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「僕の叔父さん、勘八叔父さん」


新訳が出た。叔父の時代は終わったのだと思った。僕の実家は鰻屋だ。僕は素直に憧れた。怒ったトラたちが溶けてバターになったお池、フライパンを滑らかに広がる液状生地、弾ける気泡。 漂うその香ばしさが、歯触りを予期させる。少し蒲焼と似ているか。

”虎達はますます怒りましたが、まだお互いの尻尾を離そうとはしませんでした。ものすごく怒っ た虎達は、木の回りを走りながらお互いを食べようとし始めました。そして、もっと早く、もっ と早く走っているうちに、早く走りすぎて足すら見えなくなりました”

絵本『ちびくろサンボ』は、戦後日本において、複数の出版社から幾度も刊行された。叔父の翻訳書はQ社から199×年に発行された。

”黒いジャンボは、大きな真鍮のかめの中にバターを全部入れて、料理用に黒いマンボに持って帰りました。黒いマンボは、溶かしバターを見てとても喜びました「さて」と、黒いマンボは言い ました。「夕食はホットケーキを食べましょう」”

叔父はよく僕に絵本を読み聞かせた。鼻濁音が口蓋の奥を心地良く叩く、艶のある声だった。ページを捲る左手が日焼けせずともやけに逞しい。僕を含め、家族の前では、どの外国語も話そうとしなかった。叔父は近所の寺へやってくる外国人観光客へ簡易的に日本史を説いて学費の足しにした。学校帰り、友人といる僕と叔父御一行がすれ違う。叔父は、僕を自分の横へと立たせた。ランドセルは、交通事故の負傷を軽減させるのだと澄まして言った。 その寺の墓地には明治期にやってきた複数の外国人技師と2人の首相が埋葬されていた。寺から10分程歩くと、とある文豪の墓を有する都立霊園があった。叔父は、野良猫家族各々の見分けがつくほどに通った。解散間際、観光客が墓の前で叔父にチップを渡す。おおよそ叔父は、ここが彼の墓だと大仰に言って、彼らを驚かせるのだった。叔父は稼ぎを本型の洋菓子缶に入れて勉強机に立て置いた。僕は叔父の部屋を覚えている。離れの2階、中庭に面した窓からは座敷が見渡せる。橙色のカーテン。レールがいつもしゃきしゃきと走る。鰻の中骨の上を江戸裂きが滑る音だと僕は思う。叔父は言う。
「美人の眼鏡は2割増、喪服姿は3割増」
梵鐘が鳴る。口にするのは憚れたが、個人的な所感としては共感しかけた頃まで叔父は家に居た。廊下を渡っていく自称親族の列。叔父が未亡人を言い当てる。食事を摂ると泣き止むのが彼女たちで、他の者は肝吸いを口に運ぶごとに沈痛な面持ちを次第に強めていくのだった。

僕が生まれる前の年まで、叔父は法学部出の国家公務員だった。その後、文学部に再進学した叔父は、2階の子ども部屋に住み続けた。詩を書いて暮らしたいとのことだった。祖父は叔父の名を2文字変え、彼を勘八と呼んだ。家を継がず、出世道からも逸脱した叔父は誠に天晴れだったので あろう。“勘八叔父さん”が家で出来ることは、朝の火起こしと僕の相手だった。桜餅の味は桜並木の香りではないと教え、捕まえた蝶を粗野に持つ僕を叱った。中学受験を控えた夏休みは、彼が読書感想文を書いた。叔父は早く走り、泳いだが、スキップは出来なかった。文武両道の盲点に、僕ら家族は揃って笑った。

 叔父が、首都環状線内にある私大の非常勤講師としての職を得たのは、僕が高校生になってからだ。それは、一年毎の契約更新が必要な薄給職だった。叔父は奨学金返済の為、教養クラスで英語を教え、音楽雑誌や絵本の翻訳を単発で引き受けた。良い歳だから少しは遊んだ方が良いのではと叔父を唆した関係者は、叔父に鰻屋へ連れて来られた。叔父は誰よりも早く酔うことを心掛け、機嫌よく唄った。その頃、海外の曲に日本語の歌詞を充てるのが定型化しつつあった。叔父は誰もが知るブルースや、オペラやシャンソンに日本語の即興詩をつけて口ずさんだ。叔父の選曲は一貫性を欠いていたが、それがかえって安定したユーモアを提供しているようだった。特に叔父は、関係者のK女史に気に入られたようだった。来る度に、彼らのなかで入れ替わらないのがK女史ただ一人だった。
彼女は、句点までが遠く流麗な文章を書いた。叔父は彼女の知性に憧れたのだと僕は思った。惚れっぽいところのない叔父だった。

”黒いマンボは、粉と、卵と、ミルクとお砂糖を取り出し、大きなお皿にいっぱいの、それは素晴 らしいホットケーキを作りました。そして、そのホットケーキを虎の溶かしたバターで焼きまし た。ホットケーキは小さな虎たちのように黄色と茶色に焼けました”

仕入れた鰻たちは、午前中を土間に備え付けられた槽の中で過ごす。そこには常温水が掛け流されており、注文を受けると一匹ずつ氷水の桶に移される。祖父と父の他、鰻を素手で掴めるものは居なかった。祖父の調理台はまっさらで、血が滲んでいる方が父の方だ。僕が子どもの頃、電気ウナギが流行っており、中骨を断つ時に彼らが感電するのではないかと日々心配していた。目打ちが響く。眼には刺さっていないが、それは目打ちなのだった。研がれた刃先の下、中骨が軋む。みしみしみし。鰻はうねる。祖父が捌く個体の肝は型崩れてはいない。祖父は白い厨房着を 誇らしげに纏う。僕は、つまみ喰いよりも、中骨を身から外してみたいと思い続けた。あの密着の強固さ。腹骨を削ぎ、血合いをしごく。落とされた頭が、どこか跳ね泳いで行かないかと危惧する。僕が小学生の頃だ。父はまだ、平日は会社員だった。

”そしてみんなで夕食を食べ始めました。黒いマンボはホットケーキを27枚、黒いジャンボは、 55枚食べました。そして小さな黒いサンボはお腹がとってもすいていたので、ホットケーキを 169枚も食べました”

叔父の宴会芸は見事、商業化した。叔父は、作詞家稼業を軌道に乗せると、4LDKの仕事部屋を一つ、繁華街の外れに借りた。免許を持っていればジャガーやベントレーを買ったのだろうか。叔父は、タクシーを使わず、自転車と地下鉄で移動した。K女史が、叔父にジャガーのマウンテンバイクをプレゼントしたのだった。

時々、作詞家“勘八叔父さん”のファンが鰻屋へやって来た。ペンネームはタウンページを引いて決めたことになっていた。叔父は気取ってそのように言ったのかもしれない。叔父の心の内には生身の少女が居るのではと評判で、若い女性が多くやってきた。彼女達は、やや格調高い店構えに好意的だった。ちょっとしたお坊ちゃまが少しやさぐれたくらいが彼女達には丁度良いのだっ た。
しかし、祖父が、
「あいつは何でも出来るけどスキップが出来ないんだよ」

 と言うと、苦笑いして去っていくのだった。人は”勘八叔父さん”に夢を見させて欲しいのだったろうか。叔父の実家は、下町でも何でもない街にある老舗風の高級鰻屋だ。近所の神社に頼めば、鰻塚を拵えるぐらいの事は出来るかもしれない。

本当に美味いのは、こういう店なのだと叔父は真顔で幾度も言った。誰も喜びはしなかったが信用はされ食通向けの雑誌に連載を持った。時折僕は読み返す。既に無い店も多い。

今は僕が鰻屋だ。あらゆる炭化臭にときめきはしない。職能として僕はそれを誇らしくは思う。 先週、叔父のマンションを片付けた。月報を欠いたK女史の短編全集が出てきた。見積もりが他より安く出た。全て古書店へ売るよう僕は家族に促された。店にK女史から簡易書留が届いた。月報が一揃え封入されていた。
「野良猫に名前をつけてやる」 
叔父は、そう書き置いて最期、彼女の部屋を出たとのことだった。鰻屋は、叔父の時代から移転せずに在る。本当は鰻が不得手だったのだろうか。訪ねては来られないのであれば、僕が赴こう。叔父を知る者同士話したいことがある。僕は、僕の”勘八叔父さん”しか知らない。手始めに、 二人で虎を溶かしてバターを作ろうか。僕は、当分、街でボンネットから突き出たジャガーに出くわすとそれを虎と見紛うだろう。新車のエンブレムは埋め込まれ安全だという。見たことはまだ無い。奥行きを欠いた、豹、あるいは虎なのかもしれない大型猫が銀色に微笑みかけてくる。 焼いた鰻を差し出せば、食べられなくて済むだろうか。少なくとも骨煎餅までは粘ろう。僕は思った。

FIN

参考文献

『ちびくろサンボ』絶版を考える」径書房編(1990)

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