小説版・この道の先に  Vol.9

あの道を、今から行けるんだ。ずっと恋焦がれていた、花の3区に。
俺は小さい頃、箱根駅伝を観に行ったことがある。
大学を出てすぐ陸軍に入った叔父が、出征する直前、思い出作りとして、
俺と両親を誘ってくれたらしい。

砂交じりの風が吹く中、一番最初に目の前を走っていった選手が、
よく分からないけれど、すごく格好良く見えて、
叔父に「ぼくも、はしれるようになりたいです」と宣言した。
4歳になるかどうかだったが、それだけは、よく覚えている。

その道が『花の3区』と呼ばれ、力のある選手が集まる区間だということ、その大会が箱根駅伝と呼ばれていること、
みんなで強くなるために始まった大会だと言うことを、
その時教えてもらった。
俺の目に焼き付いたランナーは、3区の区間記録を出したという。

翌日は銀座のゴール地点に行った。
あの時見た優勝校の胴上げは、今でもよく覚えている。
あの時から俺は、箱根駅伝を走りたい、俺も3区を走って強くなりたい、と
願うようになった。
その箱根駅伝に連れて行ってくれた叔父は、
ゴールの瞬間を見届けたその足でどこかへ旅立った。
その後、何回か手紙が届いたが、4年後、戦死公報が届いた。
俺の目に焼き付いたあの選手も、俺が箱根駅伝で応援してから2年後、
『日本陸上長距離の至宝』と讃えられながら、戦地で『名誉の戦死』を遂げた。

箱根駅伝の時、沿道で「がんばれー!」と言った俺の声は、
戦争で死ぬことを礼賛してはいなかったか。
あの時の俺の声は、大勢に、得体のしれない暗い影に飲み込まれていかなかったか。
まだ小さかった俺に、そんな上手な言葉は見つからなかったけれど、
何か取り返しのつかないことをした氣がして、俺は素直に『日本万歳』というような台詞は言えなくなっていた。
ニッポンバンザイ、の裏で、たくさんの命が天に上っていくような氣がしたから。  
仏壇に並べた、大学の制服姿で笑顔を見せる叔父の遺影と、
『名誉の戦死』の記事に添えられた写真を見るたびに、腑に落ちないものがずっと俺の中に燻ぶっていた。
その思いから自由になるために、俺は走り続けていたのかもしれない。

横浜新道の開通に伴うコース変更によって、3区に『花の』が付かなくなっても、俺にとって3区が特別なのは変わらなかった。
ワクワクしながら海へ向かう道を進む。ここを走って強くなりたかったんだ、と思うと、どんどん歩ける。六郷橋に向かうときもワクワクしたけれど、こっちの方がずっと楽しくて嬉しかった。
  
わたしは歩道橋を渡り、逗子の方から続いている海岸沿いの道に出た。
目の前には、雪を頂いた富士山が見えた。
ほんとに、ここに出るんだ、と思った。
この日も、防砂林が途切れるたびに砂交じりの風を浴びた。
湘南大橋の下では河口の潮目が白く波打ち、富士山の方からは『来るな』と言わんばかりの風が吹きつける。
それでも、この道の先に何があるのか知りたいから、前に進んだ。
3区の道は、どこまでも明るくて、終わってほしくないと俺は思った。

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