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「谷口八重子は笑わない」



「あんたんとこアルマーニとポールスミスばっかやろ」
真知子叔母さんは、私の勤め先をさして言った。
「女はあれやな、ケイト・スペード」
私たちは、開場時刻までを阪急メンズ館を周遊して過ごそうとしている。先月から、私はキング・クリムゾンを予習し始めた。国際フォーラムでの日本公演の為だ。銀座の百貨店へは行かない。叔母なりに気を遣ったのだろう。私は美容部員だ。デパートは、仕事の延長線上にある。正確には、去年の春まで、私は化粧品の接客販売に従事していた。しかし、5回分のボーナスで、取り外しの出来ない歯の矯正器具を装着すると異動になった。配属先は、本社屋にある社内広報部といった。それ以来、私は笑うのをやめた。
「そんなことないよ」
私は、真知子叔母さんに言った。
「誰かいてるの」
「権田さんいう人がいて」
「そうか」
私には、叔母の肩からお尻までを覆うリュックサックが無印良品なのか、コムデギャルソンのものなのか分からなかった。彼ならば分かるだろうと思った。
手摺りに置かれた右手に母の時計が光っていた。フロアに降り立つと、叔母のつむじが見えた。少し白髪が増えたように思う。
「なに」
「なんも」
「聞いて欲しいことあったら言うてみ」
「叔母さんに会いたいって言うてた」
「高くつくで」
叔母が笑った。私も笑うことが出来れば良い。そう思った。



入社した年の秋、東京東部ブロック支社合同の仮装ボーリング大会が開かれた。白雪姫を取り合った。私は、ドレスへの投資を惜しんだ。散財だと思った。黒い7部丈のワンピースがあった。髪をセンターで分け、三つ編みにした。白い紙袋を切り、付け襟を作った。子役時代にクリスティーナ・リッチが演じた「アダムス・ファミリー」のウェンズデーだった。笑わなくて良いのは都合が良かった。同じレーンに、ガターばかり投げるハンサムなドラキュラがいた。それが、権田だった。
権田のいる社内広報部は、歴史ある宣伝部とは異なり、どの部からも疎外された社内リハビリ課とみなされていた。主に美容部員や美容師の専門職域の社内コンペティションを取材し、記事にする。
「本当は投げられるんですよ」
権田が隣に来て呟いた。
「What?」
八重歯の付け歯があまりにも憎らしかった。しかし、血行不良色のクマのぼかし方と、櫛目を通したオールバックが完璧だった。
「その髪は、どのワックスですか」
「真面目って言われない」
権田は目尻に笑い皺を作った。
「自分で探します」
権田は、試合の休止時間に照明が灯されると私の使用アイテムを大方言い当てた。唇の色に発色が左右される口紅は分からないと言ったが、輪郭を調整するリップペンシルの色は特定した。先輩だと思った。レーンが明るくなった。誰かが投げたボールが、1番ピンと3番ピンに当たった。ピンが弾けた。拍手した。私は自分を観客だと思った。チェット・ベイカーが「Like someone in love」を歌い出した。これは恋ではない。それだけが確かだった。
「カルピスとか飲みなよ」
権田が言った。ウェンズデーが、バドワイザーを持っていては、いけないらしかった。彼女は未成年なのだった。




叔母と歩くだけで通勤路は、どこか遠い都市に思えた。半休を取った私は、千疋屋でフルーツサンドを買って有楽町の三省堂書店へ向かった。二人とも、待ち合わせが嫌いだった。後ろ姿に狙いを定めて覗き込んだ。叔母さんは、澄ました顔をして、ナショナルジオグラフィックの最新号を棚へ戻した。真知子叔母さんは、品川駅で買ったというメルヘンの苺サンドを肘に掛けていた。私たちは、日比谷公園へ向かった。会場の国際フォーラムでは、物販が始まっているようだった。
「暑いとこで花火見て、寒いとこで噴水見てご苦労やな」
叔母が言う。私は微笑む。私たちは、児童向けの広場のベンチに座る。砂場には足跡一つない。
「どんな子がここで遊ぶの」
「潮干狩りの子かてスコップ持って電車乗らへんわ」
「な」
アシンメトリーのボブに、金色のイヤーカフを合わせていて、さすがだと私は思う。コートのフェイクファーの毛束が風に揺れている。

仕事上がり、冷やかされたので私は叔母と出掛けるのだと言った。歌舞伎でも見に行くのかと問われ、そんなに近場ではありません、と返した。しかし、本社屋にコンパスの針を刺したら、歌舞伎座と国際フォーラムは、同じ円の中に収まるだろう。それでも、私は言い張った。
エントランスで、名前を呼ばれた。権田さんだった。拾われた右耳のAirPodsは、同期されたままキング・クリムゾンの「Moon Child」を流していた。冒頭部、グレッグ・レイクが囁いていた。「21st Century Schizoid Man」だった場合、私は何か言われたのだろうか。私は礼を述べた。
「とんでもない」
大仰に言い終え、颯爽と街へ出て行った。黒いオーバーサイズのポンチョを着た権田を、私は、姿の良い人だと思った。団子状に結えられた髪が、首と肩の逞しさをあらわにしている。左手に下げたコンビニ袋に油揚げの包装が透け、割り箸がはみ出している。近所の稲荷神社にでも行くのだろう。酔った人の用足しにちょうど良さそうな路地にそれはあった。化粧を施すのを忘れられたビルの裏面はダクトを剥き出しにしながら、湿度に浸食されかけている。二拍手が聞こえたら、曲がり角から、私は覗き込む。私は、何を祈ろうか。それが、分からない。



屋形船の周遊コース上で、もんじゃ焼きを食す。それが、社内広報部における私の初日の締めだった。休日に何をして過ごすのかと皆聞き合った。私は、着付けを習っていると伝えた。皆、頷くだけだった。誰もが、誰かと過ごす休日を期待していた。権田は、星を観ると言った。
「カッコつけてない」
と、上司が言った。笑う人が何人かいた。
権田は、障子を開けて指さした。権田は、まろやかな声をしていた。全てカタカナなのだろうと、私は思った。乗り場は勝鬨橋の近くにあった。皆、帰路を急ぎ始めた。権田と私を二人にする意図が見え透いていた。
「少し歩く」
権田が、両手を後ろに組んで聞いてきた。
「そうですね」
私が返すと、権田は、
「ちょっとここで待ってて」
と言った。明らかに慌てていた。現れた権田は、自転車を押していた。
「どうして乗らないんですか」
「飲んじゃったから」
権田は、疑問形で言った。その通りだと、私は思った。
築地本願寺の手前で折れ、小綺麗な公園内を北上した。細長く続く敷地内には、左右各々に突き出た石柱がいくつかあり、かつての橋の名が刻まれていた。3人掛けのベンチが等間隔に連なっていた。
「鴨川」
気づいたら言っていた。
「住んでたことあるよ」
権田が言った。京田辺、とのことだった。私は、それがどこなのか分からなかったが、話すことが無くなるわけではなかった。私たちは、誰ともすれ違わずに歩いた。入船橋と築地橋は、現役だった。下に首都高が通されていた。区役所前へ出た。柳が揺れ、よく見ると新しい、古風な街灯が誇らしげに屹立していた。地下鉄の入り口で、私は、
「おやすみなさい」
と言われた。
「お疲れ様です」
私は返した。
「どうして異動になったの」
私は、振り向いて口角を上げて笑った。
「おやすみなさい」
私は言った。



「ホームまで送るよ」
私は、真知子叔母さんに言った。叔母さんは、
「今生の別れみたいなこと言わんといて」
と言った。叔母さんは、権田に会いに行けと、彼女なりに私へと言っているのだ。私は従う。権田は、駅前広場まで自転車で迎えに来た。彼は、電車へ乗ると発作が起こるのだった。
私たちは、ベランダに椅子を2脚出した。折り畳み式のリクライニングチェアだ。
「星が落ちたら、何をお願いする」
権田が言う。
「気色悪」
私の中の真知子叔母さんは言う。代わりに私は、
「何も」
と返す。
「正解」
権田が得意気に言う。願い事をする猶予のある光は、星ではなく飛行機や人工衛星なのだそうだ。私たちは、見つめ合わず同じ方向を指差す。同じものを見ながら、違う音楽を聴く。少なくとも私は、恋におちた人のように、と唄う。

そして、私はいつも、眠ってしまう。
キッチンから音がする。朝、網戸を引き、カーテンを開ける。権田が、真剣にお湯を沸かしている。
「熱いままお茶淹れたら怒るかな」
「誰が」
「真知子叔母さん」
「叔母さんは別に何も」
権田は、大袈裟に驚いてみせる。
「京田辺で怒られたんですか」
「忘れた」
権田が、マグカップを持ってやって来た。スプーンが刺さっている。コーンポタージュだった。
「いただきます、なんで」
「嫌いだった」
「全然」
権田は、私の白いカップの縁を覗き込んだ。何かに納得しているようだった。
権田は、必ず舌に火傷を負う。それが、私には見える。私は微笑んだ。
「どうしたの」
私は、心配された。
谷口八重子は笑わない。それが向いている。私は思った。

FIN




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