣菫」

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薄田泣菫作品で、青空文庫に無いものを個人的に文字起こししました。 読書に朗読に、どうぞご自由にご利用下さいませ。
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記事一覧

「五月の日光と陰影の戯れ」薄田泣菫


 雨がやんで、五月の空が晴やかに笑ひ出した。
 新鮮な藍色の空。あの寶玉に譬へられる名器、砧形の青磁の肌を思はせるやうな淡藍の空の潤ひ。その潤ひは私の心を動かして、素足の蹠に靑草の柔かい感觸を樂しませるべく、靜かな郊外へと引張り出さうとするが、とかく病氣がちで、この二三年が程は一歩も門を外へ踏み出した事のない私は、どうにもその誘惑に應じかねてゐるので、私はせう事なしに「空想」の翼に乗つて、ほん

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「大山木の花」薄田泣菫


 私の家の前庭に、大山木(たいさんぼく)の若木が一本立つてゐる。
 五月の初め頃、生毛に包まれた幾つかの小さな頭を真直ぐに枝先から持ち出したその花は、日毎にその大きさを増していつた。そして六月も上旬の蒸すやうな天氣が續く頃になると、莟のふくらみは佛の前に合掌する尼僧の手のやうに、靑白さに透き徹る神經性の顫ひと清浄さをもつて來た。
 やがて鬱陶しい梅雨の雨がしとしとと降り續くやうになつても、花の

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「行々子」薄田泣菫

 二三日梅雨の雨がびしょびしょと降りしきつたので、池の水嵩はいつもよりずつと殖えて來て、そこらにぎつしりと生えつまつた葦の下葉は、ささ濁りのした水のなかにひたひたと漬つてゐる。
 葦のなかからは、のべたらに葦切の騒々しい鳴聲が聞えて來る。
 爽やかな七月初めの風が、池の頭を掠めてさつと吹きつけると、そこらの葦の葉は一やうにうねうねと波を打つて靡き伏し、搖れ返し、その度にさらさらと葉擦れの音が高く低

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「ものの音、ものの聲」薄田泣菫



 ものの音。ものの聲。──といつたやうな題目で何か書くことになつた。できることなら默思と點頭と微笑との世界に安住したく思つてゐる今の私にとつて、これはまた何といふ因縁であらう。
 ものの音。──といへば、私には直ぐと「きひよん」の侘しい音が思ひ出される。 よく山裾の木立や、家々の植込などに蚊母樹を見かけることがある。夏になると、この木の葉の上に泡の粒々が出來、なかには日が經つと梅の實ほどの大

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