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短編小説「テンペラ」

ウタの母には1人、小さな友達が居た。彼女の住む一軒家からは参道を挟み、斜向かいにある低層マンションに越してきた男の子だ。彼は、紫色をした帆布製のランドセルを背負っていた。それは市内にある私立学校の指定品だった。ウタも、いずれかは、その学校へと進学させる予定だった。しかし、ウタはもう居ない。水難事故だった。紋章のワッペンが付いた紫の鞄に名前を探した。見つけられたものが、持ち主の名を示していなくとも構わなかった。誰の、どの名前でも良い。ハンドバッグにはよくお揃いの名前が刻まれているではないか。孤児院育ちの彼女、射殺された彼、ファミリーネーム。何か彼の呼び名を得たい。ウタの母は思った。そして毎朝、ウタの母は、お参りの体でさっぱりと身支度し、石畳を鳴らした。

「おはようございます」
すれ違った彼は幼いながらも帽子をとって言うのだった。
「いってらっしゃい」

そのように、ウタの母は返せなかった。彼女は挨拶程度に首を傾げて彼とすれ違う。ただし、それは彼女にとってはおはようとは機能しない。ウタの不在に付随する疑問符。それが、どこまでもウタの母を追ってきた。朝食を小皿に取り分け供える。線香を薫く。昨日の米粒が乾いて黄味を帯びている。ウタの母は、選び纏うどの香水からも、それらに似た匂いを先んじて感知してしまい侘しく思うのだった。

紫鞄の子がウタの母の家へとやって来るのは土曜日の昼過ぎのことだった。彼は午前授業からの帰宅間際にウタの家の玄関に植えてある百日紅を撫でに来るようになっていた。所々まだら模様のその樹皮がいたずらに捲られることなくそこにある。話しかける契機を得るために、ウタの母は家族から洗車を引き受けた。ウタとウタの母が多数決でその色を勝ち取った青い車だ。

「こんにちは、何か居る?虫とか」
「ひんやりしてすべすべでちょっと引っかかって」
と、息継ぎもせずに彼は言った。
「そう」
「ウチで飼ってる蛇に似てるって今気づいた」
「そうなの」
「冷たいのがすごく良い。今度うちに見にきてね」
「いつか呼ばれようかな。何をお土産にすればいい?」

ウタの母親が想起したのは、いつか自然科学番組で見た、白い小柄な蛇が生きたまま尻尾から大蛇に飲み込まれる映像だった。手足のある小動物を捕食するよりも、消化するのに効率が良いのです。ナレーターが、淡々と告げた。その声質は、ウタの母へ、柔らかく重く冷たい金属を思わせた。

「蛇は何を食べるの?」
ウタの母は彼へと問う。
「卵とか鼠とかそういうの」
彼は答える。
「ありがとう、教えてくれて。何か用意しとくね」

ウタの母が、参道並木の銀杏の落ち葉を掃き集め始めても、彼は毎週やって来た。かつて病をばら撒くからと他所で疎まれた百日紅。それは遠戚の者がウタの誕生祝いに、と置いていったものだった。

「きれいに咲かせてますなぁ、元気なことは良いことですな」

と、言った者が幾人かあった。ウタが亡くなった事を知ると、彼らは犬の散歩道を変えた。居た堪れない。皮肉屋にさえ、そんな心地を抱かせるウタの最期だったのだろう。ウタは旅行先で訪れた大型プールの排水口に脚を捕らえられ、そのまま管へと引き込まれ溺れた。施設の者が金網の鍵を閉め忘れたとのことだった。

「きれいに咲いてますな」

同じ者がやって来て、違うように言った。ウタの家の百日紅は、紅白絞りの花々をつけている。それは今年も変わらない。

「うちに帰ってテレビ見なきゃ」
眼前で紫鞄の子が言う。正午の王者、新喜劇。
「お土産あるからちょっと待ってて」

ウタの母は、焼き置いてあったメレンゲ菓子を持って玄関へ戻り、彼へと渡した。それは何も飾りを添えていない棒状の白い焼き菓子だ。泡立てた卵白にグラニュー糖と粉砂糖を入れて作る。作りすぎたわけではないのに、いつも家にある。かつて、ウタは、遠慮なく次々に食べられるのが良いね、と微笑んだ。背伸びをしていたのだ。本当は、薔薇型に絞り出され、アラザンの銀色の粒々が載せてあって欲しい。それが、今、ウタの母にはよく分かる。

紫鞄のこの子と親しげに振る舞う様子を誰にも見られてはならない。特にウタには。そんな気がするのだった。彼のつむじを囲む若々しい黒髪が艶めいている。左回りの吸引口。よく大人は子どもを撫でながら彼らを褒め、励まし、なだめ、許す。ウタを強く叱る前に、ウタは行ってしまった。ウタの母は、ウタや、犬や、鳥に触れる至福を思う。簡単に潰してしまえそうな蝶々の胸、蝉の抜け殻、吊るして乾かされたミモザの花々。吹けば飛んでいくだろうか。ふさふさ、ツルツル、ぽわぽわ。またすぐに死んでしまうかもしれないのに、子どもが増えることを家族は期待している。その為、ウタの母は、毎朝基礎体温を記録する。手洗い場に掛けてあるカレンダーに印を付ける。憎々しく肥えたキューピッドが弓矢を射ろうとしている赤い小さなスタンプだ。ウタの父が採取したものをウタの母が医院へと持ち込む。近いうち、ウタの祖父母の送金が途絶える見込みだ。早く私たちのお金も無くなれば良いのに。ウタの母は思う。

ウタの母は家事の少ない土曜日の午後は必ず、卵を用いた古い技法で肖像画を描いた。
「何描いてるの?」
ウタは訊ねてきた。
「誰か人ね」
「次はだあれ?」
締め切りのない絵が、いつ描き終えられるのか。ウタの母には分からなかった。しかし、問われ続けて困り果てるのは、彼女の好みではなかった。
「誰を描いたらいいと思う?」
ウタは、祖母に買い与えられた人物図鑑を見てから決めると言った。今日は、絵の具作りを手伝いたいと、ウタは言う。

画材の顔料を作るためには黄身だけが必要だった。静かに卵を割り、殻の縁を使って白身を切り落とす。右手の掌に黄身を移しのせる。左に右にと黄身を転がすうちに指の間から白身が少しずつ落ちていく。

どろり、ろり、どろり。

台所からウタが木綿の布巾を持ってきてくれる。
「お母さん、私がしても良い?」
ウタが黄身の膜を破らないようにつまみ上げるのだ。
「頼んだよ」
ウタの母は出来るだけ深刻を装って言う。ウタは眉頭を凍らせて笑っている。彼らは、2人で逃げ込んだ親密さに安堵する。
ウタの母は、小さなカッターナイフを使い、ウタの指で持ち上げられた黄身を突く。

どろり、ろり、どろり。

流れ出る黄色の液体がある。頼りない境目がウタの利き手に残される。いつも、卵を割ると、そこからは白身と黄身が出てくる。そして、それらを2人は、やんわりと分かつ。それは2人の最後の土曜日だった。

ウタの母は、ウタの部屋の片付けはせずに、掃除だけをした。配置が変わると、失われる何かがある気がした。やがて、好奇心を取り戻しつつあったウタの母は、残された絵本や図鑑を流し見るようになった。人物図鑑の中、緑色の栞紐が、”クレオパトラ”のページに挟まれていた。見開きの右隅で、美しい裸婦が恍惚の態度で自ら、乳房を蛇に噛ませようとしていた。それは毒蛇とのことだった。テンペラ画。彼女は思った。

土曜日の昼、ウタの母を呼ぶチャイムが出囃子のように鳴らされる。回覧板、集金、宅配業者。それらはテレビの中とは異なる、華やいだところのない寂しいお約束のはずだった。応対するのはいつもウタの母だった。そのほかの家族は、席を離れようとしない。番茶すら自らはいれない。彼らは今日、祭りの準備を手伝いに外へと出ている。ウタの母は、近隣の者への差し入れも兼ねて、行楽弁当を作ったのだった。ふんわりと乾かして三つ葉で巻いた淡黄色のふくさ寿司、唐揚げ、しば漬け、飾り切りにした煮物、葡萄、柑橘。ウタと一緒であれば、それらを意気揚々と、きちきちに詰め合わせただろう。ウタの母は隙間を埋める蟹風味の蒲鉾を千切り散らし、彩りを与えようとバランを挟み置いた。それらは、かえって彼女を濁らせた。
チャイムが聞こえたとき、ウタの母は、誰かが忘れ物を取りに帰ったと思った。靴を脱ぐよりも、ウタの母にものを持ってこさせた方が早いと、彼らは思っている。ウタの母は戸を開けた。紫鞄の子が立っていた。
「今日、餌やりの日なんだ。見る?」
彼は端的に訊ねた。
「見る」
ウタの母は返した。彼女は、そのまま表へと出た。神楽の練習音が微かに聞こえた。屋台が数軒たててある。トングを持った女性が、参道に転がったぎんなんを掴み集めている。彼女は、紫鞄の子とウタの母の姿を認めると礼をした。
「いつもお菓子をどうも」
彼女は言った。彼の母親とのことだった。
「ママは鼠が嫌いで」
「朝一番クール便で届いたんですよ、驚きました」
「そうでしたか」
「どうぞごゆっくり」
今夜の親子の夕食は粉物とチョコバナナか。ウタには林檎飴を買って帰ろう。ウタの母は思う。

低層マンションの敷地内路地はエントランスに向かって参道から垂直方向に伸ばされていた。彼は先だって歩いた。壁際に敷かれた玉砂利から伸びた、か細い笹がさわさわと揺れている。ウタの母は手を伸ばした。
「指切れちゃう」
彼は明朗に言った。人の家の草木に勝手に触るのではない、という意はそこに含まれてはいなかった。
「そうか。教えてくれてありがとう」
「うん」

彼は、背負った鞄の肩紐を各々の手で握りながら歩く。いつものことだ。人が手を取り合って歩く不思議をウタの母は思った。彼は、母親から預かった鍵で集合キーを解除した。彼の父親は今、何をしているのか、とウタの母は聞いた。部屋で蛇の世話をしている、と彼は答えた。愚問だった。蛇を気ままに操ることができるのは大体、大人だろう。ウタの母は思った。紫鞄の子の父親が、彼らをエントランスホールで出迎えた。家から出てきたというよりは、服装自由の仕事場からの帰りを思わせる格好をしていた。
「どうも息子がいつも」
彼は言った。ウタの母は、未だに紫鞄の子の名前を知らないことに気がついた。それだけのことだった。

一匹目は卵だったらしい。ウタの母は、胴体を太らせた蛇を見たが、見返されているという感じはしなかった。膜に覆われ潤った黒い眼だった。下段には観音扉を持った飼育ケースが置かれている。何も入っていない。
「要りますか?」
紫鞄の子の父が、ウタの母へと言う。
「何を飼われてらっしゃったんですか?」
「なんでしたかね、さぁ」

紫鞄の子が冷蔵庫を開ける。皿の上、白い鼠が載せてある。解凍途中とのことだった。ウタの母は、かつて生物の授業で触れたハツカネズミを思い出した。薄桃色の手指が硬く、そして脆かった。ウタの母は、気取って買った製図用のシャーペンで、誰よりも仔細に手順を踏んで”それ”を描いたのだった。捲り上げられた腹膜がスカートのように見えた。その不愉快は、何を絵に描いてもウタの母に付き纏った。ウタの絵だけは描かない。ウタの母は、クレオパトラの最期を示す、あのテンペラ画を模写するのだ。大きな絵ではない。鱗までは描き込めないだろう。それでも、ウタの母は蛇を見にやってきたのだった。寂しさからだけではない。
「今からあげるよ」
紫鞄の子がウタの母へと言った。紫鞄の子の父がトングで掴んだ鼠を蛇に近づけている。描き終えられるのがいつになっても構わない。ひび割れをきたし始めた暗色の背景が白い。それだけが、ウタの母には分かった。

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