緑の森
【華道家Aの場合・1】
緑の森が遠ざかる。社用車の天蓋広告、人々の挿す極彩色のパラソル、街路樹に不向きな植物群が形作る並木通り。それらは、徐々に名前を失くし、緑系色に還元されていく。森は春風が運び損ねた枯葉すら、その時の森の色に引き込んでしまう。5階の高さを飛ぶ銀色の蝶を初めて見たと思った冬があった。それは、外気に踊らされた処方箋薬局の袋だった。水滴が、私の頭上から爪先までを引っ掻き損ねたように滑っていく。
硝子の小箱は2基、すれ違いに昇降する。7階では新聞社の社員がなだれ込む。渡り廊下の先の別棟には新聞社と、その関連会社が入居するからだ。手すりに掛けた指先が切り花の下処理に使う薬品のため荒れている。この災禍以前、私は契約オフィスを巡る現代華道家だった。受付や応接間に旬の花々を生ける。それが私の仕事だった。仕入れた花は、真水で水切りした。洗面器に張った冷水の中で、茎を斜めに断つのだ。それでも意に沿わない個体は、切り出した先端を熱湯に浸し、気泡を出しきる。その花束を痛めないように包み込むのが、この新聞社の朝刊であり、夕刊であった。度々、自分の気分に都合の良い見出しだけ斜め読みした。今の私は、新聞社の本社屋に並び立つ昭和の名建築の2階にある生花店の雇われ店主だ。近郊観光の流行で、休日の売れ行きは良い。緑の森を展望できる屋上の幾何学式庭園が人気だ。密度を下げるために、点状に配置された椅子に座る人間が、お行儀の良い彫像を思わせる。
2000年代初頭のことだろうか。私が小学生の頃だ。私は父の書斎でLIFE誌の年鑑を広げ見るのが好きだった。その中では、遠い都市の墓地の向こうに聳え立つ金融ビル群は墓石に見え、列車で戦場へ向かう間際、恋人と抱き合う兵士たちは幼い私へ、島国とは異なる大陸を喚起させた。その中でも私は、見開きの両面を占拠する大判の白黒写真に見惚れた。そこでは、職業婦人と形容するのが相応しい若い女性が車の上で日向ぼっこをしていた。ランチを食べすぎたのだろうか。彼女は薄い笑顔を浮かべていた。ウェーブがかったおそらくはブロンドの髪、リップラインを際立たせた口元、白い手袋、肩掛けのないハンドバッグ……夕食の支度を終えた母親が、私を呼んだ。7時のニュースが、著名人の転落死を告げていた。仰向けに倒れていたのを通行人が発見したとのことだった。
アナウンスが12階を知らせたのち、3個1パックで小さな立方体の果実風味の飴で言うと、桃味のようなRのキューブが点灯する。屋上店舗の開店支度を始めなければならない。昼休みに、家への手土産を買わなければならない人々の残業は、いつ明けるのか。私は思う。
【写真家Bの場合・1】
広場にからくり時計があるだけで人々が皆、待ち人に見える。ビルの案内担当者がやってくる。革靴の先を尖らせながら彼は、申し訳なさそうに撮影許可証と書かれた腕章をくれた。リボン結びが下手な男だ。時計は月賦で買ったのだろうか。首から下げた社員証が、飼い猫を思わせる。我が家の”ドン”は、最後まで首輪を嫌った。去勢されたオスの虎猫だった。いつも戸棚の高みに居座り、窓外の痩せさらばえた雀さえ侵入者とみなし威嚇した。頼もしい奴だった。案内人は、挨拶のあと、広場をアトリウム、からくり時計を振り子時計と、さりげなく言い換えた。時計を下方に辿ると水車式の動力源があった。文字盤の外周には十二支が各々配置されている。
「僕は鼠なんですけど」
「私は蛇です」
「食べないでくださいね、美味しくないですよ」
これくらいのことは言えるようになった。最早、余生だ。私は思う。別の大手新聞社の出す週刊誌に写真と文筆の連載を持つようになって15年経つ。未だ主語に迷う。私/僕/俺。ワタシャねぇ〜、ときっぷの良い東男を気取る訳にも行かず、僕は、と言い、私は、と書く。今日の依頼は、人の気配が消えた本社ビル一帯を野良犬の目で切り取ってみませんか、とのことだった。私は、金を払われて写真を撮る身だ。三脚を立てて、長時間露光を設定し、その間はうたた寝、と言う訳にも行かず、律儀にレンジファインダーカメラを携えてやってきた。片道切符の宇宙犬、ライカ。写真学生の頃、私は日の丸弁当とあだ名された。色白で四角い顔に写真機を構えると、それは梅干しなのであった。所在の知れる同級生は3名いる。地元の造り酒屋の倅と、寺の住職、もう一人は家業の写真館を継いだ。私は、血統書のない野犬なのかもしれない。
案内人が、吹き抜けの7階部分に渡り廊下がかけられていることを告げる。通路は別棟の社屋へと連なっているという。振り子時計が定刻を告げる。時計の左右には、各々曲線を描くエスカレーターが配置されている。地上階の床が、市松模様に埋め尽くされている。案内人は、中南米にある石の産地名を告げる。残念ながら、私はチェスを知らない。将棋も囲碁も嗜まない。麻雀は効率的だ。仕事仲間ではない知り合いを一度に3人増やせる。愉快ではないか。
エスカレーターを降りると生花店と閉鎖された喫煙室と果実ジュース屋が並んでいた。凍ったまま機械へと放り込まれたバナナ、スイカ、モロヘイヤ。花屋の店員はセシルカットの女が一人。黒い立襟のシャツを7分袖に捲りあげて水仕事をしていた。
「いらっしゃいませ」
私は、胸ポケットに携帯電話をしまい込む女を初めて見た。
「1万円くらいで、青とか白とかそういうので何か」
「どなたへでしょうか」
「家の猫が最近死んじゃってね」
「そうだったんですね」
店員の肩先に猫毛がついていた。店員は、分かったようなことを何も言わず、お悔やみも述べなかった。
私は、それを”ドン”のように思った。
2階には、郵便局、床屋や歯医者、あまたの食堂と喫茶店があった。最も長く続く喫茶店には一度訪れたことがある。かつて、石材屋のショールームだったという内装が、モノクロ写真によく映えた。被写体を私はよく思い出せない。
やがて案内人は私と2階を巡ると、地上階に設けられた高層階への直通エレベーターへと連れ戻った。
「僕が小さな頃には、エレベーターガールっていう人たちが居てね」
案内人は、
「写真で見たことがあります」
と言い開閉ボタンを長押しした。息子ほど年の離れた青年の切り整えられた爪が鈍く光っているのを僕は撮った。男は関心したような顔をした。私は恥ずかしくなり、ファインダーを覗き込んだ。
「右手に見えますのが、かつての……」
案内人が言った。
「これが、緑の森ですね」
春夏秋冬関係なく、そこは緑の森なのであった。
「そうです、緑の森です」
フィルムを幾度も送り出す。観光客も、これほどまでには撮らないであろう。視界が一瞬ブラックアウトした。今日のカメラはライカのはず。跳ね返るミラー機構を持ってはいないはず。
「私には人が見えました」
案内人が告げた。
「そうでしたか」
僕は、カメラを襷掛けにして青年を抱きすくめた。青年は咳き込んだ。私は、
「大丈夫だから」
と言った。折り返し近づく車回しには緑が点状に配置されていた。やがて、円錐状のトピアリーが眼前に5つ現れた。地上には誰も居らず、何もなかった。
【華道家Aの場合・2】
写真家は店の写真を撮らずに出て行った。ビルの管理会社の腕章を見るまでもなく、写真家その人と認識できた。有名人だった。彼は、青緑と紫のまだら模様のアジサイを選び、他を私に託し、ビルを一回りしてから、帰りに立ち寄ると言った。
「枝を短く小分けにしてくれると助かります」
写真家は言った。茎と言う勤め人の多さに辟易していたので、私は微笑んでしまった。花束は、手毬のように3つ見繕うと予算と要望に見合うと思った。
遠ざかる黒いジャケットには猫毛ひとつ見当たらなかった。
アジサイの青も赤も紫も飾り花。道端の紫陽花には雌蕊と雄蕊があって実を実らせるものがある。装飾花の色柄を人は愛でる。今日のアジサイは南米産。その国の首都がどこなのか、咄嗟には答えられないし指差せない。喫茶店の見開きのメニューを思う。そこでは珈琲豆が採れるはず。調べようと、胸元に利き手をやる。衝撃音がする。クラクションが鳴っている。人々がエスカレーターを駆け上がってくる。エントランスを見下ろす。大破したタクシーが天蓋に仰臥する人を一人載せている。私は撮り始める。ピコンと作動音がまばらに響く。奥手から写真家が男を抱えやってくる。男を見物人に預けると、写真家は羽織を車上に掛け置いて立ち去った。私は、花束を手渡したく思った。7時のニュースは、とある城址公園でのカルガモの親子のお引っ越し騒動を告げた。平和だと、私は思った。
【写真家Bの場合・2】
緑の森に銀杏がなった。私は花屋へ詫びに行こうと思った。約束を無碍にしたのだ。案内人は、小さな銀色の袋片手に小走りでやって来た。心配はないのだろうと、私は思った。生花店の短髪の店員は、本業に復帰したと新たな店員に告げられた。手漉き和紙製の名刺に”現代華道家A”と書かれていた。誰か知り合いの写真展ではない展覧会の案内が来ないかと期待した。花粉は写真作品を傷める。案内人は、喫茶店へと僕を誘う。御影石の壁面、細かく色違いに組み込まれた大理石の床面。直立静止したコマのような卓。いつかと変わらず、人だけが違う。
「ブレンドをひとつ」
注文主は大島紬に淡い桃色の名古屋帯を締めていた。写真に花粉は厳禁。猫に珈琲も厳禁、とちぐはぐなことを僕は考える。女の立ち去り際、目をやると、それはかつての花屋の女だった。
”ドン”に花束を……僕は季節外れの花を思う。
「僕が小さな頃に見た写真に郊外の墓の写真があって奥に建ってるビルが墓に見えるんだよ……」
私は極めて明るく案内人に言った。
「その写真、僕も見たことがあります」
案内人が苦く笑った。スピーカーからいつか流行ったルンバが鳴った。それは恋唄だった。
「そうか」
僕は小さく答えた。
FIN
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